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バカの壁

組織経営におけるコミュニケーションと養老孟氏の言う「バカの壁」について考えているのですが、まとまりません。 「バカの壁」について、抽象的、具体的、どのような表現でも良いので、皆さんに伺いたいと思います。 可能ならば、組織経営におけるコミュニケーションとも絡めていただければと思います。

みんなの回答

回答No.5

kaitaradouです。補足を読ませていただいて自分なりに考えたことを少し書かせていただきます。バカの壁というのは、おそらく養老さんのはじめのつかいかたでは、各人が頭の中に保有している世界が重要な意味を持っていたと想像します。これは主観的世界ということになると思います。一方客観的世界というのは、実は存在しないので養老さんはそれを唯脳論という本に書いたのだろうと思います。客観的世界が存在しないというのは受け取る側によって世界像が変わるという意味で外界が存在しないという意味ではないはずです。おそらく貴方のおっしゃっている組織というものは、この外界に相当すると思うのですが、外界はひとつでも脳の中の世界は人の数だけ存在するということになります。バカの壁のバカという言葉が今となっては逆効果を発揮しているのではないでしょうか。要するに主観的世界の限界をバカと表現することが誤解を招くように思います。むしろ組織なるものが複数の主観から生まれたフィクションであるという前提で構想を立てられたらどうでしょうか。はじめに組織があってそこに複数の個人が集合するというように考えるとあまりうまくいかないのではないでしょうか。現在の社会でいろいろ問題が起こっている原因というのはこのことに共通に関係していると思います。汚職という例外的出来事ではなく構造的な利職とでも言うべき合法的な破壊が生じているのも客観的組織というものが存在しているという前提が幻想であることの証拠ではないでしょうか。

回答No.4

ご質問からずれますが、組織経営とバカの壁は直接関係がないのではないかと思います。組織経営は儲かるか儲からないかの観点からしか考えられません。何かひとつのやり方に決めなければならないときに、それに従わないのをバカというのならば、バカの意味が違うように思います。養老氏の言うバカというのはむしろ各個人の限界のようなものであって、これが消極的な意味で各人の個性を決めているということではないでしょうか。コミュニケーションといっても命令に従うかどうかという話とは別ではないかと思うのですが・・・養老さんが他のところで書いておられますが、数学に関して養老さん自身がバカの壁を作っているというのが参考になると思います。

noname#14250
質問者

補足

質問した内容および私の学習対象について、もう少し詳しく書きます。 「組織経営におけるコミュニケーション」ですが、これはミクロ組織論の立場から見たものです(書籍は『現代ミクロ組織論』、二村敏子、2004、有斐閣ブックス)。 kaitaradouさんは、経営について、おそらくファイナンスといった直接的に「コスト」へつながるものを考えてらっしゃるのではないでしょうか? 私は、主にピープルマネジメントの分野に興味を持って学習を進めているのです。その上で、組織は人によって運営(経営)されている限りにおいて、そこには人と人との関係性が生じます。そして、人同士の良い関係性無くしては、利潤最大化のための組織経営における意思決定に支障が生じることが多分にあるのです。90年代以前は「人」よりも生産管理という分野に焦点が当たっていましたが、それ以降は、国内企業においても、グローバル企業においても、人同士の関係性というのは非常に注目されているものでもあります。良質な関係性によって、 人同士の関係性というのは、当然コミュニケーションによって築かれるものです。しかし、そこには認識や認知の壁というものがあります。もちろん知識的なものもありますし、人種や宗教、思想などの属性的な部分も含んでいる思います。 人というのは、身体的にも精神的にも非常に変動的であるので、絶対的な限界というのはないと考えています。そう考えてしまうと、養老氏自身に矛盾をきたします。(定かではありませんが)氏は「万物流転」ということを書いていたように記憶しています。これは、観念的に捉えてはいけないということもできるのではないでしょうか。そして、氏は「バカの壁」の打破を訴えていたと思います。 私は「バカの壁」というものを組織内コミュニケーションにおける認識や認知という観点において見ようとしているのです。これは私にとっての「試み」です。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

んー 『理念』が決まっていない。又は端まで浸透していなかったりすると、あちこちで壁がそびえたってしまうかも。 例えば一人の経営に携わる人は、「社会に貢献するのが仕事」って思い、その方針で行く。 もう一人の経営に携わる人は、「会社を大きくして自分の懐も豊かになるのが仕事」と考える。 もう一人の人は「奇抜なアイデアでライバルを出し抜きくのがモットー」と考えている。 それぞれ、方向性が違うので、同じ話をしていても、話がかみ合わない。 いくら会議しても、まとまらない。 それじゃ 烏合の衆になっちゃうので、会社の理念を決定する。 それを常に基準にして経営をしていく。 例えば、「社会貢献をする企業になろう」と理念を決める。 すると、利益重視の意見の人には「もしもしー 理念わすれましたかー あなたの考えはわが社の理念に合っていませんよー」と修正を加えられる。 「でも、企業は結局のところ利益でしょー いまどき社会貢献なんて会社ないよ 古いそんな考えやめて利益追求でいきましょう。」って言っても、「それはわが社の理念を理解していないからそういうことが言えるんです。もう一度理念を見直してください」っていえますよね。 奇抜なアイデアで世間の注目を集める方向性の人も「もしもしーー 理念わすれましたかーー」って言える。 それでもそれぞれが自分の方向性が正しいとして、理念すら変えようと言い出したら、会社大混乱。 理念とはそうそうコロコロ変えるもんじゃない。 普通は永久に変わらないもの。 もし、自分の方向性が正しとして引かない経営者がいたら、「理念を理解できないあいつは馬鹿の壁に囲まれているから、わが社にとって戦力とならない」と判断し、分裂をもたらすものとして、危険視して ぴよーーーん と経営陣から外す。

