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自殺の否定について

七人の練炭自殺がおこりました。 自殺は道徳的にそして一般的に否定されていると思います。 なぜ、自殺は否定されているのでしょう? ただ感覚的にということなのでしょうか? 論理的な回答を求めます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • bofd
  • ベストアンサー率25% (8/32)
回答No.14

以前の回答にあるように、社会システムに対する利害関係というのもあるとは思いますが、より根源的には個人の感情に基づいていると思います。その感情とは、「自分の大切な人に死んで欲しくない」というものです。 死は、それが不可知であるため(または神話的な「おぞましい」イメージのため)、当の本人に恐怖を与える。一方で、大切な人の死は、自分の一部が奪われたような痛み、悲しみを与える。 人が自殺を否定するとき、後者の感情がより強い理由になっていると思います。なぜなら、現実に生きる人間にとって、ありありと感じることのできる死は、自分の死ではなく、自分以外の人の死であり、それから得られる感情も強いものになるからです。 大抵の場合、「自殺はだめだよ」という言葉は、自分にではなく、自分以外の誰かに向けられていることからもわかると思います。 以上から、「自殺の否定」の根源的な理由が「自分の大切な人に死んで欲しくない」という感情なので、字義どおりの「自分の死」を否定するのは難しいのだと思います。

その他の回答 (13)

  • sawai197
  • ベストアンサー率39% (164/415)
回答No.13

#6です。再度失礼します。 #6では、感情論になってしまったので、今度はもう少し冷徹にいきたいと思います(努力目標)。 勤労と納税の義務を果たしていない若年者に死なれるのは、これまで保護してきた税金の無駄(義務教育等) 勤労と納税の義務を果たしている最中の中高年に死なれるのは、勿体無い。もしくは、責任放棄である。 まあ、この理屈でいったら、勤労と納税の義務を終えた老年者の自殺は認められるということになってしまうので「自殺」の否定論としてはあまり有効ではありません。 しかし、すべての人々が「生きるのが辛いから」といって死んでしまうと、社会が成り立たなくなってしまうのは事実なので、それを防ぐために(社会を維持する為に)「自殺はいけない」を共通のルールとしている。ということです。 極論を言えば、他殺さえ「いけないこと」と「論理的に証明」することはできません。社会の秩序を維持する為に、経験的に築かれたシステムにしかすぎない、とも言えます。戦争になれば、たちまち他殺も肯定されるでしょう? >自殺未遂の人物を(中略)死刑にするおつもりなのですか? 年間3万人と言われる自殺者が100万人ぐらいになって、自殺の及ぼす経済的損失が、深刻な社会問題になったとしたら、死刑にはしないとしても(本末転倒ですから)懲役刑や罰金刑ぐらい科せられる世の中に、本当になるかもしれません。 (注:私自身は「税金を納めない人は死んでもいい」とは思っていないし、自殺者や遺族を罰するべきだ、とも思っていません)

