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仏教の殺生を禁じる教えについて(質問)

仏教では生き物を殺すことは良くないことと考え、家畜を飼わず肉食を避け、菜食中心の生活が勧められてきたように思います。 しかし歴史的に、仏教の教えがなければ酪農をし、不作で飢饉の際には家畜と、家畜が食べていた穀物の両方を食べ、自分や家族の命を守ることができます。 過去、日本は飢餓民族と言われるほど飢饉が多く、結果的に仏教の教えは、自分や家族の命を大切にできないのではないでしょうか。 生き物の命を大切にしようとすると自分や家族の命を危うくする、この矛盾をどう考えればよいのでしょうか。

  • yudi
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  • ベストアンサー
  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.5

こんにちは。。  たぶん、あまりまとまりのある文章にはならないと思うのですが、少し記してみます。  仏教の戒律は、(とくに一般人に求められるものとしては)厳格な禁止事項という意味合いよりも、生の有り様を見つめるための省察事項という意味合いの方が強いと思います。(日本の仏教は、後にここらへんをいささか拡大解釈し過ぎた?と思われなくはないですが・・・)  その戒律の中でも、「不殺生戒」は、他の戒とはとくに異なる性質を持つと思います。  語弊を招くかもしれませんが、端的に言えば「守れないことを前提にした戒」ということでしょうか。  一切の殺生をせずに一生を過ごすことは、まぁ不可能でしょう。人の生がいかほどの死によってもたらされているかに思いを巡らせ、その罪悪を悔い、自身の行いを戒める、というのが、一般の人に求められる不殺生戒の本質のように感じています。(←あくまで個人的な見解)  仏教では、本来、ご質問文にあるような「究極の選択」的な矛盾を、矛盾そのままに一般の人に強いるようなことはなかったのではないかと思うのですが。  仏教は一般向け(?)には輪廻説を採用していましたから、生き物を殺した罪は巡り廻って自分に還ると説いていました。  生き物の命を大切にすることは、最終的には自分を生かすことにもつながるという図式になっていたのだと思います。  読みにくい文章ですみません。では。  

yudi
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  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.11

至って哲学的でない回答ですが、日本の地形では酪農は無理です。 近世以前においては、家畜を大量に飼おうとすると放牧しかなく、山がちな 日本の地勢では無理です。 実際、日本では農業用の牛馬を飼うのが、せいいっぱいでした。 また、仏教の教えが広がった奈良時代では、貴族は普通に乳製品を食していました。 ちょっと文献に心当たりがないのですが、獣肉も食っていた可能性はあると 思います。 日本人が極端に肉を食べなくなったのは、江戸時代からです。 これは農民を生かさず殺さずという、江戸幕府の治世方針が関わっていると 私は考えています。 歴史を振り返ると、たしかに日本は飢饉が多いですが、中国大陸に比べれば はるかに増しと思います。 向こうは仏教の影響力は限定的で、肉食OKであったにも関わらず、飢饉が はじまると飢えた人が流民と化して、その時代の王朝を倒すほどの勢力となる ことがしばしばあったのですから、その規模は日本人の想像をはるかにこえて いるでしょう。 むしろ、江戸時代後期の二宮金次郎の活動などを見ると、思想的に仏教の影響 もかなり大きく(金次郎はどちらかというと儒学の徒ですが)、仏教の教えが 飢餓を拡大したという指摘は当たらないのではないかと思います。

yudi
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noname#22806
noname#22806
回答No.10

自身が生きてゆくには他の生き物の命を奪わねばならない。これは、植物を食べても同じことが言えます。 では、太陽光で発電して人間の食べ物をすべて無機物から作れるようになれば、人は命を大切にできたことになるでしょうか? 生き物の命を大切にすること、それは問題を解消することにあるのではないと思われます。命を大切にすることは、おそらく、他の命に対してどれだけ感謝できるかにかかっていると思います。

yudi
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noname#117439
noname#117439
回答No.9

