• ベストアンサー

現人神という思想は誰が考えたのでしょうか?

戦前は天皇は現人神であったという思想があったそうです。 大正時代まではそのような思想はなかったのではないかと思います。 いったい誰が考えだして広めたのでしょうか? まるでイエス・キリストのようですね。 よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数8
  • ありがとう数0

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • reny
  • ベストアンサー率32% (81/252)
回答No.6

明治維新の精神的バックボーンになり、またそれ以降のイデオロギーの源泉になったものに、山崎闇斎-浅見絅斎(けいさい)の「垂加神道(すいかしんとう)」の流れがあります。 天皇を唯一の正統的な日本(アジア)の支配者であると位置付けたのは、このあたりが最初で、時代的には江戸時代の初期の早い時期にあたります。 (浅見絅斎の「靖献遺言」と言う中国の尊皇的・理想主義的な人物の列伝は幕末の志士たちのバイブルとなっています)。 こういった思想は、為政者やその周辺の日本独自の歴史観を模索する学者たちの間の限られたものでしたが、水戸光圀の大日本史や本居宣長などを通して幕末までの間に純度を高めながら次第に知識人の間に浸透していきます。 倒幕・大政奉還と言った明治維新に活躍した人たちの行動の正当性はこれによって裏付けられ、大東亜共栄圏へと進むその思想的裏付けも担っています。 明治政府は近代国家を成立させる上で、民族的な同一性を高める必要性に迫られていました。 江戸時代までの日本に住む人々の多くの所属意識は、武士における藩が最高のレベルで、地理的な日本全土を「我が国」として意識することはありませんでした。 そこで、それまで存在しなかった「日本人」を成立させるために、この思想を利用します(この当時に現れた「民俗学」もそう言う面で利用されています)。 「現人神」と言う表現自体の初出は分かりませんが、「おほきみはかみにしませば・・」と言う本質は、明治において国民の間には既に浸透していたと思います。

その他の回答 (7)

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.8

何だか勉強になる回答がいっぱいですね。 徳川家康が神になるように近世まで偉い人間が神になることが続いていたのが日本ですね。 民衆にとっちゃ、危機の時に突如現れて危機を払いのけてくれた人は敬意を評して「カミ」として崇め続けたそうです。 その心理から天皇さんは何とかしてくれる存在である。と植えつけえていったのかもしれません。 明治初期は民衆の教養レベルは読み書きすらままならない人間ばかりでとても天皇を「現人神」として奉ることは出来なかったと思います。 後は教育の結果でしょう。 日本が学校を整えたのが明治後期。 その卒業生が親の世代になったのが大正初期。 天皇が現人神である思想はここにきてやっと民衆レベルになったんだんと思います。 後、教育の裏には優秀な兵士の教育があったのです。 読み書きが出来ないと武器の取り扱いや文書が手渡せない。 銃弾は物理法則と算術が必須。 海軍では特に機器の扱いが膨大。 天皇を崇めることで、軍での上下関係をきちんとさせる。帝国軍は天皇の軍隊ですから。と。 ちょいとずれてすいませんでした。

  • ZeroFight
  • ベストアンサー率15% (30/189)
回答No.7

いろいろな回答が出ていますが、近代天皇制における現人神という趣旨で言えば、6の回答が正解だと思います。 6の回答は、山本七平の『現人神の創作者たち』という有名な本を要約したものです。山本七平は歴史学者ではなく、学問的訓練を受けてもいなかったので、論文なんかで引用されることはないんですが、実はかなり広く影響を与えています。ちゃんと知りたいなら、『現人神の創作者たち』を読むといいですよ。

