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大黒天
もとはインドのシバ神で、それが男根の象徴で、だから大黒天もチンコの象徴。 頭の帽子は亀頭で背中の袋は玉袋。 と、とあるサイトで書いてありました。本当ですか? そうすると、大黒天を拝むのはチンコを拝んでいるのと同じことなのでしょうか? 男根信仰なるものが日本全国にあるそうなので、そのうちの一つなのでしょうか?
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たたき台です。 ○ 《信じる》とは ~~~~~~~ 一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ 神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ *1 神: 次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。 *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。 *1-2 たとえば 次のごとく: 類 型: 神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人 __________________________ ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン (梵我一如) ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン) (無無一如) ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性) (仏仏一如) ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる) (霊霊一如) ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる) (霊霊一如) ・・・・・・・・・ *2 非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。 *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。 *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。 *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。 *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。 *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。 *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。 *3 対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。 *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。 *4 神の名: 前項の(1-2)などを参照。 *5 シルシ: (2-6)などを参照。 *6 心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか? *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。 *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。 *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。 *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。 *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。 * --参考-- ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~ (――または ロゴスの階層――) (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ) スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に もとづこうとする論理 * ~~~~~~~~~~~ ・ロゴス:ことば ・スピリトゥス:霊。聖霊 ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる) ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。 〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕 ・ラチオ( ratio ):理性 〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕 ~~~~~~~~~~~~~~ ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。 【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html
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