仏教で畜生にも輪廻があるかどうか、教えがあっかは勉強不足で定かではありませんが、大自然の自然な循環の中で生きるために殺すのは自然なことだと思います。 これがまた輪廻に組み込まれるなら殺生も肯定できます。

yudi
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  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.8

戒と律とを混同されていますね。 まず仏教以前からインドではkarumaという考えがあります。っこのカルマは「業(ごう)」と漢訳されることばですが、“ある行為に対しての潜在的なる力”とでもいいましょうか。卑俗な例でいうと 「悪いことをして地獄に堕ちる」・「いいことをすると天に生まれ変わる」 という考え。これで多くの人が誤解しているのは、なにか超越者による裁きでこのような結果になると考えがちですが、そうではなく、あくまでも何らかの行為の結果でそのようになる(もっとも仏教自体がこのような、生まれ変わり死に変わりする輪廻という時間軸からの脱却<解脱>という教えですが)。 身近な例でいうと「たばこを吸うと肺ガンになる」といいますね。でもたばこを吸う人がすべてガンになりますか。なるひともいればならない人もいる。その結果は今現在では分かりませんよね。  で、インドでは殺生はなんらかの悪しき結果の原因になる可能性が高いと考えた。そこで、修行者は殺生を戒めるようになる。  そのような基本的考えを仏教も取り入れた。そこで、「戒」と「律」の違いですが、「戒」はあくまでも自発的に守る戒めです。破ったからといって罰せられるものではない。そのことによって受ける結果はあくまでも自らの問題です。  対して「律」というのは集団で守る決まりです。その戒を守ることで結束したグループで取り決められるものであってこちらは他律的です。破ればその集まりで決められたルールに沿って何らかの罰があります。  さて、もともと仏教では肉食を禁じるという考えはありませんでした。与えられた食事はすべてもらう。ただし積極的に肉を食べることは由とせず、一定の律にそった肉しか食べないとしました。それが煩雑になったため、肉類全般を初めから禁じるようにないました。ですので、現在でも東南アジアの仏教圏では肉食を禁止する考えはありません。  そもそも、不殺生戒も「殺すなかれ」との戒めを授けられることで、初めて人はあまたの生命を奪って生きているという、それまで意識したいなかった事実に気が付きます。つまり戒には今現在いる自分はいかなる存在であるかを気付かせる第一歩なのです。そこからさらなる修行へと進む、それが戒なのですね。

yudi
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回答No.7

これは仏教に限らずインドの風習です、現在でも肉食は少ないお国柄です。中国では御仏前に豚肉をお供えしたりします 教えや戒は本質の部分以外は時代や地域により変化して当然です 酪農や放牧が日本の風土に合わなかったのが一番の原因でしょう 上の例では、豚をお供えしても、無用な殺生はすべきではない、という仏教の精神は中国にも確かに伝わっています 仏陀時代は出家者への布施はおもに食べ物(自分の食事の一部をお裾分けした)で、その中には肉もはいっていました、出された食べ物は当然食べていました。出家者が自分で殺生して食べたり、在家がわざわざ出家者用にと殺生した肉を食べるのは戒律違反です(仏教の戒はキリスト教やイスラム教の戒律とは違います。自主目標ともいえる性質のものでした、ただし、出家者は「自主目標達成できませんでした→しかたないですねぇ」では済みませんでした) 仏教はおもに米食文化圏に弘まりました。米作は面積あたりのカロリー生産の非常に高い農業です。それに対して放牧はどれだけ広大な牧場が必要でしょうか、エサを穀物でまかなうなら肉1kg生産に穀物5~20kg必要です。牧場経営は人口密度の低い地域、穀物生産が効率が悪い地域に向いていますが仏教の広がった南~東アジアでは米を作ったほうがはるかにいいです。宗教の戒律が原因ではなく人々が選択した結果小肉食の文化がつくられたのです

yudi
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  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.6

