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本当の目的

 「男は仕事第一だ」などと言われたりします.私も立派な社会人としての地位を確立したいと考えております.  しかし,ここが質問ですが,肩書きには,どこかはかない部分があるのです.成功するとかしないとかに固執して・・・大事なものを見失い・・・破局にいたる.小説などでよくある構図ですよね.  間違っても死ぬ前に「あなた○×大学卒ね」など,決して言ってほしくありません.人間だから,文字通り人の間が一番大事だと思います.しかし,地位,名声,金・・・こういった欲望こそ人間らしいところであることは決して否定できません.もちろん解釈により,すばらしいものでもあるはず.この2つの矛盾について,答えのあるものではありませんでしょうが,さまざまな角度から考えをお願いいたします.  今のところ自分としてはバランス感覚が大事と思いますがね・・・

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

「>バランス感覚が大事」というのはおっしゃるとおりだと思います。 「両者にどのようなバランス配分をするか」が難しいだけで・・・。 何にせよmonmon8000さんの意味する「見失いがちな大事なもの」とは、【>地位,名声,金・・・こういった欲望】とは対極にあるものなのでしょう。 しかし、この「大事なもの」自体が「地位・名声・金」といった「幻想」を生み出すように思われます。 正確に言えば「幻想」を纏うことを強いられる、ということになるかもしれません。 おっしゃるように「生まれるも裸。死ぬるも裸。」です。 この場合の「幻想」は、本来の自分が「社会的な人間」であるということで纏うことを余儀なくされる「ペルソナ(仮面)」とも言えるのではないでしょうか。 しかし、この「幻想」は本来「象徴」と呼ぶべきものであったはずです。 では、なぜこのような「象徴」が必要とされるのかといえば、【「大事なもの」は見えない】からでしょう。 では、「大事なもの」が見えないとなぜ「象徴」が必要になるのでしょう。 それは恐らく、人間が他者の「大事なもの」に気付く能力が未熟だから、ということではないでしょうか。 それで、「大事なもの」の象徴として「地位・名声・金」が求められるのでしょう。 決して「大事なもの」そのものではないが、明らかにその成果であり、それを連想させるに十分なもの。 この本来的な「象徴」の段階では両者のバランスを取る必要はありません(本質的意味が競合しないので)。 しかし、人間の愚かさがそれを「幻想」に変えてしまったというわけです。 「大事なもの」は目に見えず、時としてはかなく、移ろい易い不安定なものです。 【それが不安】なのではないでしょうか。 「他者の信頼や誠意、あるいは愛といったようなものを感得する能力が乏しい」という言い方も出来るでしょう。 その結果として、目に見える「象徴」を「本物」と【思い込まないと不安】になるのだと思います。 この段階で「象徴」は「幻想」にすり替わり、それと知らぬうちに一人歩きを始めます。 「象徴」は「大事なもの」から導き出されたものであったのに対し、「幻想(または錯覚)」は『象徴そのものが「大事なもの」なのだ』という「強制的な定義」をもたらします。 巷間を騒がす多様な事件の背景には多くの「幻想」が潜んでいるでしょう。 そして、非当事者のあいだにおいてさえも、【自らの内なる(これは有名なジャーナリストが昔使ったフレーズですが)幻想】に気付いていないところが、「幻想の幻想たる所以」ではあるでしょう。 「人間」ではなく「人」、を思惟することが「幻想の打破」にもつながるようにも感じます。 釈迦に説法でしょうが、「社会的」という場合の「社会」は決して善のみで成立しているわけではありません(あらゆる存在に対する善はありえないので、という意味ですが)。 「社会」の存立理由に思いを巡らせることもまた、「人」の本質を際立たせる効果があるような気もします。

monmon8000
質問者

お礼

 なるほど.これは奥が深いですね.そう,私たちは本当に大事なものを見失いがち,かつ気づきにくいのでしょう.それを何かで象徴することにより,自分を見出そうとするということになりますね.  気づきにくいその絶対的な真理でしょうか,それがあり,それの1つの象徴が現在の私の地位であるわけですか.まあ,おかしな考えにでものめりこまない限り,それらはまずまず関連しあうでしょう(そう思いたい).だから矛盾も少ないという意味でしょうね.大事なのは,人生を通してその真理を浮き彫りにするよう努めることでしょうか.よく偉人が「悟った」などといいます.それこそが本当の目的・・・  大変有難うございました.

