絶対的真理と客観世界における真理について

このQ&Aのポイント
  • 私たちは、私たちが見て経験したものから観念・概念や因果関係を抽出し、客観世界を構築しています。
  • 客観世界における「真理」とは、私たちが見て経験したものと客観世界との合致かどうかで検証されています。
  • 私たちの経験・体験は客観世界における理論と一致し、真理に近いと判断されますが、絶対的真理に到達することはできない。
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絶対的真理(と呼ばれるもの)と客観世界における真理について

絶対的真理(と呼ばれるもの)と客観世界における真理について http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-429a.html <引用> 私たちは、私たちが見て経験したものから観念・概念や因果関係を抽出し、客観世界を構築しています。客観世界における「真理」というものは、常に(それが錯覚であろうとなかろうと)私たちが見て経験したものと、客観世界(現実世界)とが合致する(矛盾がない)かどうかで検証されています。(『現象学入門その5』の記事でもう少し詳しく書いています。記事はこちらです。)  これが客観世界における「真理」であり、科学的真理でもあります。その中において、私たちは、より体験を積み重ねることにより、 「客観世界(現実世界)における理論と私たちの体験・経験が一致する・より矛盾が少ない」=「より真理に近い」 と判断することができます。  一方、私たちの判断のもととなる経験・体験、すなわち見たもの、聞いたもの、感じたもの、それ自体が、これまでに構築された客観世界においても説明不能な、今の私たちが想像もしていなかったような錯覚である、という可能性を100%捨てきることはできません。つまり、「絶対的真理」のようなものに届いた、と言い切ることは出来ないのです。 <引用> すばらしくわかり易い文章だと思います。 くどい表現しかできないので羨ましい限りです。 さて、この文章について感想を述べてください。

noname#118718
noname#118718

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#116216
noname#116216
回答No.10

そういえば、諸国語、諸学問、諸枠組み、色々あるけれど、全部人間がやってますよね。そんなもんですね。いろんな色の集合が、白い色と言われるようなものですね。光の場合は。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おもしろいですね。 葉の緑色というのは、葉が光からエネルギーを吸収した残りですね。 例えれば、食後の焼き魚の骨みたいなもの・・・ また、学問は光合成でできたでんぷんみたいなもので個別学問で葉っぱの色も吸収できる波長もちがって、活用できないので捨てざる得ないエネルギーを集めたら白色になりそうな気がします。

その他の回答 (9)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

さて、この文章について感想を述べてください。 ○感想としては、哲学者がどこかに持つべき「恐れ」を表した文章ですね。 この文章を例えて表現すると、金魚鉢の金魚の話ですね。金魚鉢の賢い金魚が、金魚鉢の中で観察・思考・体験を通じて知りえた真理が全て、絶対だと思っている。 たまに、金魚鉢の外に飛び出た金魚いて、金魚鉢の外の世界を垣間見るが外では生きていられない。 死ぬまでのわずかの間に外に飛び出た金魚は、自分のいた世界がちっぽけな金魚鉢であったと気付き、自分の知識も真理も錯覚でしかなかったと気付く。でもそれを伝えるすべはない。 まあ、そのようなたとえ話ですが、賢い金魚は、金魚鉢のなかで、客観的真理を求めつつ、自分の不可知の世界があるのではないか。と一抹の疑いと不安(恐怖)を持つ。そのような文章ではないかと思います。よくできてると思いますね。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自分の不可知の世界があるのではないか。と一抹の疑いと不安(恐怖)を持つ 相対的な社会で上手く生きていくのに不可欠な認識なのかもしれません。 逆に言えば、自分の意見に疑いと不安がない人は生きにくいでしょうね。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.8

> くどい表現しかできないので羨ましい限りです。  「僕は今までまったく間違っていなかった、言い方が悪かっただけだ」と言いたいのでしょうか。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「僕は今までまったく間違っていなかった、言い方が悪かっただけだ」と言いたいのでしょうか。 私はそんなに傲慢ではありません。 完璧に正しいということはありませんが、少なくとも表現が下手なのは事実です。

noname#116216
noname#116216
回答No.7

ああ、あまりよく知らない学校の名前を、名前を知っているというだけで出してしまったけれど、言いたいことは、そういうことでした。(^^;

noname#116216
noname#116216
回答No.6

ふと思ったのですが、回答者さんや質問者さんの文章を読むと、理解できない語を調べることになります。調べると、ウィキペディアとか、あるいはその他サイトを巡ることになります。そして、また議論をできるような場所があり、物知りの人や考えることに秀でた人々などと交流できます。ここは、素晴らしい図書館だと、そして、同じように学びに勉める人々が集まっている。昔で言えば、アカデメイアであり、アレクサンドリアの大図書館みたいなものだなと。自分は今日初めて、学問のおもしろさを知りました。(^^)

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >物知りの人や考えることに秀でた人々などと交流できます。 私もこのカテで様々な発想に触れることができるので助かっています。 自動翻訳が進歩して国際的交流ができればもっと面白くなるでしょうね。