仏教やヒンズー教などのように、輪廻転生を考える宗教において、家畜といえども、殺す事は、殺人と同じにみなします。 そのため、輪廻転生を考える宗教において、いかに殺生を行わないかが重要事項となります。 そのため、インドなどでは、菜食主義者が数多くいます。 日本に伝来しました仏教は、輪廻転生の概念が薄まった大乗仏教でしたので、殺生の禁止が、動物だけと緩和されたものになっています。 キリスト教の中でも輪廻転生を信じたカタリ派は、異端として攻撃を受けた時も、完全者という出家した人達は、一切の戦闘に加わりませんでした。 カタリ派の拠点モンセギュールが陥落した後、改宗すれば命が助かるのに、戦闘が終わった後カタリ派の完全者となり、火あぶりにされた人が沢山いました。 輪廻転生の考え方では、現世が地獄であるとみなすため、死に関しての恐怖感が少ないのも特徴です。 死んでもすぐに現世に生まれ変わりますから。 生物を殺す事が少ないほど、徳を積み、輪廻の枠外に離脱(解脱)できるので、この事が目的で、殺生を禁じる事になります。 仏教の中でもラマ教は、転生は人間間で起こるとされますから、動物への殺生禁止概念は弱いと思われます。

yudi
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noname#17702
noname#17702
回答No.4

それは上っ面な教えなんですよ。ブッダの教えを語る詐欺集団みたいなものです。 今だって住職連中は高級レストランで仔牛のステーキに赤ワインで舌鼓。 援交を禁止する法が施行された時、逮捕されたその犯罪者第一号はどっかの高齢住職でしたね。 この間も脅して少女を犯していたどっかのハレンチ高齢住職が逮捕されていましたね。 仏教界なんてそんなものです。やりたい放題ですよ。 真面目な人ほど馬鹿を見ます。

yudi
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  • reki4649
  • ベストアンサー率21% (116/539)
回答No.3

あくまで私の個人的見解です。 ブッタは自分の息子にラフーラ(邪魔者)という名をつけました。 仏教では執着を煩悩といってそれを無くすることを目標にしています。 家族、中でも自分の子供に対する執着が一番強いものだと修行中のブッタは感じ取っていたのかもしれません。 家族を思う気持ちは尊いものです。 しかし強い思いは時に恨みや嫉妬に変わって行きます。 例えば子供を異民族に殺された親はその異民族を一生恨むでしょう。 そして差別したり虐殺したりすることに加担するかもしれない。 虐げられた異民族はまたその仕返しを・・・ と、果てしない禍根の渦に巻き込まれていきます。 また、自分の子供が飢えて死にかけている時 近くに充分な(しかしその家族が生きれる分だけの)食料を蓄えている家があったとしたらどうでしょう。 ブッタの時代この様なことは日常茶飯事だったのだと思います。 生きている限り続くこの苦しみや悲しみから逃れるために必死で考えたのが欲望や執着を一切持たず他の命を奪わない生き方なのです。 それをはっきりと自覚できて会得できることが「悟り」でありそこへ「至る道」が修行なのだと私は思っています。

yudi
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回答No.2

家畜を飼わなくても、穀物を蓄えていれば 飢饉に対応できると思います。

yudi
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  • tomy41
  • ベストアンサー率22% (322/1401)
回答No.1

仏教には詳しくないんですが自分の考えを、、 自分や家族が生き延びていく事が必ずしも最優先ではないんじゃないでしょうか、それはつまり欲ですよね、自分達が生きるために他の生き物を殺して食べるということは自然の摂理にはかなってますが、何かと争いの元になるのも確かです、自分が生きるために他の者を犠牲にする、それは仏教の教えに反するのではないでしょうか。それなら教えにのっとって飢え死にした方が人の道と考えるのではないでしょうか、、

