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中国残留孤児について

ymytの回答

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  • ymyt
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回答No.3

私は当時奉天で終戦を迎えました。 難民になった人達の大部分は北満に住んでいた人達です。 奉天までたどりつけた子供はすくないとおもいます。 それでも収容所になった公の建物には、子供を買いに来ている満人が沢山 いると聞きました。女の児は二百円、男の児は百円ということでした。 満州の田舎にはまだ子供の売買の習慣がのこっていたのです。籠にいれた幼児を売っていたのを戦前に見たことがあります。 当時私は六年生で、ご近所を回っては食物や衣服をあつめて、収容所にとどけていましたが、死んでいるのか生きているのか判らない人達が、コンクリートのうえに筵のようなものを敷いて、びっしり横たわっていました。ガラスもなく、筵かアンペラかがぶらさがっているだけです。そのうち集めるものが、どこの家にもなくなってしまいました。戦に負けた民はみぐるみ剥がれなければならないことを、知りました.いのちがあることだけでも有難いことなのでしょう.大陸は自然環境が厳しいので、歴史的に,敗者から略奪するのは当然のことなのでしょう。 当然のことなのだと思います。

noname#24488
質問者

補足

 貴重な御証言ありがとうございます。  特に国境付近に住んでいた人たちは、男手がなく女子供老人だけで、暴徒化した満人に身ぐるみを剥がれながらの逃避行は、悲惨なものだったと聞いております。奉天に着いたときの着衣は、ドンゴロスの袋から頭と手足を出しただけの人も多くいたらしいですね。  それでも日本人の間では助け合いがあり、回答者さんのように、苦しい状況ながらも、差し入れなど援助の手が差し伸べられたことを聞きますと、救われる思いがします。 >当然のことなのだと思います。・・・  当時の満人のレベルからしますと、残念ながらそういうことと存じます。    さて、もう今の時代となっては、満州から引き揚げられた人の体験談を聞く機会はほとんどなくなってしまいました。  せっかくの機会ですから、回答者さんの内地への引き揚げのルートやその際のご体験をお話しいただければ大変ありがたいのですが。  

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