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戦国時代の火縄銃の威力についての質問

caesar-x2の回答

  • caesar-x2
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回答No.5

実のところ日本では実証主義的な考えがまだ根付いていなかったので 戦国時代の戦後で火縄銃の威力について科学的な検証は行われたことはありません。 現代になった過去の検証という意味での実験しかありませんし それは必ずしも有効性の査定ではなくて、単に火縄銃の威力を測定するものでした。 ヨーロッパではナポレオン戦争直前にフリントロック式小銃の軍事的評価を 運用や性能面で検査検証が行われ、戦術面に生かされたのですが 日本ではそれが行われなかったので、有効に活用されていたかどうかも 含めて未知数のところがあります。 特にいわゆる兵法本という江戸期に書かれた書物はいい加減なものが多く 実態を正しく表記してないものがほとんどで 戦国時代では実際の軍法は国家秘密や門外不出の家伝に属することだったので 秘密にされていたという都合で、当時の実情については今でも専門家の議論するところです。 ただし火縄銃に限らず、前装滑腔式の小銃は十分な殺傷力をもっていて そのことに議論の余地はありません。 有効射程内で命中した弾丸は致死性の被害を与えます。 ”丸い弾丸が”と表現されてますが、丸いから弱いというのは誤解です。 鉛の弾丸は人体に命中した瞬間に球面が潰れて、破断面は傷口を広げます。 現在の弾丸は流線型をしていますが、これは施線式(ライフル)に変わったことから ジャイロ効果を生かすために後尾がやや空洞になっていて爆発の瞬間に膨張して 銃口に密着するようになっているためで、弾道を安定させるための工夫ですが 威力の点では流線形も球形も特に変わりはありません。 あと連発できないっていいますが、旧日本軍の制式銃だってポンプアクションですよ。 第二次世界大戦まで、連射できる小銃は主力兵器ではありませんでした。 前装式の小銃は、一分間に2~3発は発射できます。 これは少ないように感じるかもしれませんが 百人で撃てば一分間に200発、千人ならば二千発です。 これを肩幅の密集横隊で組めば、数十から数百メートルの幅に対して 一斉射撃で弾丸の壁をつくれるわけで、キルゾーンにいる敵兵は60%は殺傷できます。 これは槍で戦った場合には全くありえない数字であって、 この高い殺傷力が鉄砲が革新的である理由です。 ちなみに刀剣や槍での戦闘では、敵の死傷率は10%に満たない程度です。 白兵戦では敵を殺したかではなく、敵の士気を挫いたがが勝敗の分かれ目になりますが 銃撃では敵を殺すというより致命的結果で敵の士気を挫き敗走に導けるわけです。 あと当世具足やそれ以前の大鎧には、防弾効果はほとんどありません。 あれは刀剣や弓を防ぐための防具です。 有名な織田信長が作らせた西洋式鎧は銃弾をはじけますが60キロ以上ある 重いものであまり現実的ではありませんでした。

tetujin23
質問者

お礼

非常に専門的ご解答ありがとうございます。 丸い弾丸が破壊力がなかったと思っていたのは誤解みたいですね、考えるに、よくテレビなんかで見る鉄の甲冑は士官クラスでほとんどの兵は農民でしょうから 軽微な鎧しか着けてなかったかもしれませんね。 ところで、鉄砲がそれだけ革新的破壊力もたらしたとすると当時の日本が世界一の鉄砲生産国だったようですので、当時は世界一の軍隊を要していたと思いますね。

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