• ベストアンサー

坊主が肉を喰ってもいいじゃないか

人はいつも、過ちに寛大で、その美徳は正しさを見誤る。 過ちを赦すこととは、いったい誰を救うのだろうか? その者なのか? 実在する仮面ライダー! 黒き明星だ。 さてと、、、、 仕事だ。。。。 菜食主義というのがある。 坊主は肉食厳禁が基本中の基本だと、今も語られる。 それはともかく、君たちには健康維持の基礎知識があるかい? 我が家の過程での食事とは、優先順位第1、「安全な食糧であること」第2「栄養が十分であること」第3「おいしければうれしいな」だよ。 通常の日本人は、おいしい食料が唯一の判断基準で、我が家とはずいぶんと違う。 さてと肉食禁止に戻るけども、必須アミノ酸という話もあり、大豆かチーズで補う健康管理が欠かせない。 肉食禁止は、十分な知識がある現代人だけの趣味だ。 古い時代の肉食禁止は過酷な修行の一環で、はっきり言って長生きできない。 こういうのは、西洋の「偽りの書」にある、「パンを分かち合って(お互いに)生きながらえよ」と同じで、飢餓時代の社会性の構築に欠かせなかった道徳だと類推できる。 テメエがうまい飯を食って、他人が飢える象徴が肉だった。 経済合理性で今も多く語られる話だ。 その規範と教えを実践すると、実は長生きできない。 日本人の場合は米、大豆、ホウレンソウを最小限だけ摂取する道徳は定着した。 しかし、体格が良くなった現代人が、昔の日本人の食生活を宗教的な趣味で実践して、それを信仰の証だと恍惚に浸ったら早死にする。 昔も短命だった、しかし、体格が良くなったのでさらに短命になる。 もしも宗教的な理由で、現代も肉食禁止をしたら、仏教界におけるカルト宗教的な仲間内のリンチで、強要を持続的に命令すると宗教の内部での実質的な処刑だ。 したがって、坊主なら、教職免許の習得のための研修として、健康を損なわない範囲で短期間実践しても、教えとして信者に肉食禁止を言い渡すと仏教のカルト化だ。 このように、宗教における教義の伝統は、僧職が伝統を学ぶ研修をするのはいいけども、教義として宗門に触れを出してはいけない要素があり、時代の変節で、信教の根底を見誤らず正すと所は正すことで、信仰の変遷に対する対応から、教義となる宗教上の教えの本質を絞り込んでいく道徳上の改変があったほうがいいだろう。 さて質問なんですが、哲学には、既存の命題の答えを探す以外に、自分で命題を作る手法もあります。 この質問は後者でして、命題の立案という前提で、評価と助言をおたずねしたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.5

No4、 回答は先の通り、 物事を論じるには理解が大前提。 哲学は理解する事を前提に物事の真実を探る学問。 理解を前提とせず、信じる事を前提として、 議論にならない事(これを論外と言う)も含めて心の拠り所を示そうと試みるのが宗教。 現世において人は必ず死に至る。 人は死なずして死後を体験する事は無い。 臨死体験は現世に戻れば死後ではなく、当事者しか理解できない、他者は体験してないという事実が前提となる。 理解も体験も伴わない相手に論じるのは論外となる。 …その論外を論外とせず、理解しようと議論を試みるのが哲学であり、 …その論外を論外のまま、信心を前提に論じるのが宗教。 矛盾を感じるのは、当方が臨死を体験してないから論外(議論にならない事)であり理解が一致しないのだろう。 臨死体験を前提に議論するのは、当サイトの議論回避指導もあり不可能と答えておく。 質問が求める「既存ではない命題」に対して参考程度には答えたつもり。 よって当回答は既存論を前提としない、一個人の解釈に基づいた独自の回答と理解してもらえば結構。 …参考にならなくとも批評や指摘、否定や反論、議論は無用とする。

Flareon
質問者

お礼

ああ、なるほど。 よく考えて回答してくれたし、良い意見です。 親切にありがとう。

その他の回答 (4)

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.4

物事の是非を論じるには物事を知り物事を理解するが大前提。 「肉食」とて同じ事。 肉を食わずして肉食を論じるは論外。 …一度は喰らうべし。 「宗教」は論外を論じるが本質。 死なずして死後を論じる論外が宗教。 殺さずして殺生を論じる論外が宗教。 食わずして肉食を論じる論外が宗教。 …それこそが宗教の本質。

