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あなたが得たいくつかの真理

hw4183の回答

  • hw4183
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回答No.7

仏神の存在です。 これは間接的に信ずるというような事ではなくて 魂で観じた事です。 仏神は愛と慈悲のまばゆい光の、かたまりでした。 言葉では表しようがありませんが、 感動感動大感激!!ニュアンスが伝えられなくて残念ですが、、、、その後、この物質世界において、物質でないものの目に見えない価値感を大切にする事を言い続ける事、唯物論は誤りという事、人類を創造し、愛し、慈しみ、鍛え、育て、そして慈愛の目で見守っている存在があることを伝え続ける事が自分の仕事であると深く、自覚いたしました。 この世の今の常識では変人扱いされるかもしれませんが、自分自身否定のしようがありませんので、なんと言われようとどんな結果になろうと、自ら発信していくのみです!という強い決意を持つに至りました。 これに関しては不退転の決意であります。 一つという事であれば、以上でございますが あまり変人扱いしないでくださいね、これからの時代は、最高の合理的思考とスピリチュアルな神秘思想の融合した新しい世界規模のユートピア価値基準が常識になる時代が目前ですから。

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    真理は価値、論理は記号(操作)、道理は事実(自然)に属すると私は考えていますが、この中で最も大切なものはどれでしょうか。 一般的には真理が重要とされていますが、現象の背後に本質(真理とか実在)は無いと思います(「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である」ニーチェ)。真理は、実在や論理といった記号世界(それぞれの人の心と呼んでいいでしょう)の最大公約数にすぎないのではないでしょうか。 私は「真理より道理、実在より現象」と思うのですが、皆様、いかがでしょうか。

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