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その他の回答 (12)

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.13

もし、お暇でしたら、こちらの3と4 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1800783 こちらの4をご覧ください。 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1402277 学歴とか地位とか名誉・・は、自分以外の何かに頼って、精神を安定させようと人間のもつ脆弱性なんです。 もちろん、自律的に行った優れた仕事の結果として獲得したものであれば、何も問題はありませんが。 仏教でいは「小欲知足」といいます。 自律的に心が安定していれば、何もなくても十分、平和で居られるという意味です。 生きることが平気になる状態を言います。 ご参考までに。

monmon8000
質問者

お礼

有難うございました. リンク集も大体目を通させていただきました.他にも回答いただきましたが,本質的には,つまり相対から絶対というわけですね.そう,依存心こそ心の悪魔かもしれません.私もそれを駆逐するため今の今まで生きてきたといいたいところです.ただ,何に仕えることにより,本質をつかもうと努力してきたのかというと私の場合は,大学関係の研究という意味です.今のところまだまだ未熟ですが,それにより,さまざまな側面を見ること,考える事が,真理の獲得につながっていくと考えております.

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回答No.11

#8です。お礼の投稿を拝見した上で追記させてください。 「自分を尊重する・自分の欲求や感情を大切にする」→「自分勝手・自己中心的」→「悪いこと」→ 「人が離れていく」という思考回路についても考えてみたことがあります。 実は「自分を尊重して大切にして満たされる」からこそ、同じように「自分を尊重して大切にして満た されたい他人」を尊重することができるのかもしれない、とか、自分を大切にするからこそ、自分がも ったいないようなことをしなくなるのかもしれない、とか、自分を大切にするからこそ、自分の行動を 的確に選ぶことができるのかもしれない、とか、自分が満たされるからこそ他人に感謝できるのでは ないか、とか、いろいろ思いました。 人間、他人の存在がないと生きていけないようになってると思います。自分の欲求をよく聞いてい れば、自分が生きやすくなるために、他人も大切にするのではないかと思います。 それから、私が一番欲して求めているものは、おそらく質問者さまと同様、他人との情緒交流・・っ ていうか他人の存在そのものです。でも、他人がどう思うかによって自分の行動が左右されてほしく ないと思います。生まれつき、自分も尊重される権利を当たり前に持ってると思います。 人は「親に産んでいただいた」のではなく「親の勝手で生まれ・・させられた」のだと思います。 親は「子どもを産んでやった」のではなく「子どもによって親にしていただいた」のだと思います。 人は初めは何の責任も持たないで生まれて来たのだと思います。 そんな子ども自身の中にこの世で生きるために必要な「自分の欲求を聞き取る」とか「それを実行し て責任を取る」という技術を発生させるとすると、やっぱり他の者(例えば親とか学校とか会社とか世 間とか)の価値観を捨てて行かなければならないのではないかと思います。 後天的に入ってきたものは捨てようと思えば捨てられます。再学習、再習得もできます。それはとて も恐ろしくてめんどくさいことで、放棄してるほうがラクだけど、放棄しないほうが面白いと思います。 ・・・自分が生きやすくなるための学習は、一生続けるのだと思います。

monmon8000
質問者

お礼

回答有難うございました. そうですね.自分の考えをしっかりと持つことは大変重要だと思います.価値観が千差万別ですから・・・ただ,他人とのトラブルに巻き込まれることの理由として,誤解,行き違いがあるでしょう.喧嘩をしている2人が,相手について全く食い違った解釈をしているのを見かけたりします.ということで,自分を持つことに加え,それを人に適切に伝えることが出来る力(コミュニケーション能力)が重要ということでしょうね.

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  • baihu
  • ベストアンサー率31% (114/357)
回答No.10

私は、肩書きの範囲を、もう少し広く考えます。 ○○課の統括課長、○○ちゃんを産んだ母親、○○さんの配偶者、○○さんの債権者、○○高校出身者、○○氏を殺した犯人、○○国人、○○星人……。全部同じように肩書きであり、役割、属性です。時限性のものもあれば一生ものもあり、自分で選択したものもあればそうでないものもあります。誇らしい肩書きも忌まわしい肩書きも、欲しい役割も捨てたい役割も。 その肩書きについて、意味を共有している相手がいて、また無関係の相手がいることも重要です。見当違いの相手に対して肩書きを誇示しても、それは無意味です。 勤務先の役職なら、社外で取引先でもない人には効力がないと思っていいでしょうし、退職後はなくなる儚いものです。でも、機能している間はアイデンティティの一部になりますし、責任があるものです。 「“先輩として”アドバイスをください」「“私の親友として”愚痴を聞いてほしい」「“企業の代表として”コメントを求められます」「その言い方って“人間として”どうなのよ」……、全部、求められている肩書きであって、本当にその肩書きで対応する責任のあるものと、そうでないものがあります。 ちょっとご質問のニュアンスと異なる角度から切ってみました。

monmon8000
質問者

お礼

有難うございました. そうですね.専門知識とか言ったものは,仕事仲間で共有します.今までの回答にも多数寄せられている通り,人間関係があり,結果地位,名声に行き着けると理想ですね.本質はどうもその辺りにあるようですね.相互に関連しあっているというわけです.でも,第一には信頼できる人間関係でしょうね.

