- ベストアンサー
大名改易の際の抵抗運動について
土佐で、長宗我部氏が領地没収・改易され、山内氏の入国に際して、浦戸一揆を初めとした旧臣らの抵抗がありましたが、そんな例は、他国にもあったのでしょうか? どうも土佐の場合は一領具足制など特殊な事情があり、独特の現象なのかと思いますが。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
こうした例は全国にありますが、一番有名なのは九州島原でしょう。 島原の乱は、表面的にはキリシタン弾圧に抗議したキリスト教徒が天草四郎を担いで反乱を起こしたと説明されますが、内情はもう少し複雑です。 ご承知の通り、ここは元々小西家の領地でしたが、改易後有馬氏を経て、松倉重政が入部します。 松倉氏は幕府への忠誠を示すため、実高以上の表高を申告し、軍役に服しますので、税の取立ては苛酷になります。 農民の間に不満が高まったのを見た小西家浪人が一揆を煽動し、それにキリシタンが乗っかる形で乱が起こります。 つまり松倉氏に対する小西家の浪人の抵抗ともいえます。
その他の回答 (2)
- ss79
- ベストアンサー率33% (258/765)
かなり大規模な反抗といえるのは由比正雪の組織した慶安の乱でしょうか。 3代将軍家光の頃は最も改易が多く、全国的に浪人が増加しました。 この為社会不安が生じ、これを救済するのをねらいとして由比正雪は門人達を組織し江戸、大坂、駿河などかなり広域にわたる蜂起を計画しました。 計画は事前にもれて弾圧されましたが、もし実行されていれば相当な騒動が起こる可能性がありました。 正雪の意図は色々な通説がありはっきりしませんが・・・ 土佐の長宗我部氏の遺臣はその後郷士に組み込まれ、冷遇されましたので明治維新の前夜脱藩者が多くでて国事に奔走する下地を作りました。
お礼
お答えありがとうございます。 >土佐の長宗我部氏の遺臣はその後郷士に組み込まれ、冷遇されましたので明治維新の前夜脱藩者が多くでて国事に奔走する下地を作りました。 このあたりは司馬遼太郎氏の小説やエッセイでも言及されていますね。 余談(というか与太話)ですが、丸橋忠弥は長宗我部盛親の忘れ形見であったという説があります。まあ、まったく与太話レベルですが、そんな風説が流布する背景にも長宗我部の旧臣の遺恨があったのかもしれません。
- junt
- ベストアンサー率38% (97/254)
天保十一年(1840年)幕府は、出羽庄内酒井忠器(ただかた)を越後長岡へ転封させる命令を下し、武蔵川越より松平氏が鶴岡へ入ることになった時、領民は一致団結して反対運動を起こしました。 農民は代表を密かに江戸へ送り、時の老中らの登城の途中を待ちうけて訴状を提出することに成功しました。この運動は更に高揚して、翌十二年転封の命令は撤回されるに至りました。 この事件を描いた三巻の絵巻『夢の浮橋絵巻』というものがあり、これには転封中止の使者を迎える農民達が描かれています。
お礼
お答えありがとうございます。 やはり他に例があったのですね。 参考になりました。
お礼
ありがとうございます。勉強になりました。 確か、乱後の島原には天領であった小豆島から領民が移住させられたんですよね。 ちなみに、高知では今でも山内人気は低いのですが、難治の地であった土佐を治め、 後に雄藩となる土佐藩の礎を築いたのですから、 凡庸な大名ではなかったと思います。