回答No.5

 こんにちは。  《絶対的真理》がもし  ★ 客観世界における「真理」であり、科学的真理でもある。  ☆ とすれば それは 人間の経験的な思考によって得られた認識であり 実際にはその事実認識にさらに何らかの想像がつけ加えられたものだと思われます。つまり そのような《真理》は ほんとうのところでは 相対的な真実のことを言っています。  朽ちるべき存在としての人間がその能力によって得るところの可変的な知識です。時代ごとに その知識には妥当性があると認められるというかたちです。  ○ われあやまつなら われ有り。  ☆ というときの《我れに還》ったわたしの真実は――おそらく一瞬のひらめきとしてでしょうが―― むしろ《真理》に近いと考えます。勇み足を承知で言えば 《絶対》としての真理に ちょうど指の先で触れられたがごとくに わたしが開かれたという感覚があります。  このような感覚だとか言っていては――つまりは そこに心の窓があって心の明けが持たれ心の伸びを感じるなどと言っていては きわめてあいまいなままであるのだから――だめだというので その《我れに還った》というときの《わたし》もしくは《存在》について 今度は理性の言葉で認識し表現しようとするようになりました。  《われ考える(あるいは われうたがう)。ゆえに われ有り》と。遠くその結果が 初めに取り上げた《相対的な真実》としての《客観》であり《科学的真理》のことです。    これでは 《わたし》ないし《人間存在》が狭く浅くなるのをおそれて ひとはたとえば  《われはわれを思う。ゆえに われ有り》と言いかえたりしています。  科学的真理はなおまだ相対的な真実であるに過ぎないと分かって かつてそれが絶対的な真理だと思わされていたという意味で言うとすれば 《われ欺かれるなら われ有り》というかたちになります。この我れにまつわることがらは むしろ絶対としての真理です。つまりその真理に 人間がわづかなかたちででも 触れられたという事件です。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • yosiochan
  • ベストアンサー率20% (27/135)
回答No.4

その(引用)通りだと思います。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.3

絶対的真理をサポートする概念に、絶対時間・絶対空間・絶対存在がある。 要するに、観察に依存しない外的存在が先入している、とするものである。 しかし百年前に既に、相対性理論において時間や空間の絶対性が否定され、 観察者との相対において変化するものとなり、また量子論的世界像において、 有限的な存在性は観察されることに於いて生じるものであるとされた。 その根底にあるのは、根源において無限不確定性(=無)に還元される 不確定性原理の相補的不確定性であり、通常我々が意識する「物事を 原理理的に捉えることが、確定性を増すことである」というのが誤りで、 逆に「本質的に把握せず、階層現象表面的にいい加減に捉えることが、 確定性を派生させる」とするものです。 つまり、絶対的真理(=原理的把握)と客観的世界像(=現象的確定)は 相反するものなのです。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「物事を原理理的に捉えることが、確定性を増すことである」というのが誤りで、 少し難解ですが 原理的に追求していくと必ず公理の証明の壁に突き当たるということでしょうか。 >逆に「本質的に把握せず、階層現象表面的にいい加減に捉えることが、確定性を派生させる」とするものです。 発想が斬新ですね。突き詰めると不確定の問題に突き当たるという意味以上に踏み込んでいるような気がしますがどうでしょうか?

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.2

   参考までに 絶対真理の問題は、論理的に思考するか非論理的に思考するかで変ると思います。論理的には 無矛盾命題が述べられている場合です。無矛盾ですから絶対真理と言えると思います。例えば、『この部屋には人がいるか いないか です』という命題です。無矛盾です。恒に真ですから恒真命題と論理学では言われています。しかし この命題の意味はなんでしょうか、当たり前のことを述べているだけで 意味がありません。無意味な命題ともいえます。逆に矛盾した命題も意味ないのです。 有意味な命題とは 正しいのか間違っているのか分らない 命題なのです。有意味な命題を仮説としてたて検証していくのが 論理学でカバーされる領域と思います。 科学は 仮説と科学的検証であります。科学的検証の領域は 技術レベルで変っていきます。技術は有限な手段であり 定義が含まれる仮説が100%検証されることはないのです。検証も重要ですが 新しい仮説をたて新たな検証も重要です。 数学も仮説と検証は同じですが 論理学の発展は徹底しており 公理(仮説)はその系では証明されないことが証明されています。 哲学も論理的 仮説と検証という 展開は一つの方法です。が仮説の説得性はさらに重要とおもいます。 非論理的思考は10人10色であり 例えば、芸術における訴追テーマであり、金儲けのコツであります。この真理もまた重要でしょう。絶対真理としている人もいるのです。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

noname#116216
noname#116216
回答No.1

自分自身が望遠鏡、あるいは顕微鏡である、といったことのような気がします。 自分、つまり人体ですが、人体と言う装置によって、その装置自体がその周囲、あるいは人体そのものを研究しているような事態において、少なくとも、何も知ることができないわけではないし、事実多くの事柄を、曲りなりか知らないが、知ってはいます。そう言ってもよいと思います。つまり、錯覚、曲がりなりにも知ってはいるということは非常に大きな成果であり、曲がりなりにも、ここはこれでいいのではないか、ここはこうじゃないのか、ここはまだ見解を保留しておいた方がいいのではないか、などと言い合いながら、あるいは自問自答しながら、探していくというのが、一般的な歩みであると思います。 知る主体はなんなのか、知ろうとしている主体、能動的に起動しているこの根本的な機体は一体なんなのか、そのようなことも思いました。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も同じような感想をもちました。

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