満州事変の重大疑問B

このQ&Aのポイント
  • 昭和6年、日本所有の満鉄線路が爆破された柳条湖事件をきっかけに、関東軍が満州事変を引き起こしました。
  • 満州事変の結果、満州国が樹立されましたが、柳条湖事件の首謀者は板垣征四郎だけでなく、石原莞爾も関与していたと言われます。
  • しかし、戦後の東京裁判では板垣征四郎が起訴されて死刑になりましたが、石原莞爾は起訴されませんでした。その理由については病気が一因とされています。
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満州事変に関する重大疑問B

昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われます。しかし戦後の東京裁判では、板垣征四郎は満州事変の首謀者として起訴されて死刑になりましたが、同じ首謀者の石原莞爾が起訴されませんでした。なぜでしょうか。病気だったからですか。

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  • kusirosi
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回答No.1

石原は東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した。 また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」と述べたと書かれることが多いが、 実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」 と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。 東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろした。 なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和30年(1955年)に手記を公表してからである。  石原をA級戦犯として起訴することは証拠不足で、無理であった。 これが仮に満州事変に関与しなくても、その後の陸軍大臣とし侵略戦争の共同謀議、戦時の指揮官としての指揮下の部隊の残虐行為で 死刑になったであろうと思われる板垣との違いである。

hinode11
質問者

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ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • ssssan
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回答No.5

板垣は現役で石原は予備役だったからじゃないのかなー、石原は終戦時は予備役だったのは確実ですが板垣はは分りません私は現役だったかは。 石原莞爾が起訴されませんでしたは間違いですよーA級戦犯で起訴されてますよー、それで石原は身体不調で東京から出張裁判してますよー、極東軍事裁判酒田小法廷だったと思います正式名はそこえ石原が歩けないので支持者にリヤカーに乗せられて法定へ出席ですー。 で検事尋問に日本が如何して大東亜戦開戦に至ったかをペリー黒船で日本開国迄遡ってーそこから敗戦までの石原莞爾流歴史観をブッテ不起訴ですー初めから不起訴は違います、この一席ブッテで検事も納得出来たと踏んでます、私は、石原莞爾の本出てますので幾らでも確認出来ます。

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

hinode11
質問者

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>東京から出張裁判してますよー ??? 石原莞爾が”出張裁判?”に出廷したのは事実ですが、被告として出廷したのではなく、証人あるいは参考人として出廷したのではありませんか?

  • fgjkjn
  • ベストアンサー率0% (0/8)
回答No.4

満洲事変と大東亜戦争は、いっさい関係がありません。理由は、満洲事変はその後協定を結び停戦しているからです。ちなみに盧溝橋事件と大東亜戦争も関係ありません。これも現地で協定が結ばれ、停戦しております。シナ事変を起こしたのは蒋介石からです。第二次上海事変からシナ事変がはじまります。

hinode11
質問者

お礼

>シナ事変を起こしたのは蒋介石からです。第二次上海事変からシナ事変がはじまります。 ウーム。一理あります。

  • iton624
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回答No.3

石原莞爾は太平洋戦争直前に東条との確執からといわれている様ですが退役しています。 さすがのGHQも退役軍人を死刑には出来なかったのでは無いでしょうか。 石原は優秀な軍人の一人では有ったでしょうが、戦後、東条憎さか重要な時期に陸軍中枢にいたにも関わらず、GHQに協力して裁判を利用して持論を展開したかった、武人というようりは思想家の様な人だったと思います。 当時、色濃く残していた軍人も多かった武士の精神からすれば、恥ずべき言動で有ったことが、GHQにして見れば殺すほどの危険も感じなかったと想像出来ます。 石原は陸軍仙台幼年学校出身ですが、何年か前に気がついたのですが田中新一も服部卓四郎も、当時のダメな軍人が結構、同窓なんですね。単に東北人は作戦参謀に向かないのかとも思いましたが、この当時、随一の軍人で有った今村均は仙台出身ですが幼年学校上がりでは無いんですね。辻政信も幼年学校上がりで、この辺りの間違った幼少期からの軍人教育がダメ軍人を作ったしまった様にも思えます。ちょっと不思議な繋がりと以前から思っていたので疑問つながりで書かせて頂きました。 本題に戻りますと東京裁判の訴追理由は極めていい加減では有りますが、石原を訴追するネタは少なく、無理に作る事も無かったと言う所でしょうか。

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

hinode11
質問者

補足

退役軍人だからですか ???

  • ithi
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回答No.2

hinode11 さん、おはようございます。 そうですね。石原の場合は満州事変の首謀者でしたが、その後同じグループのメンバーだった東条英機と対立してにらまれてしまいます。お蔭で、陸軍の作戦課長、作戦部長と要職に就きましたが、その後は不遇で戦前に陸軍中将で予備役編入されてしまいました。多分、満州事変での首謀者が板垣だと目されていたからでしょう。また、太平洋戦争での彼の実績が全くないということも影響しているでしょう。また、先の回答者様がおっしゃる通り、戦後、東京裁判が終わってから、数年たってから証拠となる回想録が出てきたということも影響があるかもしれません。病気になったのは戦後になってからなので影響はないでしょう。

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

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