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.12

皆さんの立派な回答の中、論理的な説明ではないと思い恐縮ですが、自殺願望者としての意見を述べたいと思います。 という私も、実際は否定する気持ちもあります。それは「まだ頑張れるかも」「幸福になるかも」という希望と「死んだら地獄に行く」ということを本気で信じているからでもあり、また月並みですが「生きる尊厳」を大切にしているからでしょうか。 私は特定の宗教の信仰者ではないですが、死後の世界や精神世界に興味があります。 仏教でのカルマは、人は前世で積んだ業を解消するためにこの世で肉体を使って解消する、らしいですが、しかしそのような二次元、精神性の世界のことは、同じ世界の中で与え、また解消すればよいのに、なぜこの三次元、物理性的な世界で肉体を持たせ、駆使させるのか?という疑問があります。 なので私はどちらかというと肉体を軽視する傾向にあります(別に長生きしたくないし、太く短く生きたいという希望もこんなことにあるのでしょう)。 カルマ解消のために生きることが人としての義務ならば、死を恐れる本能はむやみやたらな死を抑えるためのまたは「誰もが幸福になることを願う」気持ちも同様に、それは死への留め金のようなものでしょう。 自殺となる定義は?という疑問もあります。 たとえば自殺願望を持つ者がある日突然、不可抗力の事件に出遭ったとします。仮に地震としましょう。そのときその人は自殺をしようと崖の上に来た。飛び降りようとする瞬間、いきなり足元が大きく揺れる。地震だ、と思うと同時に、積極的に身を投じるのではなく、その揺れに任せればもしかしたら崖ともどもまっさかさまに落ちて死ぬかもしれない。そうして死んだ場合自殺となるのか否か。 またこういう場合はどうでしょうか。 自殺願望者が今度はその地震後の混沌の中で、子どもがおぼれかけているのを見た。自分の身の危険を顧みず、夢中で子どもを助けたが自分が死んでしまった。そのような場合も自殺となるのか否か。 またはどこかの戦争に志願する、その結果戦死した、など…(戦士は名誉だという時代的価値観も現にあったから、これは現世としては自殺という不名誉とは言われないでしょう。でも本人が自殺願望者ならば?)。 つまりは自殺とは死ぬ形ではなく、自殺願望という死への意思を持つ者が、不意に別の力で死んだとしても、それは自殺になるのか、ということです。しかしそうであれば神様は肉体をもたせて、死を迎えるまでの過程を考慮せず、単に自らの意思で死んだ者を自殺者とする、と考えているのでしょうか?納得できません。 …これはこのカテで、いつか質問させていただこうと思っています。 数十年前、日本で思春期まっさかりのある男の子が崖から飛び降りて死にました。でも大きな話題となったのは、ありふれた自殺原因だったからではないそうです。その理由とは「ただ単にあの世があるのかどうか知りたかったから」だけという、「あまりにも純粋な動機」ということでした。その子は自殺することが罪か否か、という疑問をもっていたでしょうか?それは本人にしかわかりませんが、好奇心に殺されたのならば、好奇心自体を与えたもうた結果のそのような生き方、その原動力となる魂を持たせた、「神」の人間への仕打ちについても疑問です(つまり私は神様に単に愚痴を言いたいのか?)。 カルマという課題は、死にたくなくて生きたい、でも死ぬしかない自殺者へのひどい仕打ちであると思うのは人間としてのこれもエゴなのでしょうか。それでも持たされるのはそうした根深い業が「業であるゆえん」なのでしょうか。 「死にたいは生きたい」というある精神科医の言葉がありますが、自殺願望者の的を得ていると思います。自殺は「生と死」や「カルマと自由意志」の矛盾であり、感情的にも「まったくやりきれない」自己矛盾であると思います。 他の方もおっしゃっているように、自分の国や意識では常識と思える法律や文化も、国が変われば変わります。同様に、宗教観や世界観の中の死の概念も、時代や国によって様々ですよね。そんな中で自殺が悪いことと一概には言えないと思います。逆にこんな国のこんな時代だからこそ、自殺するのは自然な現象なのではないでしょうか。それをマスコミやコメントで、紙芝居のように流れていく映像を一過性のものと捉えて単純な一般論で処理しているだけでけのような気がします。悪を暴き叩く姿勢がマスコミのある意味使命でありますが、やっぱりそこはもっとヒューマニズムが欲しいと思います。まあドキュメンタリーなどはそうでしょうが、リアルタイムで流されるだけでは切り取れない深い事情があることもわかってほしいと思います。 自殺否定、その背景にも親の世代感覚を、無理やりにでも子どもに継承していきたい親の気持ちがあるように、自殺を否定する価値観も、時代や国単位でなされている遺伝のようなものだからだと思います。その言葉を鵜呑みにする者だけが「自殺は悪」というのでしょう。また死んだ方が楽なほどの痛みがわからない者も同様に言うでしょう。 第三者としても自殺否定する人は、一般論者の域を出ない同じ苦しみを共有できない者だと思います。残された者が苦しいのは、自殺者の苦しみを想って苦しい、のではなく、残されたから苦しいのです。 残された家族が悲しむのは事実そうであっても、自殺者の中にはその家族が原因となることもあります(つまり確執や虐待やトラウマなど)。ある場合には家族が自殺の間接的原因になるかもしれません。 親との関係はその後の生涯を左右するほど影響力のあるものです。長いスパン、複雑な要因を考えればそういう理由からであれば悲しむ家族の姿は偽善でしょう。 しかし自殺者にとっては死ぬほど辛い苦しい内的世界を抱えています。身近な他人こそ理解してくれないかもしれないからです。いや、理解する者がいればいるほど、自殺は思いとどまるでしょう。「人」を生かすも殺すも「人」だからです。 >なぜ、自殺は否定されているのでしょう? ただ感覚的にということなのでしょうか? 以上から感覚のあいまいさと、逆に論理の固執だと思います。 個人的に思うことですが…。 自殺することを容認してしまったら(例えばマクロ的に国や法律などで自殺擁護)、不測の事態でもし個人としての自分が自殺したくなるような目にあったときに誰もが止めてくれない、そんな寂しさが、集合意識としてあるのでは?寂しさは「死にたい」ほど辛いひとつの要素ですから…。 こんなこと日々だらだらと考えて生きながらえている私もつまりは「業深い」人間のひとりですよね(笑)。「枷」がなければ私もニュースに登場していたかもしれません。でもできないのですよね!単に怖いから。そうこうしているうちに「既成事実の死」を迎えるのでしょうか。そうであれば早く安らかに眠りたいものです。合掌。