  • Sombart
  • ベストアンサー率16% (45/267)
回答No.5

 誰が、という話は私もわかりませんが、いわゆる「現人神」というイメージは、昭和からですね。  一応、大日本帝国憲法には「天皇ハ神聖ニシテ冒スヘカラス」などと書かれています。が、山形有朋が御前会議で居眠りしてしまった明治大帝を刀の柄でつついて起こしたようなエピソードもあり、維新の元勲から見れば天皇は現代でいう「象徴」に極めて類似したものでした。  そもそも、維新のとき、天皇は「玉(ぎょく)」呼ばわりされて、取れば官軍になれる将棋の駒のように捉えられていたのです。その時代をしっている元勲ならば、いわゆる「現人神」というイメージを持つはずがありません。  ここで補足なのですが、「神」という単語、極めて誤解の多い言葉です。  本居宣長が述べたような、よく分からないが力のあるものを、古来の日本では「カミ」と呼んでいました。それがキリスト教の God の翻訳にも流用されたから、神というのはすごいものだという誤解が広がったのです。  キリスト教の God は天地創造をしてしまうパワフルな人と隔絶した存在ですが、日本古来の「神」は違います。西行の詠った「何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という臨在感がベースになる概念で、しかも靖国や太宰天満の例で分かるように、人でもなれる存在です。  そのようなもののうち、直接の先祖であった神々を祭祀する家系として、天皇家は古代から現代に続いています。柿本人麻呂が「おおきみは 神にしませば」と詠ったのは、その意味です。  なお、エジプトのファラオの例も出ていますが、古代ローマでも建国神話の登場人物の直系がそこここにいる世界でした。たとえばカエサルはヴィーナスの子孫です。ケルト民族も天下った神が部族長の祖先だという神話を持っていましたし、蒼き狼と白き雌鹿をハーンの祖とするモンゴルですが、この狼や鹿は神の変化したものです。ポリネシアやアフリカ、ネイティブアメリカンにも民俗学の研究で、そのような神話を持っていることが確認されています。  要するに、世界中に交流が無かった所にまで神の子孫が今の人間であるという思想があるわけで、これはどこがオリジナルというよりもヒトの脳はそのような発想をするものだと考えた方が合理的です。  ちなみに、現存する国家で神の子孫がそのまま残っているのは世界中で日本だけです。民俗学の化石とも呼ばれており、それだけの伝統を誇ってよいことだと思います。  しかし、そのような発想を根こそぎ潰していったキリスト教やイスラム教が、現在は人口比では絶対多数を占めているので、God 的な神概念の方がメジャーになってしまっているのが現状です。  なお、「現人神」の概念が、キリスト教と似たものになっていったのは、列強と対抗するために国民国家を形成するための装置として必要だったからと言えます。偶然ではありません。

noname#113260
noname#113260
回答No.4

この考えは概ね天智天皇の時代に成立したと思います。 「大君(天皇)は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」:柿本人麻呂 これは天智天皇の皇后でもあった持統天皇を讃えた歌ですが、これ以前は諸豪族の長として大王として君臨してましたが、この天武期からは人臣から一段上の神の領域に上り、他の豪族が取って代われないようになったようです。 http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-27.htm

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.3

王が神である、という思想はたしかに#1のかたが仰るように古いです。というよりも王の起源と神の起源はかなりちかいところにあったと思われます。 日本書紀などには、同じ神が(えらいひと--->神人--->神)と、変化していくのが見える記述もあります。そういう意味では普遍的にあった、といってもいいのですが、近代日本の現人神、というのは実はこれと似て非なるもの、明治国家が新規に創設したものではないかという考えが(#2さんの仰るように)あります。 このあたりについての研究で最近出版された本 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089195/250-6866190-4180212 はなかなか参考になりました。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089195/250-6866190-4180212
  • sssinyaaa
  • ベストアンサー率48% (235/480)
回答No.2

「現人神」の思想がいつからあったのかは知りませんが、 この時代に「現人神」という言葉と天皇を結びつけた仕掛け人がいたんでしょうね。 どこの誰だかこれまた知らないのですが、「戦争準備室」のプロジェクト会議でこの啓蒙作戦を考え提案した   奴   がいるんでしょう。 今の時代で言うと「出来る奴」と呼ばれたんでしょう。 というわけで、まったく答えになっていません。申し訳ありません。

  • stonerose
  • ベストアンサー率21% (14/65)
回答No.1

現人神の思想は、古くはエジプトのファラオまで遡ります。エジプト文明では、ファラオ=人間の姿をした神、という事を頑固に主張しています。多分、ここら辺が最初だと思われます。

関連するQ&A

  • 現人神、他の皇族?譲位後?

