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『源氏物語』の注釈

 室町時代成立の源氏物語の注釈書である『河海抄』についての質問です。 「夕顔巻」にある一文「汗もしとどになりて、われかのけしきなり。」の「われかのけしき」に対して『河海抄』は、   夢たにも何ともみえす見ゆれともわれかもまどふことのしけきに万葉   として、『万葉集』にこの歌があるかのように書いてあります。  また、その後に、   案之此哥詞不叶古今我か人かと身をたとる世に此哥の心歟 とあります。江戸時代の注釈書『湖月抄』でも同じようなことが書かれてあるんですが・・・。  質問はふたつあります。  (1)『万葉集』にこの歌はある、という感じで書いてありますが、載っていませんでした。私の探し方が悪いのでしょうか? もし、この歌を知ってらっしゃる方がおられましたら、出所等教えていただけると嬉しいです。  (2)小学生みたいで恥ずかしいのですが・・・。 歌ではなく、その後の一文の意味が今ひとつ判らないので(汗)。教えて下さい・・・。そもそも読み下し文が甚だ怪しくて。  一応は考えてるんですけども。 「これ考ふるにこの歌のことばに叶はざるか。古今”我か人かと身をたとる世に”この歌の心か(よ)。《この歌を考えてみると”われかも”という歌の言葉の意味では『源氏』での意味とは違うのではないか。『古今』にある”我か人かと身をたとる世に”の歌の意味の方が相応しいか。》」  「歟」を疑問ととるか詠嘆と取るかでまた違うんですが。私の訳が思いっきり違っている可能性の方が高く(泣)。ご教授お願いいたします!!

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noname#2543
noname#2543
回答No.2

#1の方と重複しますが。 (1) 万葉集2595「夢(いめ)にだに何かも見えぬ見ゆれども我れかも惑ふ恋の繁きに」です。 万葉集の訓読の仕方は、現在でも諸説あるように、中世と現在では異なります。万葉集をどのように読んでいたか自体が研究の対象になっているくらいです。 ex.滝本典子「河海抄所引の万葉歌」『源氏物語の探求』1 (2) ご推察の通りだと思います。 思うに、これは先行注釈書を意識した自説の展開でしょう。実際「紫明抄」には「夢にだに・・・」が引用されています。 つまり、「『夢にだに・・・』が通説だが、思うに、この歌詞は適合しない。古今集963『我か人か・・・』、この歌における意味であろう。」ということです。 ただ、やはり万葉集の歌の方がここでの意味としては適合するように思えます。それゆえ、この説が「湖月抄」などでも採られたのでしょう。

mikasa
質問者

お礼

ご回答どうも有難うございます。    『万葉集』2595番。見てみましたら、載っていました!嬉しかった!!  何か、私が使っていたとある索引は「万葉集十一 2995」となってたんですね。いくら探しても見つからないハズです(笑)。2995番は、巻11じゃなくて、既に巻12に突入していて、その時点で変なんですよね。お陰で訳が分からなかったのが、スッキリしました。  この通りなんですか!? そう言って頂けると、嬉しいやら恥ずかしいやら・・・。  自信を持って、学校に提出しようと思います。  本当に、どちらの歌が相応しいのでしょうね。どちらでもいけそうな気がしないでもないですが。でも、歌の内容などから考えれば、私も万葉集の方があってるかなと思います。  今回は本当に有難うございました!!

その他の回答 (2)

noname#2543
noname#2543
回答No.3

(訂正) #2の回答の最後の一文「それゆえ」以下は削除です。勘違い。

mikasa
質問者

お礼

了解いたしました。  わざわざ、有難うございます。

  • machar
  • ベストアンサー率33% (1/3)
回答No.1

1について 中世の物語や和歌の注釈では、和歌のあと「万葉」と書いてあるのに、万葉集に見られないものが多くのっています。この河海抄のうたも同様なのではないかと思われます。 『新編国歌大観』の一巻~七巻まで(手もとにはここまでしかなかったので)見てみましたが有りませんでした。 2について 書き下しは 之を案ずるに此の歌の詞叶ず、古今に我か人かとみをたどる世に、此の歌の心か となるでしょうか? 内容は「このことを考えるに、此の歌の詞は相応しくない。古今に「我か人かと身をたどる世に」(とある)、この歌の心だろうか」 という感じになるのではないかと思います(お書きになっているのと変わらないですね)。 「歟」については、疑問と取るべきではないかと思います。 お答えになっているかどうか分かりませんが…

mikasa
質問者

お礼

 ご回答、どうも有難うございます。  『新編国歌大観』については、私も見てみました。そして、載っていなかった(泣)。  わざわざ、そこまで調べて下さったとは、ホントにもう、感謝いたします。  >中世の物語や和歌の注釈では、和歌のあと「万葉」と書いてあるのに、万葉集に見られないものが多くのっています。  ・・・そうなんですか!?知りませんでした!何でも鵜呑みにせず、初めは疑ってみろ、ということなのでしょうか・・・。以後、心に留めておきます。 書き下しは、前半が少し私の文とは違いますね。でもあまり変わらない。それだけで、少し心強いです。 「歟」については、「疑問じゃないかなあ~。」と思いつつも、こんな字初めて見ましたし、自信がなかったんです。辞書を引いても「疑問もしくは詠嘆」みたいにしか載っていないし。けれど、「疑問と取るべき」と仰って頂けたので、そのように取ろうと思います。  今回は本当に有難うございました! 

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