yudi
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    こんにちは。 私は36歳の女です。統合失調症に罹患しており、家族と暮らしています。 今日偶然、美輪明宏さんの動画をYOUTUBEでみていたら、 江原啓之さんの動画に出会い、 興味深く拝見しました。 母親が子供のことや、自分自身と子供の関係を相談して、 江原さんがそれに答えるという内容だったのですが、 三人の親御さんの相談と江原さんの回答をみていたら、 大変心に響き、その後私は母に話しかけたりしたのですが、 自分でも気持ちが軽くなったと思いましたし、 母から「薬でも飲んだの?調子がいいみたいじゃない」と言われました。 私は以前から自分の悩んでいることや、 言われてつらいことなどを上手に家族に伝えられず、 妄想型でいつも家族を敵視していたのですが、 家族が突然暖かみのある大切な人々に思えてきたのです。 不思議な感じでしたが、とても相性のいいカウンセラーが、 私が何も話さずともすべて私の手の内を知っていて、それを言い当て、 私が今後どうすれば言いかを教えてくれたような気分になりました。 しかしその後も江原さんの動画をみようとしたのですが、 「スピリチュアル」や「霊的」といった言葉が気になってしまい、 またご本人がしたという不思議な体験なども正直信用できませんでした。 とても素晴らしいカウンセラーに出会ったと思ったのに、 その人を知って困惑している感じです。 そこで相談したいのですが、 江原さんの語っているような人を教え導く内容のもので、 (恐らく江原さんも宗教の人と思われますので…それとキリスト教はなんだか不完全な気がするし、イスラム教は全く知らないし、新興宗教は怖いので) 仏教の教えを平易に、 また親身になって教えてくれる本を探したいのですが、 ご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか? 切実に探しているので親身になってくれる本を希望します。 へんな言い方ですが、 言葉のフィーリングを嗅ぎ取ってくださると幸いです。 よろしくお願い致します。