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  • bunntann
  • ベストアンサー率77% (7/9)
回答No.9

『人は人を助ける為にある』 自分が得た知識・経験を駆使して 人を助けるから自分も人から助けられる (生かされている) 何をやっても・何を思っても良い 但し 人を助ける事で有れば! 結果の責任は自分で評価は他人が決めること (自分が満足できれば良い事:満足できない人は他人の評価が気になる)

monmon8000
質問者

補足

回答有難うございます. 「情けは人のためならず」でしたか,名言ですね.ただ,私は自然体でいようと考えております.「この人を助けたい」と心底思えたとき・・・懸命に努力する.このスタンスです.が,変に意識して,「助けたい」だと,助けた後の見返りを求めてしまうので話になりませんね.特に人生経験の浅いころなど・・・と思いませんか.まあ考えすぎず自然体で.

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回答No.8

たしかに少し昔なら、男は「良い稼ぎ手」「一家の大黒柱」であることで、女性は「良妻賢 母」であることで自分の存在価値を簡単に手に入れることができたと思います。高度経済 成長期において、人の求めるものがだいたい一致していて、世間の価値観に依存して身を 任せていれば賞賛さえされたのでしょう。 経済成長もだいたい終わって、多くの人がだいたい一致して求めていたものを手に入れた 現在、「頑張る」とか「努力」とか「忍耐」を身にまとって、そして、自分の欲求や感情を 犠牲にして(そもそもそれがどんなものなのか分からなくなって見失って?)得られるも のに疑問を持ち始めるのは当然のことだと思います。むしろ疑問を持たない人のほうが鈍 感なんぢゃないかな~と思います。親の価値観をそのまま受け継いで、疑問も持たずにそ れを受け入れて、幸せの少ない人生を送る人が多い中、質問者様に心から「おめでとうご ざいます」と申し上げたいです。 で、大切なのは、自分が欲して、自分の幸せのために、楽しんでしていることの結果、つ いでに「名誉」とか「地位」とかそんなものを得たのか、それとも、知らず知らずのうち に、世間の価値観を押し付けられて、世間に求められた自分を作った結果、「名誉」とか「地 位」を得て、代わりに自分の欲求や感情を見失ってしまったか、だと思います。 自分の幸福に無頓着にならないで欲しいと思います。 NEETというコトバとかその扱われ方なんかについて考えてみたことがあります。 そもそも生き方に「良い」とか「悪い」とか「優等」とか「劣等」とかあるのでしょうか? 少なくとも他人に決め付けられるもんぢゃないと思います。 「良い」とか「悪い」とか「優等」とか「劣等」とかそういう他人の価値観に振り回され て「自分が幸福かどうか」に無頓着になるのは損だと思います。 食って寝てるだけだとしても、本人が満たされていてしあわせを感じていて、周りの人間 も迷惑していないなら何の問題もないと思います。 問題は「それではいけない」と言って「今の自分」に幸福を感じることを拒絶する悪癖を 捨てることができないってことかも。もちろん「頑張らなくては生きる価値なし」と刷り 込まれた人に責任はなかったんだと思うけど。 (もちろん自分の幸福のために向上心を持つことはそれはそれで素敵だと思います。)

monmon8000
質問者

お礼

回答有難うございました. 確かに時代が変わりつつあるみたいですね.私は世間体に従う気は,あまりありません.自分独自の価値観で自分の実現したいことを実現しようと考えております.つまり自分が,生きていて良かったと思えるものを築けたらと考えております.ただ,その基礎的な部分が(自分の場合は)人間関係で,かつ名声を得ることが出来たら,それ以上は無いのではと考えて,質問させていただきました.大事な人の恩恵を忘れたとき,恐ろしいのではと思ったわけです.質問というか確認かな?周りの人たちは,どう思われるかなと思いまして.