Flareon
質問者

お礼

深すぎてわかりません。 しかしあなたの思想は矛盾点もあると思います。 何か、あなたの論理も破綻しています。

Flareon
質問者

補足

論外という意見を取り合えず突き崩しますね。 死なずして死後を論じる論外が宗教。 私は大きな臨死体験のきっかけが過去に2回あります。 こういう人物の証言や思想は宗教になりえます。 そういうわけで、死者の証言でなくても生きている人は助言できます。 殺さずして殺生を論じる論外が宗教。 昔は人は殺しても、私的な報復と立法の双方に問われなければ、当たり前のこととして人を殺しました。 僧兵というのもいました。 食わずして肉食を論じる論外が宗教。 食べないと死にますってば。 そもそも僧侶になる前は肉をたでて育ったでしょう。 日本の寺にはキリスト教みたいな孤児院は不成立でしょうよ。 肉を喰わせないと死にますから。 大豆だけでも、短命でも成人できますけどね。

  • DAMSAREX
  • ベストアンサー率20% (107/521)
回答No.3

肉を食べないとすることで特別感を演出していたと思われ、そう言いつつも見えないところでこっそり食べる時の気持ちを想像するとなんとも言えない愉悦だっただろうなと思います。 真面目なお坊さんは結構良いところまでいくがそこまで偉くはなれず、「上の人はもっとすごい」と思わせるために利用されていたのかなと。 肉を食べてはいけないは建前で、若くてきれいなお坊さんは(別の意味で)上の人に肉を食べられていたんだろうなとつい推測してしまいます。

Flareon
質問者

お礼

公的で社会参加する場合以外は戒律は破っていないと職業が成り立たなかった模様だとは、故事にも記録があるようです。 あなたの言うとおりに商売上で必要性があった。

  • SI299792
  • ベストアンサー率48% (715/1480)
回答No.2

浄土真宗では、教義で僧侶の肉食、妻帯が許されています。 葬儀でも、肉や魚が出ます。 他の宗派は協議では許されていませんが、今は行っているようです。 この記事によると、明治に全ての宗派で許されるようになったそうです。 https://www.yoriso.com/sogi/article/jodoshinshu/

Flareon
質問者

お礼

そうしないと健康被害が出るもんねえ。

Flareon
質問者

補足

この質問の起草とは、本来はかなり前にこの研究カテゴリーにUSAで禅の心得の講習をしている日本人がアメリカ人から偏見を交えた「仏教僧は菜食主義者でなければイカサマだ」という突込みに困り果てて、対応の相談をした過去にさかのぼります。 仏教の場合は、釈迦の生きた時代は紀元前500年ほどで、口伝伝承が500年あり、経典編纂期は紀元前後で、口伝時代に釈迦の無の教えが理解困難になっていたから、無を主題にしつつも宗教的な目標は空に変節していた時期でした。そしてその後に禅の概念が主流になる。 こうして宗教として時代や世相に合わせるのは健全なことで、原理主義的に過去にこだわるのは、大きな矛盾が出るという話と、菜食主義を絡めて当時は質問者に回答して、それを理解しない事とはアメリカ人がプロテスタントを否定する要因でもあるとなぞかけをひっかけていました。 聖書にパンを分かち合う美徳が説明されるのと肉食禁止は共通項のある、飢餓が日常的だった時代の「節制」という美徳に関することだと説明しました。 だから、現代の坊さんは肉を喰っても平気だという説明です。

  • mekiyan
  • ベストアンサー率21% (699/3310)
回答No.1

坊主だって肉を食いまっせ。一年のうちこの日とか、修行中は食わないというだけ。

Flareon
質問者

お礼

その通りだし、その方が正しい。 昔は誰もが短命だったから、僧職にも適用されて違和感がなかっただろうけども、いま行ったら死が近いのは了解されている。 だから、宗教を理由に強要したら、仲間内のリンチで死刑宣告的だろう。