  • tsuzarik
  • ベストアンサー率31% (11/35)
回答No.2

私個人の経験を元にお話させていただきます。 趣旨が違いましたらすみません。 行き違いは情報の共有がなされていないと発生します。 そして、それは情報が抽象的であるほどにひどくなります。 たとえば社長が軽く「新製品の宣伝状況はどうなっている?」といった時に、その指示を聞いて 「新製品の宣伝ポスターを、即刻、社長室に届ける:宣伝部宛」 という命令に翻訳する人がいれば問題ありませんが 前述の場合に 「新製品の宣伝状況を、即刻、社長室に届ける:各部局宛」 という命令にすると、宣伝経費の請求書の山が届くことになりかねません。 組織における情報伝達は「命令」だけが一人歩きすることが多いので誤解の要素が少ない、具体的な指示にすることが必要です。 面と向かってさえ分かり合えないのだから、顔を合わせない相手とならばなおさら─ということです。 逆に、他に解釈の余地の無い「命令」であれば顔を合わせて話す以上に効率的に情報伝達できるはずなんですが… 往々にして、大本の指示が抽象的なので、「命令」に翻訳するのは簡単ではありません。 (求めている報告も抽象的だったりするのですが) 結局、個人でも組織でも、誤解は避けられないのだから、取り返しがつかなるなる前に連絡を密にする必要がある─ということではないでしょうか。

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.1

日本の組織というのは、「バカの壁」で言うところの 「話せば分かる」という思想でやってきました。  未だに日本企業では、口頭指示というのが多く、 契約書も交わさずに仕事を請け負ったりして 後から問題になることが多いのもこのためです。  勿論理解力の低い人もいるというのは みなわかるので、日本人は学歴や お役所と民間企業のような上下の階層 構造でそれを補っているつもりでした。  上の人の難しい話をそのすぐ下の人が 噛み砕いて下の人に命令し・・・といった 具合です。しかし、下から上への主張は 認めないという主義で、上下間の相互の 話合い、つまりコミュニケーションは 成立していなかったんです。  お役人がトップという日本の社会構造の 中で、警察官の悪行が長い間表面化しなかった というのも、こんな理由からです。  しかし、戦後の日本には不自然は平等 主義がはびこって、学歴差別はよくないとか 言う人がいたりして、年功序列社会の成立と 共に、学歴も低く、頭の悪い人が組織の トップにたつようになりました。 いい加減な指示が来るようになったので、 組織の下のほうにも不満がたまるようになり、 例えば工場などでは現場の改善を労働者 自ら行う「小集団活動」といったものが 始まり、組織のトップに文句を言う 組合活動といったものが活発化したんです。  しかし、もともと相互の会話、つまり コミュニケーションをするという仕組みが なかったんで、日本の組織構造の中では 上下の文句の言い合いという形が成立して しまいました。  企業でも社会全体でも、組織全体で大きな問題に 取り組もうとしたとき、このコミュニケーション 欠如の問題が表面化します。  リニアモーターカー計画の挫折、高速増殖炉 もんじゅの事故、ロケット打ち上げの失敗が 続くなど、このいい例です。  この点、アメリカなどもともと言葉も 違う民族が多数集まった新しい国ですから、 「話が通じない」ことが常識だったため、 まずコミュニケーションを確立し、 いちいち話さなくても分かるよう 作業の標準化という手法が進んでいました。  この日米の差が、外国への日本企業の 進出の際、大きな差となって出ています。  日本人は外国人に対しても、まず 「話せば分かる」という手法で話を 進め、思いどうりに事が進まないと 相手の理解力のせいにしてしまいます。  労働力が安いということで、中国に進出して いる日本企業が多数ありますが、殆どが 地元の労働者とのコミュニケーションの確立 に失敗し、充分な製造効率を上げられないで います。  その点、アメリカなど、コンピューターメーカーの IBMがパソコン事業を中国側に完全に引き渡す など、つまり経営、製造手法を完全に伝授できる ほどコミュニケーションと標準化の確立が進んで いるんです。  標準化というのは、「バカの壁」で言うところの 「マニュアル化」のもっと広い意味で、 誰がやっても同じ作業ができるようにして ある仕組みのことです。  組織経営においては、人間の間には話しても 絶対分からない「バカの壁」が存在している ことを必ず意識して、コミュニケーションを確立し、 標準化、マニュアル化を 進めて行くことが必要と思います。