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  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.7

 何かを残したいという本能が基本にあるように 思います。  自分はやがて死んで、跡形も残らないと 思ったとき、自分以外の何か客観的な存在に 自分がここに生きた証を残したいと思うのが 自然のようです。  その何かを残したいという気持ちが、 地位だ、名誉だという方向に傾くのは やはり間違いです。  次世代を築く素晴らしい子供を 育てるというのが正解だと思います。  人間は自分の感情を別なものに 転化しようとする傾向があるようですから、 この悪影響として、自分の社会的立場の 固執に繋がるのだと思います。    

monmon8000
質問者

補足

有難うございました. 「何かを残したい」ですか・・・心の底からこみ上げるこの欲求の本質は本能にあると!それは,そうでしょうが,かえって気がつかないのかな? ただちょっと質問で誇張しすぎましたが,私の価値観は,まず人間関係で,その結果が地位名声です.恩を忘れたとき,大事なものを失うのではという意味での質問でした.

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  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.6

最も重要なことは、実現したい「事」を具体的にはっきりと定めることだと思います。 学歴、地位、人間関係、名声、金を目的とするのではなく、「実現したい事」を目的にすべきだと思います。 何故なら、学歴、地位、人間関係、名声、金は最終目的ではあり得ず、むしろ、「実現したいこと」の手段だからです。何故なら、具体的に「○○を実現したい」から、どのような専門知識(学歴)が必要で、どういう役割(地位)を担う必要があり、また、「その事」を実現するために、どのような人の協力(人間関係)が必要で、どうやって人々を惹きつけ(名声)るか、そして、どの程度の規模の金が必要がかが決まってくるからです。手段と目的が逆になってしまうと、死ぬまで手段を追いかけるだけで、目的が達成されることはあり得ないわけです。 実現したい「事」は、できるだけ具体的であり、個別的であるほど、「目的」としての効力を発揮します。例えば、以下の例のように。 ◆「今まで誰も思いつかなかったような最高におもしろいネット・ゲームを開発する事」 ◆「中国でアジアの先端ファッションを立ち上げる事」 ◆「ビールでもないワインでもないが、それと同等に普及する新しい飲料を開発する事」 ◆「アジアからの移民を教育し、新しい労働者として日本に定着できる環境と制度を作る事」 ◆「携帯に翻訳機能を付けて、アフリカの人とチャットができるようにする事」 ◆「火星に低コスト・ロボットを送り込み、遠隔探検サービスを販売する事」 しかし、あまり、個別具体的に過ぎると、運よくチャンスに恵まれれば、非常に効果的ですが、必ずしもチャンスにめぐり合えない場合もあります。それを乗り越えるには、2つの考え方があります。 (1)個別具体的に追い求めた結果、チャンスに恵まれず行き詰る場合がありますが、その場合でも、個別具体的に求めた結果として、当初見えていなかった新し発見があったり、思いもよらない事態が発生することがあります。その結果、初期の目的とは具体的には異なりますが、新しい道を見出すことは、よくあることです。 (2)初めから、やや、幅を持った「実現目標」を立てます。その立て方は、個人の性格や能力の幅に依存すると思います。例えば、以下のような例です。 ◆「自分の好きな専門分野で、何か一つ、人には絶対真似のできない成果を挙げる事」 ◆「自分で独立して商売を始める事」 ◆「介護・看護の世界で人の役に立つ事」 ◆「外国語を覚えて外国人と仕事をする事」 ◆「子供達の心に夢を与えるような教育をする事」 ただし、「事」が、あまり抽象的、観念的、一般的であると、「目的」としての効力を失いますので、注意が必要です。例えば、以下の例です。もちろん、この例が悪いという意味ではありませんし、また、日頃の心構えとして悪いという意味でもありません。ただ、「目的」としての効力が弱まるという意味です。 ◆「一生懸命仕事する事」 ◆「幸福な人生を送る事」 ◆「自分らしく生きる事」 ◆「金や地位を求めず、誠実に生きる事」 以上、「目的」を3つくらいのレベルに分けてお話しましたが、その「目的」を達成しようとする背景には、「夢」を追う熱い心が不可欠であることは、言うまでもありません。

monmon8000
質問者

補足

有難うございました. 肩書きと,人は相互に関連しあうという部分が本質であると考えております.具体的な目的を決めると,必要なものがついてくるという意味ですね. つまり,「○○大学に合格したい」だったら,そのための本は勿論,協力していただける人たちがおり・・・という解釈でよろしいでしょうか?