  • 動物の権利・ベジタリアンの活動への疑問・質問

    カテゴリ選択上不適当かもしれませんがここが一番解答がくるのではないかと 思ったので投稿させてもらいます。 ネット上での動物の権利運動や動物愛護.ヴィーガニズム・ベジタリズムを見て疑問に感じたことがあるので書かせて頂きます ネット上故の傾向というものはあると思いますが質問させて頂きます。 疑問と言うより批判になるとも思いますが、失礼させて頂きます。 動物の権利や菜食主義の内容(スピリチュアルから倫理的・健康、色々なありすぎてあえて書きません)を見ると、なんでこの人達は自分の持っている「価値感」が他人が納得せざるおえないものだと思えることができるのだろうかと、つい思ってしまうのです。(正しいと思うことや思うから人に伝えたいとする事自体、否定したくありませんし、自由だと思います。)こういう傾向は実際に多いのでしょうか 菜食主義や動物の権利を発言してるブログ主によっては他人が自分を非難するのは自分が「正しい」事を言ってるせいで心が傷つくから非難するのだとか罪悪感があるからだ言う人もいます。こういう人も多いのでしょうか? そういう人が物事を非難しているのを見ると「正しい」と思うから非難しているのだろうかと思っても良いのかと考えてしまいますし、勝手に自分の心の価値感を全ての人に適用しているように見えます ひどい言い方になってしまいますが、この運動や思想の最後は、屠殺や肉食を犯罪とする事、弾劾弾圧とすることなのでしょうか?今、特に日本だと菜食の人達にとっては偏見や不寛容は多いと思いますが、いま少数派である菜食が、多数派になったとき、肉食を偏見したり不寛容になったりしないでしょうか? よく日本は和を全体を重んじるから菜食に厳しいという見方をする人がいますが、菜食の人も菜食を和として肉食に不寛容になっているように見えます。ただ人は人、自分は自分という事を考えにくいお国柄もあるので、菜食する人々の現状を思ってみれば、愚痴の一つも吐きたくなるということだと思います。 ただ日本において自分は大抵の日本人は主義・思想・信念で御飯を食べてるわけではないと思います。しかし、そこを菜食の倫理や思想上の食事をしてる人は忘れ過ぎな感じがあるように思います。 偏見だとは思いますがネットで活動するベジ・ヴィーガン・動物の権利等々の人は権威論証が多すぎると思います。権威論証とは簡単に言えば偉人が言ったから行なったから正しいという理屈です。 ピーターシンガーならまだしも功利主義専門でもなく動物の権利問題の専門家でもない人々を有名なだけで掲げるのは、考えもなにもなく、有名な人が自分の主義思想に合うから言ってる事が正しいと盲目的に信じているという証明になってしまわないでしょうか。なぜ有名人という理由だけで多用するのでしょうか?誤診があるかどうか疑わないのでしょうか? 動物の権利運動を奴隷解放運動と比べるのも筋違いかと思います。 奴隷解放運動と動物の権利・愛護の最大の問題点は解放を叫ぶ主体の実際の不在です。 主体が不在なのに同列に語る事自体が間違いと思うのです。 動物の権利運動とは動物の権利を主体においた運動ではなく 「動物を「正しく」扱って欲しいと思う私達の心をどうにかしてほしい権利」の運動のように見えるのです。 ですから運動上で為政者が動物の権利運動で考慮しているのは動物ではなく解放を叫ぶ人間の心情なので動物への心情ではないのだと思えるのです。 さらに言えば動物の権利とは実の所、命が大事なように見えますが「自由」を大事にしているものなのではないでしょうか?命を大事においた場合、動物園や人間の管理がある場合の方が野生より危険は少なく長寿なことが多いからです。しかし自然に暮らせと言うのは、こういう言い方も極端ですが、弱肉強食な環境で「自由」に死んで欲しいということになりますから 動物の権利とは「命」を大事に扱ったものと言うより「自由」を主体にしているものだと思います。 ただ動物の権利の運動の主体は「動物が痛みや意識を持っていると考える故の道徳・倫理上の人間の考え」が主体故に、動物が叫んでいると訴え続ける人間のことを詭弁と言うのは主観の不在という意味では合っているのではないでしょうか、ただ動物を救いたいと思う人の心を否定するのはどうかとは思いますが。 詭弁と言われそうですが、屠畜も解放も人間の勝手という点において理論上、動物は「解放」されてはいないのではないのでしょうか?解放自体に何も否定する気はありません、言い方が間違ってるのではないかと思ったので書くだけです。 ネット故にだとは思いますが、菜食の正しさを書いて肉の害を書きまくる人達は肉を食べる事を是とする社会の恨み憎しみみたいなものが書いてあったりします。自分が個人的な主観でそう見えるだけかもしれませんが(まぁ全て主観ですが)、やはり肉食を許容する社会や人へ好ましくない気持ちを抱いてる場合が多いのでしょうか? この運動は現状の畜産や食事に対する反動なのだと思いますし、道徳や倫理をとてつもなく信奉してる人がこういう運動や考えを正しいと思って行動する運動だと思うので道徳・倫理の完全証明ができないかぎり相対主義的な価値感を持つ人はあまりこの運動を担ごうとしない気がします。道徳を正しいとする証明システムは、神の存在証明と同じくらい難しいので、この運動を絶対的に正しいと証明する事はできないと思います。 この運動はある程度成功して頓挫するのでは思っています。活動が成功してそれ以上押し進めれば、一方の権利を守る自由民主主義のシステムが発動されると思うからです。それに今、少数派故に多数が正しいと言うわけではないという事を信条にしている菜食の人がいると思いますが、今度はその逆が起きるからです。と言ってもそんな所までいつになったら辿り着くのかという感じですが。 完全に世界を菜食化したいと思う人の最後の敵は「国家」というシステムです。 ヴィーガン・ベジ・動物の権利運動は自分と違う思想を許せるかという所が普及させるための一番の難関なのでは無いでしょうか?ただ許せない故の運動だとも思えるので肉食と畜産を少しでも許せば本末転倒という感じなのでしょうが。 動物の権利運動や菜食・ヴィーガンに関してあくまでネット上で見て思ってしまった事です。 日本で興味を持ってる人は運動を肯定する人ばかりで。それ故に都合の悪い情報らしいものがあったとしても、取り上げられる事が無いので、こういう問題が専門的にを取り上げるグレーゾーンなブログやサイトは見た事が無いです。色一辺のサイトだけです。動物愛護問題に関してはグレーゾーンなサイトもありましたが、ベジタリアン.ヴィーガンを扱う専門的なサイトでは目を見張るばかりの偏りですし扇動的です。海外はどうなのかは英語ができれば色々と実情がわかるのでしょうが読めないのでなんともです。でも日本より運動が激しいと言う事はそれだけ色々な見方のサイトや情報があるのでしょう。 日本で菜食や動物の権利に興味ある人で菜食をしていない人間は菜食をしてる人間より少ないと思います。だからベジへの反論も相手の見方に立たない極端なものになるんでしょう ただ結構過激なベジの人は反論してくる人の見方には同意しないし立たない感じがありますが。 自分自身は動物の権利とかヴィーガニズムには行動するような興味はまったくなくて一番は知的好奇心というものです。だから行動しようとは思いません。また動物の権利や菜食の思想そのものに対する批難を持ってるわけではありません。この問題を扱う人達の傾向自体への疑問です。 どうもネット内だと正しいか間違いかの二元論しかないのが今の日本の菜食と肉食の立場みたいです。どちらも尊重しようという感じがあまりにもない感じです。家畜を是とする人間と家畜を否とする人間ではそりが合う事は無いのでしょうかね? 個人的には(いままでもずっと個人的でした。すいません)行き過ぎた畜産と屠畜の減少や肉一辺の生活の変化には思う所がありますが、肉食と畜産を殲滅する気なのかと思うとこの思想も一種の全体主義的思想じゃないかと思える所があって嫌気が感じてしまうのです。エコファシズムっていう造語があるみたいですがそういう感覚です。ただ、今の日本だと運動する側が日本は全体主義的(広義の意味での全体主義です)かと思ってしまうと思いますが。 現状のヴィーガニズムと動物の権利に抜けている最大の問題は自分達が多数派になった時に少数派を守る事ができる安全保障です。 現状の社会はヴィーガニズムの思想があることを許容するがヴィーガニズム社会は屠殺や動物を使う思想を許容できるかどうか。 そういう所が自分は凄く気になります。 動物の権利やベジタリアン思想の行き着く先というのはどういう風になるか?権利運動や菜食主義を正しいと思う人はどう考えているのでしょうか。 個人的には、もしこの運動が達成した先にはディストピアな浄化社会があるのではないかなという想像があります。 長文失礼しました。嫌悪感がでるような文面もあったと思われますが以上のことが日本のネット上における動物の権利や菜食主義運動に自分が感じた事です。他の非菜食の人はどう思うかわかりません。菜食をしている人の内訳が上に書いたような菜食の人ばかりでは無い事も承知です。 ただこの問題に関わる人間を見て、他の人は上記の運動に関わる人はどう思い、この文章にどう感じるのか知りたかったので書きました   以上です。失礼致しました。