Flareon
質問者

補足

モノ書き趣味で作成した雑考を備忘録として張らせてもらいますね。 質問とも回答とも無関係です。 ーーーーーーーーーーーーー 海外からの仰天ニュースの中には、くだらなさすぎる事で死亡事故が起きて、驚くと同時に思わず吹き出すことも多いよね。 駅のホームの最前列に立つと、人は簡単なことで簡単に死ぬことに物思いに浸る大人は多いだろう。 それより以前に友達とはしゃぎながら歩道を走って、少し羽目を外しすぎると簡単に命が危ないことに子供時代に気が付くものだ。 そういう瞬間に死について思案して向き合う人と、それが出来ない人はずいぶんと違うだろう。 死亡事故も時として笑いの種になるのに比べると、高々大損しただけの人ってのは、お悔やみもなく遠慮なく大笑いできるものだ。 笑われる死にざまをさらさないために、十分に注意したほうがいい。 ---------- 喰らいやがれ! ジャガーノートだ! 念を押しておこう。 このテキストは哲学関係の学問投稿サイトで学究用に作成された、実に格調高い哲学の本質とかかわる文章だ。 そしてだ、、、、 論戦がエキサイトして炎上同然になった場合に、鎮圧用兵器としても有用性が確認されている。 焼け野原では、怒声が鳴り止み、蚊の鳴くような意気消沈したヘロヘロな反省会しか行われなくなる。 正義の戦いだ! ----------------------- 溶け出す活火山。 あふれる男の溶岩噴火。 伝説の男子プリキュア キュアアイリスだ。 さて、あらかじめ前提を話しておこう。 ここは哲学カテゴリーにおける公開された学問研究の場だ。 哲学の偉人ソクラテスには、公開された場で自ら0721を行い、自らが溶岩噴火する姿から、民衆に哲学について話し合うきっかけを作ったという伝承があるそうだ。 哲学に敬意を表した実に格調ある質問なのだと、最後まで承知して読んでくれ。 文章中にいかなる内容が含まれても、君たちも哲学者であるプライドを崩壊させてはいけない。 さて、心の琴線に敏感な私は、時折女性から視線でなめまわされる。 そうしたのち、くさくさした気持ちを和らげるために0721すると3分ほどで溶岩噴火する。女性が普段から証言する、歓迎しない目線だ。 しかし子供の相手を生涯仕事にしている私は、その手の営みとは命のためにあるのだと、衝動に常に翻弄される普通の男性と違い、そうした行いを特別に深くかみしめる女性への誠実さと、子供へのやさしさにあふれている。 私の身体能力では、0721上の実測時で通常平均戦闘力は40分から90分だ。 90分?何の話か想像力を膨らませるために説明しよう。 大艦巨砲主義の武装自体は90分でも波動砲を発射しないことがある、しかしだ興奮状態での心臓の限界が90分でそこでドクターストップをかけ臨界を阻止するんだ。溶岩噴火の破壊力の実測スペックは不明だが、その前に心臓が限界を迎える。 朝、年老いた母が寝坊した私を気にかけて部屋を訪れチンXXXを握りしめたまま笑顔で大往生した姿の第一発見者になると、心臓麻痺が2人になってしまう。 世の中にはがん保険はあるが、腹上死保険は無いために自衛しないといけないんだよ。 お嬢さん方向けに初心者としてお手伝いする男性は3分だ。 攻略の難易度は低い。 円熟した男性の平均は10分が合格点で、15分くらいだと男性として相当な自信が持てて、実際に女性にもてるらしい。 私には、全員オリンピック出場級の単距離ランナーに思えるよ。 私にも過去にお互いを確信しあった女性はいた。 しかしこの特異な体質は、暗黙の合意の圏外にあり、しかも健康に著しい危険が起こりうるので、決心がついたなら打ち明けないわけにはいかないんだよ。 この健康問題の打ち合わせを持ち掛けた女性は全員逃げた。 90分というのは、フルマラソン級に体力を消耗する。 私はそのフルマラソンを一晩に4回挑戦できるんだよね。 そういうわけで私は哲学チェリーであり、前人未到の新記録樹立に挑戦したことがない。 自ら名乗り通りに、「実在する妖精」だ。 さて、哲学の場とは、男同士が男を磨く熱き闘技場「クラブ ヴァルハラ」だ。 この男バトルに過去に女性が参加したことがあって、女性に好意を持つと私は限りなく「俺の子を産め」に近い言い回しをする癖があるので、ごく正直に哲学の心得を説明した。 この女性に対する「哲学チェリー像」の紹介は、戦場において「哲学のジャガーノート」として機能した。 この闘技場では、とにかくなにがなんでも、気に入らないことは食い下がる。 屁理屈の類は何でもありでひたすら争いを続ける。 荒廃したヴァルハラだ。 私は特に喧嘩を売られやすい。 しかしだ、哲学のジャガーノートにはすべてがひれ伏した。 その後 私に無駄な抵抗をする無謀な勇者は見かけなくなった。 哲人への畏怖というのは、このような根源的な衝動が最も明快で、今までの不毛な話し合いは何だったのか拍子抜けだったよ。 さて、この圧倒的なジャガーノートの制圧効果は太古から利用された決戦兵器のようだ。 もっとも克明に証明しているのは、キリスト教だよ。 「愛こそすべてだ~!」「愛こそが唯一の真」これらの戦術は相手の反論を抑えるために有効であり、したがってキリストの伝道師の旗印であり、ジャガーノートとして使用するご神体に収まった。 アマテラス神学上で、「絆」「友情」などと比較して論理においては間違った根拠ではないことは、他の研究で説明した。 その伝説の起源が新約聖書であり、それは現在も有効な神話の書であるが、日本ではミカエル配下のザビエルがこのジャガーノートこそキリスト教の真髄だと歴史時代に日本で説明して回り、信用できる歴史資料は日本国内に豊富だ。 日本人は確かにジャガーノートに驚愕した。 そして大笑いしたんだよ。 ------------- 通常攻撃最大火力であるこのジャガーノートは今まで聖なる障壁に阻まれて実戦投入できなかった。 困惑していた私に証券関係でひとかどの人物が、秘密の言葉0721を伝授してくれた。 今も感謝している。 私に0721を教えてくれてありがとう。 この格調高い学術テキストは本来より多くの禁句がちりばめれていて、テキスト修正に腐心したが、最後の鍵が0721だった。 すでに何度か実践投入したが、詳細な被害報告を受け取っていて、一時的に極度のソウロウ傾向になるんだってさ。 そしてくよくよと、得も言われぬ後悔をしてからようやく抜け出せるんだそうだ。 要するに見てしまったものは、ジャガーノートに赦しを請わなければならない。 そのような形で、暴動発生時に急速に鎮静化させる効用を発揮するんだ。 諸君、平和の守護神ジャガーノート様にひざまずきたまえ。 ----------------- 私はねえ、 実生活でもネットでも腐女子から「ゲイの方ですね!」と、尊敬を込めた言い回しで声を掛けられたことが複数あるんだよ。 しかしその実態とは、、、、 「男の中の男」だ。。。。 腐女子よりもヤバイ サイコ女とか危険な女性に時折熱狂的なファンが出来るんだよ。 女性にもてた内には入らない、、、、 くだらない十字架だ。。。。

