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江戸の銭湯の遊びの要素

下と若干にた質問になるかも知れません。  銭湯が遊びの要素が加わり、社交場的要素になったのは、 江戸時代が労働者達が単身赴任で個の風潮が強かったため自然に連帯が生まれた。 2点目は、銭湯内においては武士も町人も関係なかったから。民主的であったから。 2点目に関してはただの推測で根拠もありません。 どう思いますか?聞かせてください

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  • ベストアンサー
  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.2

参考まで… 外国人視点による考察です。 卒業論文「何故日本人は風呂が好きか」      第二章 風呂の日本史      第三章 日本人の特質

参考URL:
http://nara.cool.ne.jp/raki/soturon.html
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その他の回答 (2)

回答No.3

江戸時代の風呂の特徴は、「男女混浴」と「二階風呂」でしょう。 そのことについて記されている記事があります。 1.江戸時代の銭湯は朝から沸かして、暮れ七つ(午後4時頃)の合図で終わっていた。 2.銭湯は上下の別なく、裸の付き合いが出来る庶民の憩いの場所であった。 3.やがて銭湯で、客に湯茶のサービスもするようになって、湯女が大活躍し始める。というのも、この湯女たち、昼は客の背中を流しているが、夕方4時を過ぎると、売春まがいの行為をしたからである。 4.湯女風呂は江戸に銭湯が始まるとまもなくでき、商家の旦那衆や若者の間で大評判となった。 5.そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。であるが、堀丹後守の屋敷の前にあったことからそのように呼ばれた。 6.ここの「勝山」という湯女が大変な人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳に詠まれたほどであった。丹前風呂には旗本奴・町奴などの男伊達が集まり、派手な風俗を競った。これを称して「丹前風」と呼び、歌舞伎にまで取り上げられたほどであった。 6.こうして湯女風呂は栄える一方、全盛期は吉原遊郭が寂れるほどの賑わいであった。 7.しかし幕府は風紀上の問題から、たびたび禁止令を出すが、ほとんど効き目はない状態であった。その後、元禄16年(1703)、江戸を襲った震災が引き金となって、湯女風呂は自然消滅した。 町のサロン「二階風呂」の賑やかさ。 1.湯女がサービスした場所は、上がり場つまり脱衣場。ここを臨時に座敷に変えて屏風を引き回した。この湯女風呂が繁盛したため、場所が手狭になった。 2.そこで考え出されたのが二階という次第。しかし、先述したように、湯女風呂は廃止された。不要になった二階を活用したのが「二階風呂」の始まりである。 3.武士の入浴のときに腰のもの(大小類)を預かったり、男の入浴客の休息所に充てた。そこでは番茶や桜湯、麦湯などがサービスされ、湯具、駄菓子、膏薬などが売られた。また、碁将棋やくさ草紙を置いた。 4.銭湯の二階は治外法権の漫談放談の場所となり、当時の社会相を知る近道の場といわれた。二階の座敷は大広間なので、碁の師匠や生け花の師匠が借りた。俳諧の優秀句が壁に張り出された。広告のビラも張られた。また、戸棚は借り切ることができた。 5.雨降りの日には二階に直行しお喋りに時間をつぶす、そんな場所としても使われた。また、商談の場所としても使われた。つまりは、町のサロンであり、クラブであったのである。 6.この二階風呂、江戸だけのもので、関西にはなかった。幕末の頃から二階で売春を行う者があり、明治へと移行した。このこともあり、また、外から二階にいる人々の裸が見えるのは風紀上好ましくないという理由で、明治18年、二階の設備が禁止されました。

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  • Chuck_GOO
  • ベストアンサー率64% (1018/1586)
回答No.1

恐らく、この書で触れられていたように思います。(内容明確に覚えていないのですが・・・) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106003554 お近くの図書館 or 大き目の本屋さんであれば、入手しやすいかと思います。もしご参考ならば。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106003554
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