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臓器移植の順位判断について

お世話になります。 最近は、DVDのレンタル店の、3作セットの罠にはまったり、 ろくなニュースもなく、つい、見るとはなく、旧作映画に親しんでおります。 今回の質問は、映画の内容からで、本当かどうかは判りませんが、以下です。 「臓器移植の優先順位は、コンピュータ等の機械により判断される。」 科学的にも先進的な医療の世界で、判断を機械に委ねる。 つまり、人間の判断が否定されているとすれば、この事に関して、 もし、事実なら、哲学的考察が、楽しめるのでは。 未来は、SE映画のように、コンピューターが、人間を指示し、 人間は、「判断する」というリスクから逃避するのでしょうか?

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  • kanpyou
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回答No.1

『臓器移植』の重要な点は、その重篤度合いではなく、「臓器の適合性」にあります。 上位に位置しているからといって、移植が順番どおりに受けられるわけではなく、移植後の拒絶反応(免疫反応)に耐えられ、かつ適合性のある患者が選ばれます。 そのような血液型など、免疫系の種類により、適否が『暫定的』に決まるのではないでしょうか?

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 なるほど、『暫定的』ですね、 最終的には人間が判断していると言う意味で受け取って宜しいでしょうか、 ただ、公職選挙法にも、同得票数の場合「くじ」で決定するように、判断を放棄する事があるように思いますが、適合性のポイントが同じ場合は、コンピューターは、適合者のリストを回答して、決定(くじ)はしない、と言う事でしょうか。 少々バテ気味で、頭が働かず、変なお礼になりましたが、 現実の過程も良く判りませんので、難しいですね。 大変有難うございました。

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その他の回答 (3)

  • baihu
  • ベストアンサー率31% (114/357)
回答No.4

一人の人間の生き死にを「判断する」ことと、大勢の人間の中から最優先に生存確率を上げるべき対象を「選択する」こととは、大きく離れていると思われます。 ご質問の設定で、計算機に選択させることは、判断に特定の人間の恣意性が介入しないという長所があるのではないでしょうか。 決定条件に“レシピエントの貴賎”なんてものが組み込まれているような状況でもない限り(組み込んでもいいですけど)、適合性や各人の病状の進行度合、当人の所在地などで、文字通り機械的にリストアップされることが、公正さと迅速さの二点で望ましく、それによって損なわれる価値が小さい例ではないかと思われます。 ただ、ご質問のポイントは、それでもなお、例えば移植医師の娘がレシピエントであり、ドナーの臓器と適合しているにも関らずリストの下位にランクされてしまった場合、計算機の判断を無視する非合理な利己的行動(あるいはその逆に、最優先されているにも関らず、他のレシピエントへの移植を決意するという非合理な利他的行動)が許されているかどうか、ということかなと想像します。 沈没する船の上、救命ボートに誰が乗るかという判断を誰が行うのかという命題と同じではないか、と。 両者の違いは、非合理な行動を取るのが、利得に関る当人か否かというところです。移植医はレシピエントとは別人格です。この判断を、計算機の選択より優先させるべき根拠は何でしょうか。もともと厳密な意味での利害関係者(レシピエント)ではない者が判断していたわけですから、計算機に置き換えられて否定されるものは、簡単に言えば医師の“見栄”ということではないでしょうか。 合理性の高い判断を優先することで、これ以外に失われる価値は何があるでしょうか。

noname#15238
質問者

お礼

この質問は、価値判断に関する質問では有りません。 尤も、質問も不出来で、誤解をされても仕方がないですね。 価値と無縁の「正義・義務」とかが有るのかな、と思ったのですが。 つまり、機械の判断には、失われる価値は有りませんが、人間の判断は価値を生むかもしれませんね。それなのに・・・ 大変勉強になりました、今回は理解不足でしたが、また宜しくお願いします。

noname#15238
質問者

補足

貴重なご回答、拝見いたしました。 この質問は、出来が悪く、早々締め切る予定でしたが、 ご回答の内容をもう少し理解するため、時間を下さい。 つまり、他にしたい事も有りますので。補足ではなく言分けでした。

