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死ってなんですか? 漠然としすぎた質問でごめんなさい・・・。

みんなの回答

  • midgard
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.16

心臓が停止したり脳が死んだりすると医学的に死というと思います。でも植物状態の人間を「生きている」とはいえないと僕は思います。それに、「生活」はしていても「生きている」とはいえない人もいると思います。「生きている」というのは自分で何かを考え、何かを感じ、表現ができる状態だと思います。それができない人は「死んでない」というだけ「生きている」とはいえないはずです。

sakuichi
質問者

お礼

僕はたとえ植物人間でも「生きている」と考えていますが、 midgardさんのような何かを感じ、表現ができないと「生きている」 といえないという考え方もありますね。ありがとうございます。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.15

●自然界における生き物の死を目のあたりにすることは  案外すくないものです。  それでも ときどき みつけますよね。  ひからびたみみず  木陰のおにやんま  初霜の上の赤とんぼ  街灯の下のせみ  人間の死もそのいきものたちの「死」に近づきたいものです。  ひからびたみみずの「死」を見て  すこし胸をきゅんとさせる自分でありたいです。いつまでも・・・。  人間たちも 死んで わたしの胸をすこしキュンとさせるよう  より高い生き方へ歩んでいって欲しいものです。 死ってなんですか? ●わたしの胸をすこしキュンとさせるような事柄であって欲しい事柄。

sakuichi
質問者

お礼

「わたしの胸をすこしキュンとさせるような事柄であって欲しい事柄」 素敵な考え方だと思います。少しでも多くの人に自分が死んだ時に キュンとなってもらいたいですね。

  • Kuma68
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.14

死は“無”だと思います。 もう何も思い悩まなくてもいい状態になること・・・。 No.11の方が仰ってるように解放だと言ってもいいかもしれません。 でも同時に楽しさも感じない状態であるとも言えますね。 私は魂だけ残るという事もないと思っています。 残るとすれば、生きてる人たちの心の中に思い出として残るのではないでしょうか。 誰かの中に残りたいために人はみんな一生懸命生きているのだと思います。

  • yottimama
  • ベストアンサー率28% (36/125)
回答No.13

またまた、こんにちは。NO#9のyottimamaです。  >変化の一部に死があるということはそのあとにも変化があるのでしょうか?  はい、その様に考えています。物理的に肉体が消滅したあと魂はさらなる成長を求め、輪廻転生を繰りかえしたり別の次元へ上昇したりするのだと考えています。     便宜上、誕生を始まりと考え、死を終りと考える事もできますが、始まりがわからない以上終わりも分からないのです。ならば、始まりも、終りも無いのではないか?と  この考えが私の心に響くからです。 心に響くものが私の真実だと思っています。(ただし、明日また違う考えが心に響いたら、それが真実だと思うかもしれません(笑))  sakuichiさんの『?』と感じる心を大切に人生楽しんでください。   おじゃましました。  

noname#2233
noname#2233
回答No.12

好きなこと言ってよさそうな質問なので参加します。 生きてきたことのあかしかなあ。 初めから死んでるものは死なないし。 必ず誰かと関わって生まれて死ぬし。 それは人に限らない。 この世での役目が終わるってことかなあ。 宇宙の、地球の歴史の一部っていう大切な役目が。 命は次世代へのバトンタッチ(自分の子とは限らない、他の生物の糧になるなど)を忘れないことの繰り返しを数十億年間続けている。 人って不思議な役割だなあ。

  • makow
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.11

社会からの束縛、自己の肉体からの束縛、自己の精神からの束縛、こういうものから解放されることが「死」だと思っています。 最低限生きていくためには、ものを食べなければならないし、水も飲まなければならないし、睡眠もとらなけばなりません。そういうことを一切考えず、求めなくなることだと思います。 すべての束縛や欲求から解放されたら、ずいぶんと楽でしょうね。( ! ちょっと危ない意見、失礼しました。)