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     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 自分の生を肯定するにはどうすればいいのか??

    私の母はキリスト教徒です(世間では新興宗教に属すとされている)。 よって、私は生まれてから、思春期に至るまで、神を無意識に信仰してきました。 その信仰に違和感を感じたのは小学校高学年の時です。 私は根っからの松井秀喜ファンで小学生時代は自他共に認める野球少年でした。 しかし、その野球を捨てねばならない状況になり、また恋愛や友情も否定されました。 私の青春を否定されこの世に自分の生を肯定できるものが一切なくなりました。 (ex1:恋愛→異教徒との結婚の否定&性の不道徳に陥る可能性から。ex2:友情→信仰がない人との繋がりは信仰に反する思想を作る可能性があるから極力避けるように、ex3:部活→週3回の集会に出席しなければならず、また奉仕活動にも参加しなくてはならなかった) それに加え、キリスト教の教え(愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・親切・温和・自制などを身に着けること、暴力・性の不道徳などの否定)が私にはどうしてもできず、ペシミスティックになってしまうのです。 小学生の時にもう宗教を辞めたいと母に直訴しましたが、泣きつかれてどうしようもありませんでした。 それから、ぐだぐだと高校時代まで続けましたが、もちろん生を肯定できるものは何も生まれませんでした。 中学高校時代に隠れて3人ぐらいと付き合いましたが、自暴自棄になりすべて2週間以内に僕の勝手で別れました。 高校の途中でこのままでは死しかなくなると思い、宗教から脱退しました。しかし、そこに見えたものは絶望でした。 宗教と無宗教では善悪の基準が全く異なり、宗教は道徳を人間がすべき絶対の掟であるとするが、無宗教は道徳は個人的な良い悪いがただ社会を形成するためにあるだけであるというものでした。 その社会のルールは表向きは道徳を基本として形成されていますが、誰も道徳を守っていないという矛盾の世界でした。(社会が認める道徳的であることは、利己的・虚栄心からも成立し、根本的に道徳的ではない) そしてどっちが根本的に正しいか、人間の言葉では、決めれないということにも気づいてしまいました・・・。 私が宗教から学んだことはヒューマニズム・禁欲主義ですが、現代の競争主義・大量消費社会に精神的に違和感を覚え苦しいです。 私の心の中にはきれいごとが住みついていて、世の中の一切を無意識に否定します。その否定してしまった自分を否定してしまいます。 宗教に戻ればいいではないかと思われるかもしれませんが、宗教に対して憎しみが根本的にあるので無理です。(宗教を否定しているわけではありません。宗教を信じるか信じないかはんもちろん自由だと思います) 私はどのようにしたら生の肯定をできるでしょうか?? 前にも同じような質問をしましたが、教えてGOOのスタッフさんに了承を得たので投稿させていただきました。