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  • kanpyou
  • ベストアンサー率25% (662/2590)
回答No.3

専門な知識ではなく、本からなのですが、、、 移植の事例は海外のものが断トツで多く、臓器を公平に分配する組織があります。 極端な話、完全に適合する患者であったとしても、年齢的な問題や、現在の状態が重篤すぎて、移植後の回復が予測できない場合は、他の患者へ廻されます。 最悪の例は、移植手術の段階で、最終機能検査結果で、『延期』ということもあるようです。 ●発行年が古いですが、非常に参考になると思います。 臓器移植―ある心臓外科医の手記 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4484911221/qid=1131897992/sr=1-189/ref=sr_1_0_189/249-3784908-8999526

noname#15238
質問者

お礼

有難うございます。 フィクションを見て、ステレオタイプ的に質問してしまい、申し訳有りません。質問の前に、臓器移植の順位に付いて、医療などのカテで確認する必要がありましたね。前提が曖昧では、とても哲学にはなりません。 早々に、撤退させていただきます。有難うございました。

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  • lightgrid
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.2

コンピュータは、あくまで人間が予め設定したルールに従って、判断し、判断の結果を出しているだけです。ルールさえ決まってしまえば、人間と違って、主観的に判断したり、情実で判断したり、えいこいひきしたり、見落としたりすることはありません。コンピュータを利用することによって、人間は、単純な作業から解放されます。 臓器移植に関しては、No.1の方の仰る通りだと思います。 人間の仕事は、(1)コンピュータに設定するルールを決定する、(2)そのルールに従ってコンピュータが出した判断結果の妥当性を検証する、(3)コンピュータの判断を修正することにあります。判断の最終責任は、人間が負うのです。(コンピュータや機械に責任を負わせて、問題を起こしたらコンピュータや機械に厳しい刑罰を科すというのも、話としては面白いかもしれませんが。それはありえませんね。) そうなると、そのルールを決定し、検証する人々の人格・倫理性・哲学・霊性がより重要になってきます。いままで、役に立たないと思われてきたこれらのものの真価が問われるようになるでしょう。(:これが結論です。) 例えば、どのような場合に臓器移植を許可するか、を考えた場合、臓器提供を受ける人の経済的側面だけでなく、霊的側面も考える必要があります。それは、コンピュータではできません。 生体間移植にも、いろいろ問題があります。経済的強者が弱者の臓器を買ってよいものでしょうか? 脳死による臓器移植はどうでしょうか? 人間にしか判断できないことはたくさんあります。 例えば、臓器移植で臓器を提供する人(ドナー)の死後の霊体は、自分の死を知っているでしょうか? 霊体は、自分の死を自覚していないと、自分の臓器を取り出されることに納得しないでしょうし、臓器の提供を受けた人に憑依するかもしれません。(以前、テレビで、臓器提供を受けた人の思考や嗜好の影響を強く受けるという話をやっていました。) 臓器の提供を受けようとしている患者は、なぜそのような障害を持つにいたったのでしょうか? その障害の状態で、精神的・霊的に何かを学んでいるかもしれません。 その臓器提供にかかる公的費用を使えば、実は、もっと多くの人命(飢餓・戦争の犠牲者)が救えるかもしれません。医療関係者は、医療技術の進歩と高度医療の提供を優先しがちです。 また、現代人は、死を否定的に好ましくないものとして考える傾向にあります。人の人生は今回限りと考えています。それゆえ、必死になって臓器提供を受けて1日でも1年でも長生きしようとするのでしょう。しかし、人間は輪廻転生し、困難な死によって、本人も、周囲の人間も、何かを学んでいるはずです。仮に臓器提供を受けなくても、人はいつか死んで、輪廻転生するのですから、本来、臓器提供を受ける人の今回の生や死にこだわる必要はない、と思います。(輪廻転生を信じないなら、逆に今回精一杯長生きしても、後に何も残らない、全て空しい限りです。・・・でも、実際はそうではありません。) それでも、臓器移植をするなら、臓器提供を受ける必要性をどのように判断するかを、人間は判断しなければならないでしょう。それは、コンピュータではできません。