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noname#34252
noname#34252
回答No.5

私は以前は大学卒業後に東京で働いていたものの、実家の両親の面倒をみる必要ができ地方の田舎へ帰省して、仕事を探しました。 御時勢のためか結局派遣労働者として働く事を決めてから、世の中について色々面白い物を見てきたと思います。 >地位,名声,金・・・こういった欲望こそ >人間らしいところであることは こういうと失礼ですが、女性的・お家的な考えであると思います。 ”地位,名声,金”を利用して、わがままや動物的欲望を実現するために謀略をめぐらし、保身を図って悪事を働く連中を見てきました。 法家は彼らから金を得て働きます。 女性であれば大学出の秀才エリートであるほど”強い男性”を求める本能が働くせいか、彼らに魅力を感じるようです。  周囲の人達もコレを利用し、一方で彼は周囲の人達を口実にして利用していく。 世の中が功利主義社会になりすぎたせいか、”地位,名声,金・・・こういった欲望”を達成する者程に道徳的犯罪に踏み込んでいく。 一部の人達が多大が犠牲を払わされながらにして犯罪者に捏造されていく。 姉歯の様な「世に知られた例」などは余程ましな方なのです。 >バランス感覚が大事と思いますがね・ そのためには仕事をやり過ぎない事です。 御自身の時間の当て方を考えるべきですね。 サラリーマンとして金を得て対価労働を行う身分では、少なくとも”名声,金”への希望は相当程度あきらめなけらばなりませんし、中途採用や派遣が増大した社会では地位はありません。 この点については、質問をさせて頂いております。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1837838 「 一般の人は給料を得る代わりに、手段や道具とみなされてどんなに努力しても商品価格として低コストにて売り易く販売利用されるだけです。」 もはや「男は仕事第一だ」とは言えない世の中になってしまっていると思います。 男子というのは五体満足、精神達者であれば、周囲の女性にも歓心をもってもらえますし、子供の事など身近なところで関心をお持ちになられて、社会奉仕ができる生き方を考えるべきではないでしょうか。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1837838
monmon8000
質問者

補足

他のお礼・補足でも書きましたとおり,人間関係あっての地位名声です.そこまで心配していただかなくてもと思いますが・・・そりゃ就職先の上司が悪徳業者で,悪に手を染めざるを得ず・・・とかいうと問題ですが,基本的に自分の目標を立て,その実現にいろいろと協力していただき・・・という意味ですよ.精神面が第一なのは言うまでもないですね.

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  • patofu
  • ベストアンサー率23% (137/591)
回答No.4

人の間を取り持つのは、学歴や地位、名声であったり金であったりするものです。 学歴や地位は今まであなたがどんな人生を歩んだかを示し、名声は社会的な評価、そして金はそれらの結果です。 それらを、”人と人の間”と分けて考えることはできません。 この大学にいったからあの人と出会い、あの役職についているからこの人と親交がある。 名声があるからついてくる人もいるだろうし、金があるからこそ付き合える人もいる。 これらすべてを欲望という枠でくくってしまったら、あなたは血と地のつながりしか持たない哀れな人間になってしまいます。 はたして、あなたの人間的な魅力だけでどれだけの人と、付き合えるでしょう? 猿の群れであってもボスはいます。人が言葉を持たない時代から、人と人に間がある限り地位と名声は必ず付きまとっているのですよ。 地位・名声・金を俗っぽいものと決めて、それらを求めたがらないことを主張し、あたかも自らを俗人と一線を隔していると考えることこそが、 あなたをして名声を求める俗人と同列においているのです。 俗人という言葉のニュアンスが気に入らないでしょうが、変人・奇人との対照と考えてください。

monmon8000
質問者

補足

なるほど,地位と名声が,人間関係と相互に関連しあっていることは,勿論自覚しております. ただし,ちょっと待ってください.地位と名声を求めないことを主張しておりません.逆です.もしそれらのみを求めすぎるのであれば,どこかはかないと感じ始めたということです.今の私の肩書きもさまざまな人のご協力の元でいただいているのです.信頼できる恩師も数名おられます.彼らの協力なく今の私は存在しえません.少し疑問に思っただけです.

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  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.3

>私も立派な社会人としての地位を確立したいと考えております. あなたはそう思うかもしれませんが、社会人でありたくないと思う人も想定できますね。 >しかし,地位,名声,金・・・こういった欲望こそ人間らしいところであることは決して否定できません. 社会人でありたくないと思う人は、こうした社会的欲求を持たないと思います。 つまりあなたは、「人間は社会的な動物である」という言論にとらわれているように、私には見えます。 矛盾というより、何か前提が違っているように思われます。 「バランス感覚」ということを言うなら、いつまでも《いつバランスが崩れるかわからないという不安》を抱えて生きていかなければなりません。 まずは存在、その後に名(肩書き)が来る、という見方が普通ではないでしょうか。 その存在というものは、本当に存在するかわからないのだけれども、でも、存在すると思わせる何かがあることは確か。 存在の質的側面を深く考究することで、この問題の解決が見えてくるはずです。

