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仏教の殺生について

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.4

たとえ話になりますが「弱肉強食」について考えてみました。欧米生まれの考え方ですが、そもそもは自然界は弱肉強食がまかり通るが、神によって創造された人間は社会性を持って別のルールを作っていると言った意味合いです。弱肉強食をもって人間界のルールに適用したような引用をする本を見かけることもありますが、これは中学生でも知っている本来の意味を忘れたお馬鹿さんです。 それから現代の欧米人に弱肉強食について聞いてみると、たぶん否定的でしょう。 自然とは雄大で神々しいものだなどと言うと思います。 東洋的は発想で自然界について語ると多分、調和と循環(輪廻)の話になると思います。 ご質問の虫を助けたことですが、人間のみが感じる感傷です。 やさしさゆえですから自然界の調和を乱したとしても罪の意識を持つ必要はありません。 またしても話が飛びますが、子供の頃「ウンチ」はバイ菌がいっぱいで汚いものだと教えられたと思います。 当方はウンチとは腸内の共生細菌のコロニーで尊い物だと思います。なぜなら細菌のコロニーたるウンチを毎日出産することで、生きるために他の生物の命を奪っていると言う現実が、調和と輪廻のサイクルに組み込まれたものだと自覚できるからです。 これは近代以降の科学の発達ゆえに自覚できることで人間の英知はお釈迦様の時代より進歩しています。

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