sakuichi
質問者

お礼

「束縛からの解放」 グっときました。 「生きる」ということは全て「欲」だと僕は思ってますから・・・。

  • aguitar
  • ベストアンサー率28% (13/45)
回答No.10

俺は死には二つあると思いますね。自分の死と、自分以外の死と。 自分が死んだことは無いので、どんなものかさっぱり見当もつきませんが、「わーっ、死んだ!」と思ったら、その瞬間から、実はまたまるっきり同じ世界で、変わりばえ無く生きてく、なんていう不老不死が死の実態だったら、最悪ですね... 一方、自分以外の死は、体験している(はず)。 実は最近俺の身近な人が死んだのですが、遺体も見れず、葬式にもいけませんでした。 葬式がすっかり済んでしまった後、彼が住んでいた家や、使っていた道具などを見ましたが、不思議なことにまったく死んだという気が起こらず、数年経った今でも、死んだということを忘れて、「会いに行かなきゃ」と思ってしまうことが、よくあります。 「心の中で生き続ける」とよく言いますが、これほど鮮明に、鮮やかに生き続けるものだとは思いませんでした。 どうがんばっても二度とあえないですが、だからといって消えてしまったとも思えません。彼は確かに記憶の中で見え、聞こえ、存在すらするように思えます。 死体は確かに消滅するかもしれません。しかし、俺が吸収して、意識の中で構築した彼は、ほんの少しなら、自分の意思で判断することすらできます。「あいつならこう言うだろう」という程度ですが。 俺の意識の中の「彼」は、「彼」が生きているときからいたはずです。いまや実世界の彼は死に、彼の影だけが生き残った。 俺がボケたり、死んだりして彼の記憶が薄れていくと、彼の存在はようやく無にかえるのでしょうか?

sakuichi
質問者

お礼

そうですよね。主観的には死は存在しませんね。 客観的にしか死をとらえることは出来ませんね。

  • yottimama
  • ベストアンサー率28% (36/125)
回答No.9

こんにちは。すごく奥深い質問なので、答えはシンプルに  『変化』です。 死=変化、ではなく、変化の一部に死があると考えています。

sakuichi
質問者

お礼

変化の一部に死があるということはそのあとにも変化があるのでしょうか? 輪廻転生ということでしょうか?

noname#2019
noname#2019
回答No.8

生物学的なことはあまり詳しくないで、心理的な面からとらえた「死」を。 ここから居なくなること、それが死ぬことではないでしょうか。 そして誰かが死んでしまったとき、それは、その人と永遠に(少なくとも自分が生きている内は)、コミュニケーションがとれなくなるということ。 呼びかけても応えがない、と言う状態になることです。 私個人としては、死んだときに何もかもが無くなるとは考えていません。 輪廻転生を信じていますので、私にとっての死は、今世での役割の終わり。そして、魂の休息時間。 ──そういう捉え方をしています。 処で。細胞は常に生まれ変わっている、と思いませんか? 私たちの身体は、細胞の単位で常に死を迎えているのだと思います。そして、新しい生も。 そのシステムが停止した状態が、肉体としての完全な死、なのでしょう。

sakuichi
質問者

お礼

「魂の休息時間」 いいですね! 輪廻転生は私も信じたいのですが、まだそこまでいきません・・・。

noname#2287
noname#2287
回答No.7

(なにやら注意書きがあり、びびりますね!) 人間が進化の過程で取得した能力の一つです。 単細胞生物は、「死にません」。分裂するだけで、(疑うでしょうが)不死です。 その後、環境に左右されないより適者・強者足るべく、進化過程で「繁殖」という能力&手段を手に入れました。繁殖により、「より生き残れる能力」を子孫に伝える事により、人間という「種」は現段階まで来ました。 他方人間は、胎児の過程でも、ある器官が生成し、その後出産前までにその器官は「死ぬ」、無くなる事(細胞死による消滅)などにも「予定された死」の一例はみられます。 出産時には、すでに「死のプログラム」はインストゥール済みです。或る危険な因子に晒された世代は、生殖後「死」に、残した次世代以降にその因子を克服すべき個体を生み出し、生き残ります。 はじめに「単細胞生物」は死なないと書きました。その他にも「ゾウリムシ」などは、繁殖能力を持ちませんが、「分裂」ではなく「(自分で調べて)オートガミー」という「ウルトラCの手段」で、不老不死です。ただ、どちらもそこで終りです。 ところで「生命」の最初のスタイルは、「鉄」を栄養源にする「バクテリア」だという説までは認められてます。 「鉄」で「生きる」バクテリアから、ネットで「死とは?」とかやってる人間まで、そう大差ないでしょう。進化の過程で「生殖」手段を得た複雑な他細胞動物というだけ。これからだって、「生殖」を捨て「人工」的手段(遺伝子・クローンとやらの氾濫してる手段)で進化していかないとは、誰も「否!」と断言出来ない!!! 最後に。個人的には、「苦痛が無い」なら「死」はぜーんぜん「怖くない」。「死に苦痛」が伴うなら「痛がり屋」なので「避けたい、免れたい」とは思いますが。ここは、「通り過ぎる」だけでしょう。(その後は知らん!!) P.S.「…私たちは、炭素が複雑化しただけの存在なのだよ、君も肉親も燃えカスの炭と同様やがては土に返る。今の君は、高所からの視点・展望を忘れているね!…」

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