回答No.11

 論理的な回答を、との事ですので、反発覚悟で相当厳しいことを書かせていただきたいと思います。  ある本を読んでいた時に出てきた話なのですが、宗教には、現世で報われない経済力の弱い貧しい人々の不満を吸収し、効果的に治安を維持する側面と、政治体制を防御する側面もあるそうです。説明不要でしょうが、治安というのは、善い行いをして死ねば極楽に行けると思わせることにより、経済的不満による犯罪を予防するということです。政治体制の防御というのは、貧しい人々の不満を宗教を信仰させて和らげることによって反体制に走ることを防ぎ、また、そういう徒党を組んで国に反逆する可能性のある人々を宗教に集めておくことによって簡単に監視できる(抑制できる)ということのようです。  さて、自殺ですが、江戸時代には農民は生かさず殺さずと言い、死なれては国の要である農業生産に従事する者が少なくなるとの観点から、殺さない代わりに生かすこともしないというおぞましい政策を採ってきました。武士の喧嘩両成敗も、戦以外の場面で喧嘩して負傷したり死んだりすれば、貴重な戦力が減少するとの観点から作られたものです。つまり、昔の時代と言うのは、国にとって有益か、ということが、様々なものを決める上での比重を占めていた、ということのようなのです。  もうお解かりですね。自殺を悪とするのは、自殺することにより、社会の貴重な担い手(ある人は生産者であり、ある人は管理職であったりと様々ですが)を喪失することが国にとってマイナスであったからです。金儲けのことしか頭にない、ちょっと許せない論法ですが、こういう考えに基づいて自殺を悪としたというのです。別に、死んだ人を悲しむ心情から出てきたものではないのです。そして、宗教が自殺を禁止する理由も、本質的にはこういう理由によるものだと言われています。歴史的に、宗教が権力体制の中に組み込まれていた事実が示すように、宗教は国の安定化を促す装置としても機能してきたのです。  ただし、これはあくまでも一つの仮説です。宗教関係の方は不快に思われるでしょうし(ここで謝罪しておきます、どうも御免なさい)。

回答No.10

仏教をちょっと勉強したのですが、自殺は悪いカルマを つむことになるので否定されるということになると 思います。仏教では殺生が戒律で禁じられていますが 自殺は一種の殺生罪になると思います。 また仏教では周りの人から多大なる恩恵をうけていると 考えています。その恩恵を否定する罪を犯している ともいえます。もし他に対する恨みで自殺したとしたら さらに悪いカルマをつむことになるでしょう。