monmon8000
質問者

補足

回答有難いのですが,正直言って,正確に本質をつかむには抽象的過ぎてちょっと理解できません.私は哲学の専門家ではありません.もう少し身近な具体例がなければとても通じませんよ.  まず,社会的でない人を想定することの意義はなんですか?「社会的動物である」という言論にとらわれるとなぜ解決しないのですか?その考えにとらわれていると,「東大=偉い」と錯覚するなどといった意味ですか?しかし,おそらくのところ,そういう意味ではないように思いますが・・・  >いつまでも《いつバランスが崩れるかわからないという不安》を抱えて生きていかなければなりません  とあります.つまり相対から絶対という意味ですか?絶対が分かると安定しますね.それを求めるのが一生の課題といわれそうですが・・・  あと存在の定義ですが,目でものを見ているのではなく,脳でものを見ている私たちは何が本当の存在なのかを定義することができません.五感はすべて脳が作り出すのですから.  今の見解では,絶対の真理が分かれば,職業,人間関係ともそれを基盤に生じるものでしょうから本当の意味でバランスが崩れないといったようなことが,話の意図と解釈しております.  ただ,ここまでいうと対談にもなってしまいがちです.今後さらに回答していただけるなら有難いのですが,もう少し具体例をつけて,一般人にも通じるようにお願いしたします.

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    アンケート的な質問になってしまうのですが、ここのカテがいいので‥。 皆さんが本を読んで、これはいい話し、感動した、読むべき本という本はありますか。 ジャンルは問いません。 今ある病が治って、本が読める状態になり、本を読みあさっているのですが、感動した!という本にはなかなか出会えません。 もしあったら、教えて下さい。 ちなみに、最近では五木寛之「凍河」(うつ病の患者と精神科医との恋愛小説)「いまを生きるちから」(笑いも大切だが、悲や情も大切。辛いときこそ学ぶことがたくさんある)、バルベリ「優雅なハリネズミ」(哲学的な話。欲望、地位、価値、利益、意義などといった人間の汚れた欲望に満ちている世の中を批判した本)、ダニエル・スティール「輝ける日々」(生まれた時から躁うつ病の子供。頑張ってミュージシャンになるが、最後は自殺してしまう。実話) などを読みました。 遠藤周作や三浦綾子が好きでほとんどの本を読んでいます。 感動した、これは絶対みんなにも読んで貰いたい、という本がありましたら、上に書いたような簡単なあらすじをつけて、教えて下さい。 もちろん、あらすじなくてもけっこうなので、題名だけでもいいですが、できればあらすじもお願いします。 たくさん教えて欲しいです。

  • 学生時代に恋愛や性生活皆無は負け組ですか?

    学生時代に恋愛や性生活皆無は負け組ですか? やっぱり中学高校大学で恋愛経験がなく、性生活を楽しむことができなかった人は負け組ですか? だって合法的に女子高生や中学生とヤれるのは同じ学生だけじゃないですか。 それに金だ名声だ社会的な肩書きだの関係なしにお互いの魅力だけで惹かれ合い金勘定なんて考える必要がないのは学生だけですし、でも一歩社会に出たりすれば(特に女は)「金!名声!キャリア組のイケメン!」とか金目当てだったり社会的地位にあやかるかのどっちかじゃないですか。 純粋だからこそ異性に対する知的好奇心、強い性欲、敏感な性感帯とか思春期や10代の若い身体だから楽しめる特権であって社会人になって現実知って心が廃れてからじゃ全然楽しめない。 猫も杓子も社会人になったら妥協打算で嫌悪感なければいい。 おまけに経験済みで何がある頃になると顔じゃなくて中身だ。何が人間性だ。 所詮「見た目で評価するなんて若い時だけだ」とか綺麗事抜かしてますが、そんなの昔チャラ男に釣られてヤリ捨てられて失敗して懲りたから人を見る目が変わったお下がりの非処女しかいないんでしょ? 仕事もクソ忙しくなって出世競争だし、その勝ち残った男だけを選ぶって事は結局金でしょ? やっぱり ×人間性=人格、人柄 ◯人間性=金、名声 じゃないですか。 よく結婚は「人生のゴールではなく、第二の人生のスタート」と表現する方がいますが、だいたい学生時代に恋愛経験や性生活がなくて、未練タラタラのまま後腐れなく、その第二の人生なんて新たなフィールドに行けるわけないじゃないですか。 なので20代で恋愛経験の無い男が結婚もせず子供も作らず独身で自由気ままに生きていくのは当然の権利ですよね? 結婚して子供作るなんて少子化対策に貢献するのはヤリチンクソ野郎とか爽やかぶった青春野郎共だけがやるべきことですよね? 結婚なんかで今まで若さにかまけて貞操をドブに捨てた女に金目当てや打算で利用されてやる義理はありませんよね? そして思春期特有の刹那のスリルを味わえる恋愛と違って金だ地位だ名声だで取り繕って塗り固めるオトナの恋愛(失笑)に何の価値があるのですか? 学生時代に恋愛や性生活を楽しめなかった人生に何の価値があるのですか? 所詮「見た目で評価するなんて若い時だけだ。大切なのは人間性」とか言う綺麗事は昔チャラ男やDQNに釣られてヤリ捨てられて失敗して懲りたから人を見る目が変わったお下がりの非処女の手のひら返しでしょう? 質問はタイトルを含めて主にこれらです。 ちなみに回答の件ですが、無意味で得るものがない煽りやマウンティングはいりません。 自分の言葉で質問に沿った回答をしていただければいいので、「俺はこう思う」と言うようなことでも箇条書きのような形でなくても結構なのでよろしくお願いします。