    1、戦前天皇は現人神とされていましたが、その他の皇族は神ではなかったのですか? 2、上皇になったら神ではなくなると考えられていたのですか?(譲位は想定外?)

  • 死んだ人間を神に格上げする、靖国の思想

    死んだ人を仏と言いますが、仏は神様ではないし、一神教では到底、死んだ人間を神にはしません。 靖国では戦士した軍人軍属を軍神として祀っていますが、死んだ人間を柱という神の単位で数えるなど、死んだ人間を神とする思想は、神道の思想なのでしょうか。靖国独自の思想ですか。戦前は天皇が神様だったので、死んでも神として祀られることは無かったと思いますが。多神教ゆえですか。

  • 国家神道という宗教

    戦前は、国家神道、という国家の宗教があったようですが 「神道は宗教ではない」、から、憲法の信教の自由とは矛盾しない、とされました。 祭政一致にするため、天皇を現人神にしたそうです。戦後に、天皇は人間宣言により、 人となりましたが。一方、宗教では、マインドコントロールや洗脳が問題となります。 本当の自分の意志によらずに、いろいろな手段によって主義・思想を持たされてしまうようです。 天皇を現人神として、国家が宗教をやっていた訳ですから、マインドコントロールなどによって、 特攻や集団自決までもが行われたのでしょうか?

  • 戦前はマインドコントロールを受けていたのですか?

    戦前は、国家神道、という国家の宗教があったようです。「神道は宗教ではない」、から、憲法の信教の自由とは矛盾しない、とされました。祭政一致にするため、天皇を現人神にしたそうです。戦後に、天皇は人間宣言により、人となりましたが。一方、宗教では、マインドコントロールや洗脳が問題となります。本当の自分の意志によらずに、いろいろな手段によって主義・思想を持たされてしまうようです。 天皇を現人神として、国家が宗教をやっていた訳ですから、マインドコントロールなどによって、特攻や集団自決までもが行われたのでしょうか?

  • 現人神とあきつ神

     以下は、山岡荘八『小説太平洋戦争』の一部です。どうしても意味がわからない部分があるので教えてください。  日本の国体の尊厳は今日の近代風な合理主義をもってしては、はなはだもってわかりにくい。私の狭い交際範囲内でも、陛下の軍隊の軍人として育っていながら、それが理解できずに苦しんでた人を私は何人か知っている。  生理的にわれわれとまたっく同じ条件の肉体に支えられて生きておわす方が、なぜ「あきつ御神――」であるか?  それがどうして「絶対――」でなければならぬのか?というような疑問や質問を数度の従軍で、しばしば私も受けたものだ。中には現人神と、あきつ御神を取り違えて、超国家主義者にしめあげられたというような愚痴も聞いた。  わかろうとしない人がわからぬのは当然として、わかろうと努めながらわからぬ人を見ると心が痛む。そうした人に私は「禅をおやりになってみては?」とすすめてみたり、古事記や万葉集を送ったりした覚えがある。  阿南大将は、そうした国体の深遠な生命観に、宮中の陛下の御行司でふれることができたと洩らされている。大嘗祭りや、神嘗祭、新嘗祭りといった御行司の中から悟られたのであろう。……  これは、終戦を決めた天皇の聖断に対し、同じ陸軍でも玉音盤を奪取しようとした近衛連隊と、至誠を貫いて自決した阿南大将との対比について、作者が語ったくだりなのですが、私には「現人神」と「あきつ神」の違いがよくわかりません。何故それを取り違えるとしめあげられたのでしょうか。また、「超国家主義者」とは、石原莞爾将軍のような大東亜構想を持った軍人のことと考えればよいのですか?よろしくお願いします。

  • 神は一つである

      ある人の考え。 神は一つであるとゆー。 そしてイエス・キリストもアラーの神もヒンズー教の神も名前が違うだけで実は同じ神であるとゆー。 またイエス・キリストもイワシノアタマも名前が違うだけで実は同じ神であるとゆー。 実際、イエス・キリストはイワシノアタマと同じなのか。  