  • JACO1011
  • ベストアンサー率55% (127/227)
回答No.9

余談から入りますが、法律は基本的には本人の自殺には関与しません。基本的日本の法律は自殺に対しては無力です。 自殺が殺人罪になるという論理だと、自己の所有物を壊しても器物損壊になってしまいます。建造物放火は自己の所有する建物に対する行為でも罪が問われますが、これは延焼の危険性が高いからであって特別です。 自己の所有物を損壊しても器物損壊罪に問われないのは、器物損壊罪の保護法益が所有者の財産権であるからで、物それ自体が重要文化財のように保護されているわけではない。すると所有者が自己物を損壊する行為は財産権を放棄している行為だから、保護法益が無いと言えるのであって、同様に、殺人罪の保護法益は生命「権」であって生命それ自体ではないので、本人が生命権を放棄すると保護法益が無くなってしまいます。 もし自殺が殺人罪にあたると、自殺既遂は罰せられないのは当然ですけど、自殺未遂は殺人未遂で可罰、自殺関係の掲示板なんかも殺人予備罪で可罰、という論理になると考えられますが、現行法は何れの立場でもありません。 また自殺を幇助すると殺人の共犯ということになってしまいますが、自殺幇助は刑法202条で特に自殺関与及び同意殺人の罪として罪が定められていることから、やはり自己の生命を絶つ行為は殺人とは明らかに別なこととされているとわかります。 自殺を生命権を故意に放棄する行為としますが、私自身は自殺を完全否定する立場ではありません。 昔の日本にはハラキリという自殺を肯定する慣習がありました。 即身仏などもあってあがめられています。 大発生したネズミが集団自殺するという現象もあります(彼らに生存をやめる故意があるかわかりませんが)。 一般論として自殺はすべきでないと考えますが、その考えの根源は生理的・感情的なものです。 死ぬということを死んだ立場から語ることはできません。生きている立場にとっての死しか検討できない以上、死それ自体がポジティブなのかネガティブなのか客観的にに検討することは不可能で、生と比較することも不可能です。だから死を否定することについて合理的な理由は求めようがないと思います。 生存を積極的に否定する感情がある種の中で主流となったら、その種は滅びるのではないかと思います。そういう視点はありかもしれませんが、では種が存続することが種が滅びることと比べて優価値であることの合理的な理由は、と問われると、回答は無いと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.8

 わたしは 次のように考えます。  人間は社会的な存在であって 個人としての自由意志とその発現(意思表示と行動)は あくまで人間関係のなかで・特に信頼関係のなかで 現実となり 意味を持ちます。そして その意味や存在の重さは 人それぞれの一生を通じて・その全体として 評価されます。  このとき問題は 他殺・自殺あるいは事故死など寿命をまっとうしなかった場合 どう評価するかになると思います。もし一生が中断されたと見るなら それに対する評価も 中途半端になるのではないでしょうか。  言い換えると その人の 周りの人々や社会一般の人々に対する信頼関係が 中途半端なものに終わってしまう。これは 失礼なのではないでしょうか。人間として つき合うに値しない者と見なされ さらに その人と親しい人々も どことなく影響を受け 評価が下がります。  自死を選ぶ場合 よほど人を納得させる理由を発表することが 少なくとも最低限のエチケットではないでしょうか。(ちょっと 茶化した言い方ですが。)