  • 食事について

    自分はあまり食事に固執していません。 趣味>食事という形で、不味いものは食べたくないけれど 趣味の事をしたいため、食費などの諸経費を切り詰め、趣味のことをやっています。 先日、知人とそういった話になったのですが 美味い物を食って人間は自分を作っていくんだ、と言っていました。 自分は「バランスの良く物を食べ、自分の体を作っていく」事だと思っていたのですが どうも話を聞いていると「美味い食事が自分の性格や考え方を作っていく」ということでした。 知人は趣味で何かやるよりも美味い物を食った方がいい。 自分としては「周囲の環境や関わった人達から影響を受け、自らが作っていく」と思うのです。 確かに美味い食事は自分にとってプラスになるということは否定しません、しかしそれも周囲の環境や関わった人たちがいい人達でなければ意味がないと思うのです。 皆さんの食事についての考えを聴かせていただければ幸いです。

  • 女性「暴力的な男が好きだけど嫌い」 どっちですか?

    前回の質問で「なぜDV男はモテるのか?」という質問をさせて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q8668205.html この結果、様々なご意見を頂けました。 どうもありがとうございます。 それらの回答をまとめると以下のような感じでした。 ・愛情は暴力をもって表現される ・暴力と優しさのギャップに魅力を感じる ・暴力を振るう攻撃性にメスが本能的に惹かれる ・経済性や地位、優しさなんて人間社会が作り出した建前 ・暴力は欲望や快感 ・暴力はカッコいい ・DV男は積極的に見える ・元不良は将来優しい男になりやすい どうやらDV男がモテるのは間違いなさそうです。 であるなら、なぜ女性は「暴力的な男性」を求めないのでしょうか? 女性に、「どんな人が好きですか?」と聞くと 「優しい人」「暴力を振るわない人」「誠実な人」という答えが返ってきます。 逆に、「暴力を振るう人ってどう思いますか?」と聞くと 「最低」「ありえない」「人としておかしい」という答えが返ってきます。 この矛盾は何なんでしょうか? もう少しでなんか答えが見えてきそうです。 よろしくお願い致します。

  • 本当の目的はなんでしょう?

    下記のHPの本当の目的は何でしょう? 「スマートライフガイダンス」 http://  www.slg.ne.jp/ とても面白いことが分かりやすく書いてあるのですが、 目的がハッキリと見えてこないのです。 建前的なことは書いてあるのですが、 本来の目的はなんでしょう?

  • 三島由紀夫「金閣寺」の有為子について

      三島由紀夫の小説が好きでほとんど読みましたが、特に「金閣寺」が好きです。なんども読み返したのですが、序盤で出てくる有為子の存在がわかりません。何の意図をもってこの女性を登場させたのか。三島の意図はどこにあったのかが今いち判然としません。    私の解釈では、主人公が一方的に恋焦がれるものの吃音という障害があり、有為子はきわめて健康的で美人に描かれています。つまり醜⇔美の構図をあらかじめ書いておき、後半の私(醜)⇔金閣寺(美)の伏線を張っておいたと考えるのです。つまり金閣寺を人間の姿で表現したのが有為子であり、恋焦がれるものの絶対に手の届かない存在、神聖な世界(最後に入ろうとして入れなかった究境頂)として描いたと考えるのです。実際「美しいもの」を主人公が見た時に、そこに有為子の姿が重なるという表現がいくつか出てきます。彼女が恋人のところに走ろうとして射殺されてしまうのも、滅びの中に「美」を見出すからであり、有為子の死は最後の金閣寺炎上と作品の最初と最後でつながっている気がするのです。    ただ、それにしても何故三島は修行僧が金閣寺に放火する屈折した感情を表現するために人間(有為子)を登場させたのか、そこが分かりません。美しい人間に恋させることによって、主人公の人間臭さを表現したかったのでしょうか。要するに高度に観念的な理論の積み重ねで「金閣寺を燃やす」という結論に到達させたのでは、まるで主人公がロボットのような無機質な存在になってしまうため、あえて最初の方に有為子を登場させ彼女に恋い焦がれさせることで主人公の人間性を読者に定着させる目的があったように思えるのです。    金閣寺にはいろんな解釈があるでしょうし、各自がそれぞれの解釈をすればいいと思いますが、有為子の存在について考えるところを教示いただければ幸いです。よろしくお願いします。