  • 仏教のお葬式でキリスト教徒は・・

    仏教のお葬式でキリスト教徒は・・ 家族の中に1人、61歳にして 最近韓流の影響でキリスト教徒になった者が居ます。 それを私と姉以外に秘密にしています。 先日我家でお葬式がありました。 我家は代々近所の真言宗のお寺にお願いしているのですが そこのやり方では、葬儀後自宅の神棚にお祈りします。 皆が指示通り、頭を下げたりしてる中、 キリスト教徒1名は微動だにしませんでした。 初七日に、大声で読経する際に 「私は心の中で祈るので」と1名だけ読経しませんでした。 これは自分が支持している神様がいるので その他の者には祈らないという事なのでしょうか? だとすればそれはキリスト教の教えからきているのですか? 宗教の違いがあっても、「亡くなった人の宗派」の形式で葬儀があげられるのに 異教徒だからといって、それに添わない事は宗教の自由なのですか? キリスト教ではそういう教えなのですか?たまたま家族がこうなだけですか? ちなみに家族が通ってるのは大久保にあるプロテスタントです。 教会に通う様になってから、おかしくなったので 本人に質問しても、まともな答えが返って来ず分かりません。 真顔で「人はイエス様が作ったんだよ!!」とか言って来ます。 全ての罪はイエス様が許してくれると信じてるので 謝ったり、認めて反省とかしなくなって厄介です。これ正解ですか?