参考URL:
http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20040909
回答No.7

私は、経済学や意思決定分析が専門なので、 倫理学プロパーの最先端は100%の自信はないが、 少なくとも、英米系分析倫理学については、 ほぼその基礎理論は厚生経済学に吸収されているだろう。 で、厚生経済学の仕事っていうのは、 個人にとっての望ましさの調整。 以下は、その観点に基づいて、 私の考察を述べる。 自殺否定の道徳の言説っていうのは、たくさんあるけど、 つきつめると、多分 1.生命は尊い(啓蒙されれば、価値観が変わるよ!) 2.限定合理性、不可逆性(啓蒙されれば、同じ価値観でも、意思決定の質が上がるよ!) 3.他人に迷惑がかかる(本人にとっては望ましいかもしれないけど、社会のエゴで否定するよ!) あたりで尽きる。 これ以外があったら教えてほしい。 それぞれを説明する。 1.価値観 厚生経済学の肝は、まずは本人の効用最大化。 で、通常、経済学では、効用自体は与えられたものとする。大人の価値観は、固まっていて、変更しないっていう風に考えるのです!すごいフィクションの仮定ですね。 しかし、実際のところは、価値観っていうのは、まさに今回の七輪自殺ではないですが、宗教などによって変わりえる。 よって、道徳(?)の言論・テクストの一形態としては、自殺がともかくも理屈ぬきで嫌いな人が、いろいろなテクニックを駆使して、ともかくも自殺は望ましくないじゃん って本人に思わせる系統のものがある。 この手の言論っていうのは、 自殺したい人の受け手の感性に合えば、(非論理的でも良い)本人にとっても「自殺って良くないじゃん。良く分からんけど。」って思えるようになる。 自殺したい人の感性にあわなければ、単なる余計なお世話。 ちなみに、ご質問の中の「ただ感覚的に」の中の「感覚は」重要で、 社会的に自殺をどうするべきか?っていう文脈ではなくて、 「本人にとっての道徳」においては、まずは感覚が基本。 そもそも、良く考えてみると納得できると思うけど、人生のもっとも崇高な目的は、感覚的な幸福の最適化。 これは、逆に、 「人間が生きていることはなぜ悪いことではないのでしょうか?論理的に説明してください。」 っていう問いの答えを考えてみればわかる。 「うるせえ。おれは、生きたいから生きるんだよ。」 っていうリアクションが一番素直で分かりやすいと思う。 個人の人生においては、 感覚と論理が矛盾したら、どっちを優先させるかは微妙。っていうのも、 論理っていうのは、あくまでも、目の前の感覚に流されず、究極の感覚を最適化するための道具に過ぎませんし(これも突き詰めて考えてみてね!)。で、頭でっかちで、論理の真意をうまく汲み取れてない可能性もある。たとえば、企業の論理(?)で悪いことを強制する会社に対し、かりに反駁能力を持たない社員でも、感覚で「なんか違う。」って思うことは重要だと思います。 まあ、理想的には、人間はせっかく前頭葉が発達していることだし、 最終的には、 感覚と論理が整合的になって、 感覚的にも論理展開が納得できるのが望ましいと思います。  2.限定合理性 大きく分けて、 自殺したいっていう意思決定の限定合理性の指摘には、二つの形態があります。 ひとつは、1.と絡みます。 Ralph Keeney という意思決定分析学者などによれば、 人の多くは、自分の目標について十分に考えていない。 したがって、自己分析してみると、 本当に自分がしたかったことやなりたかったものなどがわかるってことがあるとする。 すごく分かりやすい例としては、 自分にとって家族がどれだけかけがえがないか判っていない人がいたとする。 このとき、本人にそれを気づかせてあげると、 自殺なんてとんでもないって気づくかもしれない。 もひとつのパターンとしては、 情報不足。 たとえば、常識だけど、 鉄道に飛び込み自殺したときに、遺族にどれだけ迷惑がかかるか知らない場合などは、 それを知って、もしくは自殺を思いとどまるなり、 もっと良いやり方で自殺するなりしたほうが良いだろうっていうこと。 ちなみに、かなり多くの自殺のケースは、 http://plus.naver.co.jp/worry/wr_db_detail.php?dir_id=8&docid=13733 でも述べたように、 本人の限定合理性によると思う。 したがって、 本人がもっと幸せになれる機会を逸したことは、 本人が悪いというよりは、 社会インフラが自殺への対応が不十分であると考えてよいだろう。 もっと、心の110番系統の、 自殺を防ぐシステムを充実させよう! っていう道徳的(?)議論を展開することができる。 3.刑法的な議論 1,2で述べたようなプロセスを十分に経て、 それでも本人がやはり自殺したいって思う場合は、 (完全合理的な自殺のイメージについては、やはりhttp://plus.naver.co.jp/worry/wr_db_detail.php?dir_id=8&docid=13733 を参照のこと) どのようにそれを悪であると言えるだろう? 厚生経済学的に言えば、 これを悪いとするのは、純粋に生きている人のエゴですね。 「道徳」が生きている人のもので、 生きている人としては、 むやみに周りの人に自殺されると迷惑だから、 悪いと決め付ける。 まあ、この論理で、 自殺者は処罰できないけど、 自殺未遂者なんかには、殺人未遂と同様に罪に問えるね。ま、実際に、心無い家族なんかは、リストカットする子供などに、「なんでそんなことするの!」って追及の言葉ばかり浴びせる。子ども自身の気持ちなんて二の次なんだね。 というわけで、この論理の延長線上にあるのが安楽死。結局、みんなが納得づくの自殺ならば、周りが反対する理由も無い。で、実際、オランダなどでは、すでに安楽死は合法になっている。 ちなみに、私の感覚では、 練炭自殺については、 結構納得づくだったのではないかとも思う。 まあ、ある程度は1.の意味での家族に対する思いやりが欠けていたっていう感じもするけど。 ただし、遺族に立場からすれば、間違いなく3の観点から追及しまくりたいでしょう。