  • 宗教観(日蓮正宗)の違い。

    宗教観(日蓮正宗)の違い。 ほとほと困っています。 と言うのは、彼女の家は元創価学会で、破門される以前に脱会して宗門側、すなわち法華講員です。 それはある意味正しいと思います。 私もアンチ学会ですので。 遡る事30年、中学卒業の後頃から、学会の(中学時代からは知っていた)友人がいました。 その頃、良くゴシップ雑誌で学会の批判が連載されていたのを読んでいました。 私は歴史が好きで、神社仏閣も大好きです。仕事で近くに寺社があれば一応手を合わせます。 教会も同じです。宗派は問いません。各宗派には色んな教義があってそれはそれぞれだと思います。 ただ私にはそぐわないですし、どれが正しいと言う宗教ほど信用できないと思っています。 宗教は平和だなんだと言っても人を救う事もありますが、人を殺しもします。 そこに傾倒しすぎるとカルトになってしまうと思います。  それで良くその友達と学会批判でやりあいました。時には私が怪我で入院した時、学会員の先輩とその上の人を伴って勧誘に来て、あとで大ゲンカになった事もありました。 そのあたりも「このクソ〇〇め!」と思いましたし、トラウマになっています。 その後、知り合った女性と結婚したのですが、これがまた学会っ子で両親はある意味熱心な学会員でした。 その為、学会を嫌う私と確執が生まれ、更には結婚式まで4年も出来ず、最後はあちらが渋々折れ、神道であげれましたが、その後3年で離婚。それまでには数々の義理父の嫌がらせ等々がありました。 これが2番目のトラウマ。(最悪な学会員) 今の彼女は初めそんなに宗教心はなかった感じなのですが、いまは立派な法華講員になってしまい、私の家にある(同棲中)お札、お守りに対して言い始めています。 それは、私も譲歩して返納しようと思っていますが、何だがすっきりしないのです。 いくら教義と解っていても押しつける宗教はカルトで嫌いです。 私は旅行でも近所の散歩でも寺社を周るのは好きですし、それに対しては拝みたいと一般人として思います。 また、靖国神社では英霊に手を合わせ、戦没者霊園でも献花をしたいのです。 私は教会のある都内の病院で生まれましたので、教会も好きですし、ステンドグラスやパイプオルガンも好きです。 自分の父親は真言宗ですので、逝った時にその寺の世話になるでしょう。 それも困ります。 学会は下の下(池田教)、日蓮正宗の教えがどうも好きになれないのですが、なんだか縁もあるのです。 今、彼女とうまくいっていません。これで今晩もやりあってしまいました。 宗教をやる、とりわけ他宗は邪教と言う価値観は最低で、対して知りませんが私からすれば何処も似たようなもん(語弊はあるでしょうが)だと思っています。 初めは嫌いではなかった正宗が学会と同じに見え始めています。(所詮、同じ教義) 別れるしかないでしょうか。 別々に信じるカップルもいるよと言っても納得できないようです。 とりとめもない会話になってしまい、質問とは違うかもしれませんが、皆さんはどう考えますか? また、追記したいと思いますが宜しくお願いします。