  • なからざるべからず~その2~

    まだ閉め切ってなくて寝かしておいた質問の件で新たな側面から疑問が湧いてきました。 その元の質問は下記のものです。 http://okwave.jp/qa/q8757695.html 教えて!gooは古い質問をそのまま再開してもそのカテゴリーで活動している多くの人の目には留まらないシステムだったと思います。←間違っていたらその旨即座に指摘して下さい。間に合うようならこの質問を削除し、元の質問ページで続きを進めたいので。 ですので、新たに質問を立てるという形にしました。 まずこの質問を始めるに先立ち、元の質問ページはまだ解決していない、ということをここで明言しておきます。元のページを解決済みにしなかったのは、いろいろと事情があったからなのですが、6件くらい回答がついた時点で複雑さが増し、私の脳が拒否反応を起こしたほどなのですが、やがて理解が進み、7割方納得しました。その後もありがたいことに追加説明の回答や他の方の便乗質問で深みを増して頂いていましたが、私としては6件くらい回答を頂いた時点で一旦満足したものの、解決したわけではありませんでした。寝かしておいたと書きましたが、無理に解決済みにする必要もなかろうと放っておいたという方が正しいのかもしれません。 さて本題ですが、前ページの続きとなる新たな質問は、 「~なからざるべからず」は、ある点において「ぞっとしない」と類似の構造をとっているのではないでしょうか、ということです。 ここで、「ぞっとしない」について軽く説明書きしておきます。 この表現は、「ぞっとする」の否定表現です。「ぞっとする」には、恐怖で体が震える感じがしたり寒気を感じたりすること、美しいものに出会って身体を駆け抜けるような感動を覚えること、または文字通り寒気で体が震えること、といった意味があります。その否定表現である「ぞっとしない」の昔からの意味は、驚きがない、面白くない、あまり感心しない、いい気持ちがしない、となります。 一方、現代ではその本来の意味ではない意味、つまり「恐ろしくない」という意味で使う、または解釈する人がいるという国語問題があるとのことです。 ここでのポイントは、本来の用法は、「恐ろしい」といった意味の否定だから「恐ろしくない=平気だ」という恐ろしさの対極の意味になるのではなく、「恐ろしくない=恐ろしさはない=とりたてて何もない」というニュートラルの意味になっているという点です。 閑話休題、「~なからざるべからず」について考えてみます。 永井荷風 一夕を例に取ると、「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」は、世態人情の観察は細微を極むるものであってしかるべきだ、という意味です。 これを「観察細微を極むるもの」+「なからざる」+「べからず」と分解しますと、問題の 「なからざる」+「べからず」の部分は、「でないことはない」+「なんて曖昧なことではいけない」という感じの解釈が浮き上がってくるわけです。 この解釈はまだあくまで可能性であり、ですから質問を続けている次第だということに注意して下さい。 この解釈は、文脈上の実際の意味も矛盾無く説明できていますし、前ページ(qa/8757695)でkine-oreさんから提示していただいている肯定の強意表現という役割とも大枠で矛盾せずに沿っていますし、前ページのNo7-8で物議を醸している「ぞ+あり」から来た「ざり」という説の信憑性に関してもクリアされます。 再度この解釈を説明します。 「なからざる」を「でないことはない」の二重否定の意味で使うことで部分肯定とでもいいましょうか、つまり完全に肯定せずに可能性を込めたあいまいな表現にします。 そして、「べからず」でそれを否定することで、しかもベシを使った否定をすることで、部分肯定であることを否定して完全肯定へ持ち上げて強意にしている、というのが新たに出てきた解釈の仕方であり、これは私個人が仮定しているだけであり、その是非をここで問わせていただく次第であります。 よろしくお願いします。