参考URL:
http://plus.naver.co.jp/worry/wr_db_detail.php?dir_id=8&docid=13733
  • sawai197
  • ベストアンサー率39% (164/415)
回答No.6

あまり論理的ではないかもしれませんが、下記URLに「自殺をしない15の理由」というのがあります。 すでに回答されている方々の答えと重なりますが、一般的に「人に迷惑をかけること」は悪いことだとされています。それは、例えば例にあげている集団自殺の場合、警察や自殺地の所有者の手をわずらわせて…とか、そういったことでなく(もちろんそれも理由のひとつではありますが)やはり、遺された関係者に大変なショックを与えるということだと思います。 「自殺は人に迷惑をかけることなので悪である」 私は、とても大好きだった親しい人を自殺で喪いました。何故、止められなかったのか、止められなかった自分は殺人者ではないか、と毎日自分を責め続け、あるいは「こんなに突然いなくなってしまうなんてひどい」と故人を責め、故人を責めてしまう自分を責め…と、抑うつ神経症・心身症となり精神科に通うようになりました。こういったことは自殺者の遺族には珍しくありません(私は遺族ではないのですが)。 故人のことは今でも大好きです。自殺をしたからその人は悪人だ、というつもりもありません。それでも死んで欲しくはなかったです。自殺は悪であり「迷惑」であると、経験的・かつ感情的に断言させていただきます。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~KX5N-KGYM/square.htm
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

参考までに 死んだ後のことがわからないので自殺という愚かな行為をするのでしょうね。 自殺の場合は、肉体が無くなってもその場所で、本来の人生の残り年数を死んだ時と同じ苦しみを繰り返しながら過ごすのですね。無くなるわけでもなく、当然、楽になるわけでもなし、天国にいくわけでもなく、地獄という所に行くわけでもないのですね。 自殺の場所に縛られて苦しく数十年を過ごすのですね。こんな割に合わないことを知らないという無知の行為ゆえにやってしまっているのですね。また、苦しいがゆえに他の人を巻き込んでいきますね。目に見えないからといっても、その場所にいるんですね。 本人が気づく時が来るまで、近づかないことが一番ですね。皆さんのご指摘のように周りの人たちも不幸になりますが、本人の不幸がいつまでも続くことが問題なんですね。不幸や苦しみから逃げるための解決手段にはならないのですね。その逆の最悪の手段ということですね。だから自殺は禁止項目なんです。

  • waltusyu
  • ベストアンサー率11% (3/26)
回答No.4

 論理的かどうかは分からんけど、法律的には刑法199条には「人を殺したる者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する」とあります。  自殺も自分という人間を殺すので、これにあたります。 でも罰しようにも、人殺しであるその人は既に死んでしまってるので、罰しようはありませんが・・・  まぁ・・・そんな理屈で、自殺志望者を止めることなんて出来ないんですけどね。  ていうか・・・人が一人死ぬと周りの人が本当に大変! 家族なんかしばらく寝る暇も無いくらいだし、お金もかかるし!借金なんて残して死なれると最悪だね。  身近な人が亡くなって、その大変さを経験すれば、自殺なんてどれだけ迷惑な話か、身にしみて分かると思うよ。    

AbCd98521Dreame
質問者

お礼

>自殺も自分という人間を殺すので、これにあたります。 では、あなたが裁判長だったら自殺未遂の人物を――殺人未遂の人物と同じに――死刑にするおつもりなのですか? 私はあなたの回答の中にエゴを感じてならない。

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