  • 神について

    イエスキリストは「神」なのでしょうか。実は彼は「黒人」だったと聞いたことがあるのですが。 偶像崇拝は正法では禁じたそうですが、そもそも「神」とはどのようなものだと定義されていたのでしょうか。

  • 昭和天皇の《人間宣言》=《現人神ではない》か

     1. 問われるのは 次のくだりだと思われます。  ▲ (《新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ》) ~~~~~  https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B9%B …  (あ) 朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、  (い) 終始相互ノ信賴ト敬愛トニ依リテ結バレ、  (う) 單ナル神話ト傳說トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。  (え) 天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、  (お) 且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス  (か) トノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  2. (あ)の《天皇と国民との間の紐帯》は (い)の《終始相互ノ信賴ト敬愛トニ依リテ結バレ》ているという基本だけを言っていると確定できますか?  3. (い)以外の説明は 《~~二非ズ》であるのだから 基本的には考慮する必要のない付け足しですか?  4. つまりたとえば (う)について次のような読みは 生じませんか?  天皇と国民との間の紐帯は 《單ナル神話ト傳說トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ》ということは 《深い意味における神話ト傳說トニ依リテ生ゼルモノ》なりと言えるような気がしないでもありません。  5. 《(え) 天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トする・・・(か)トノ架空ナル觀念ニ基クモノニモズ。》と言うのならば 天皇と国民との紐帯は《天皇ヲ以テ現人神とする》《トノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ》  そうではなく《現実の生活と社会と歴史に基づくものなり》と言っているように聞こえる。それが  (い)の《相互ノ信賴ト敬愛》のことであると。  5-1. すなわちここでは 見方が二つに分かれる。  (き) 天皇と国民との紐帯は 《天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)ト》する《架空ならざる実生活と歴史にもとづく》と言っているのか? それとも  (く) 天皇と国民との紐帯は 《天皇ヲ以テ現御神ト》する《トノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ》  そうではなく 《現実の歴史の上に築かれたもの》であると言っているのか?  6. 次のような解釈の選択肢が考えられまいか。  (け) 天皇は 神である。ただし ほかの民族の言語における神という言葉とは 別である。(⇒ どう違うか?)  (こ) 天皇は 人間と成った神である。(=アキツミカミ・アラヒトガミ)。  (さ) 天皇は 人間である。神だと言ったりするのは 言葉のアヤである。  (し) だから もともと神であると言った(自称した)ことはないのだから みづからの口から 《神ではない》という言い方はしなかっただけだ。  (す) 自称したかはどうかはいづれであれ 世の中における現実として《天皇はアラヒトガミである》と思われていたからには これを否定しようとした形跡がある。ただし よく読むと はっきり否定したとは読めない。いまもアラヒトガミであるのだろうか。  7. さらに次のような解釈があり得ないかどうかというふうに問えるかと思います。  (あ) 天皇と国民との間のつながりは  (い) 互いの信頼と敬愛とによって結ばれ  (う) 単なる神話と伝説とによって生じたものではない。  (う‐1) もっと深い実生活に根差した神話と伝説の内容として息づいたものである。  (え) 天皇を現人神とし  (お) その上で日本国民についてそれは他の民族に優越しており 延いては八紘一宇というごとく世界に君臨することになる民族である  (か) といった架空の観念に基づくものでもない。  (か‐1) 《架空の観念》ではないのだ。紐帯が《(か) 架空の観念に基づくものでもない》ということは (え)や(お)なる観念があったとしてもその観念でつながるのではない。  (か‐2) 生活に根づいた神話としての現実の上に紐帯があり その中に(え)の現人神の神話もある。(お)は 世界の現実としてその成りゆく自然史過程の内にある。

  • 我が神我が神どうして私を・・・

    エロイーエロイーレマーサバクタニ 我が神我が神どうして私をお見捨てになったのですかと、イエス様は何故言われたのでしょうか? 現代のキリスト教ではどう解釈されているのでしょうか?

  • 神は信じるものではなく、感じるものである

      古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。   さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。