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 示唆に富む内容、大変勉強になります。 ただ、>(:これが結論です。)以下は私には難しすぎました。 そもそも、私が直に感じる「精神」が難解なのに、 「霊体」は私には手におえません、もう少し勉強してみます。 有難うございました。

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  • 子どもの脳死移植がありましたが、

    週刊文春によると、自殺との情報が出ているそうです。 http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/ なんだか複雑な気持ちになりました。 交通事故との報道だったので、中々親としては受け入れがたい話、普段から情に流されない科学的なご両親かなと思っておりましたが、もし、それが事実なら、うーん、子どもは命を懸けて何を伝えたかったのかなと思わざるを得ません。 「彼を失ったつらさや悲しみから少し救われるような気がしています」 この言葉も受け止め方も随分違ってきます。 勿論、法律的には不備はないのでしょうし、新潟県での鉄道自殺を図った中学生と噂されていますが、その真贋はこういう制度上絶対肯定も否定もされませんから、あくまで、噂であり、また、善悪を問う性質のものでもありません。 自殺なら、その本人の死にたいという意思を、一刻も早く認めるほうが肉親は精神的に楽でしょうし、その後も誰かの役に立っている、どこかで彼の一部が生かされているということは、確かに「救われる」思いでしょう。 残されたものが持つ、なぜ子どもは死を選んだのかという辛い辛い問いかけも「少し救われる」でしょう。「良いことをした、彼らしいと思う」ことができる、通常の自殺者の親とは異なる地平を得たわけです。なんとも複雑です。 しかし、利用できるものは生きているものに利用したほうがいいとの合意の脳死移植ですから、そのパーツのみならず、自死の動機すらも生きている者が利用していいのでしょう。 私は、別にこの親御さんを批判しようと思っているのではないのです。我が子の突然の出来事、死が目前。誰だって正常ではおれません。受け入れがたい現実を前にして、選んだ判断が正しいかどうか誰も自信もてません。 ところで、自分の場合に当てはめて考えてみました。幼い子ということで、孫を対象にします。小学生の孫が2人おります。憎たらしいことも言いますが、やはり孫は孫です。そして、嫁が疑惑の(つまり浮気をしていた)3人目をお腹に宿しております。上二人だと、決心がつかないです。でも、今度の子なら、ああ、どうぞどうぞと脳死前から言ってしまいそうです。人間なんてそんなものです。 私が言いたいのは、遺族のほうではなく、周りのほうです。 初の子どもの脳死移植です。もう少し慎重でも良かったのではないか?肉体的に虐待がなかったとしてそれでよかったのか? 私が、3人目の孫をこれから精神的に苛めて自殺に追いやっても、人の役に立ったと私は救われるんでしょうね? 札幌医大で心臓移植があった事件では、医者の功名心があぶりだされました。 この移植も、なんだか移植をしたいほうばかりの思惑が優先しているようで、手放しで良かったと思えません。 しかし、この少年は多くの善を与えたんですね、臓器以外にも。それだけは認めないといけません。 今後、死後の臓器移植を希望する自殺少年が続かないように願うばかりです。 皆様はどう思われますか?

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    この映画なんですか?昔見た映画がどうして思い出せません。 1)ヒロ中村という少年がいます。未来で、世界はコンピューターが氾濫して、人類と戦います。 その少年は未来に起きるその戦争で、指揮官となり戦います。そのヒロ中村を暗殺しようと コンピューターが鈴木を過去に送り込みます。しかし、ヒロ中村の母親を暗殺しようと 未来のヒロ中村が過去に送り込んだ人間と母親が戦うというSFです。 2)2では、再び未来から資格が送り込まれます。その資格は、今度はヒロ中村を暗殺しようと しますが、再び未来からヒロ中村が味方を送り込むという話です 3)そしてついに、コンピューターが氾濫します。 この123の映画はなんですか? 確か3では、ヒロ中村が未来へタイムスリップしたりしたようなキガス