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「善の研究」の用語について

純粋経験と直接経験、そして真存在の関係性について教えて頂けたら嬉しいです。 また精神の説明に「実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。」と書いてあるのですが、もう少し噛み砕いて説明していただけたら嬉しいです。

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  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおり、主として原著からの引用を通して、お答えします。 字数制限を超えますので、2つに分けて送ります。 (その1) >純粋経験と直接経験 ⇒純粋経験とは、分析を含まず、主観・客観が区別される以前の直接的な経験をいう。例えば、鳥の鳴き声を聞いたとします。そのとき、「ああ、きれいだ」とか、「ウグイスの鳴き声だろう」などと考えるより前の、純粋に鳴き声を聞いたということだけの経験を表す術語が「純粋経験」です。なお、「直接経験」はただそれを言い換えただけの用語です。つまり、「純粋経験は直接経験と同一の概念を指している」と言えます。 自我意識のまだない赤子が母の乳房と合一しているような、主観-客観が一体化した根源的な知識のあり方です。(…)スポーツや芸術に習熟した人が、無意識的であるにもかかわらず、圧倒的な知識を必要とするアクションを流麗に行うときなども純粋経験です。(…)経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明らかに定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時はすでに純粋の経験ではない。 >真存在の関係性について ⇒原著『善の研究』の中でまとめた定義づけはありません。「真存在」でなく「真実在」として合計12か所で言及しています。●を付して引用します。 1 ●真実在は常に同一の形式を有っている。主客を没したる知情意合一の意識状態が●真実在である。我々が独立自全の●真実在を想起すれば自らこの形において現われてくる。 2 独立自全なる●真実在の成立する方式を考えてみると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち、先ず全体が含蓄的 implicit に現われる、それよりその内容が分化発展する、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。 3 ●真実在の活動では唯一の者の自発自展である、内外能受の別はこれを説明するために思惟に由って構成したものである。 4 意識を離れたる純粋物体界という如き者は抽象的概念である、●真実在は意識現象の外にない、直接経験の●真実在はいつも同一の形式によって成立するということができる。 5 実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。而してこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる。独立自全の●真実在はいつでもこの方式を具えている、しからざる者は皆我々の抽象的概念である。 6 真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。●真実在はかくの如き無限の対立を以て成立するのである。 7 対立の根柢には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので、●真実在は一つの者の内面的必然より起る自由の発展である。たとえば空間の限定に由って種々の幾何学的形状ができ、これらの形は互に相対立して特殊の性質を保っている。しかし皆別々に対立するのではなくして、空間という一者の必然的性質に由りて結合せられている、即ち(…)一の統一的作用によりて成立するので、一自然の発展と見做すべきものである。 8 実在はこれに対立する者に由って成立するというが、この対立は他より出で来るのではなく、自家の中より生ずるのである。前にいったように対立の根柢には統一があって、無限の対立は皆自家の内面的性質より必然の結果として発展し来るので、●真実在は一つの者の内面的必然より起る自由の発展である。(…)我々が自然現象といっている者について見ても、実際の自然現象なる者は個々独立の要素より成るのではなく、また我々の意識現象を離れて存在するのではない。やはり一の統一的作用によりて成立するので、一自然の発展と見做すべきものである。 9 心理学から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の●真実在であるという立脚地より見れば、この自己は実在の統一者でなければならぬ。心理学ではこの統一者である自己なる者が、統一せらるるものから離れて別に存在するようにいえども、此の如き自己は単に抽象的概念にすぎない。事実においては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙実在の統一力その者である。 10 精神現象、物体現象の区別というのも決して二種の実在があるのではない。精神現象というのは統一的方面即ち主観の方から見たので、物体現象とは統一せらるる者即ち客観の方から見たのである。ただ同一実在を相反せる両方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見ればすべてが主観に属して精神現象となり、統一を除いて考えれば凡てが客観的物体現象となる。 ⇒「真実在」の結語的部分の引用 11 ゲーテが「自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である」(…)といったように、具体的●真実在即ち直接経験の事実においては分化と統一とは唯一の活動である。たとえば一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれも直ちに全体の精神を現わさざるものはなく、また画家や音楽家において一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余曲折の楽音ともなるのである。 12 世界と神との関係を右のように考えることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであろうか。万物は神の表現であって神のみ●真実在であるとすれば、我々の個人性という如き者は虚偽の仮相であって、泡沫の如く全く無意義の者と考えねばならぬであろうか。余は必ずしもかく考うるには及ばぬと思う。固より神より離れて独立せる個人性という者はなかろう。しかしこれが為に我々の個人性は全然虚幻とみるべきものではない、かえって神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用の一とみることもできる。 すべての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を成すということができるのである。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ。 万物は唯一なる神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を否定するに及ばぬ。たとえば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、各自が独立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは「一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格において自己が全人格の満足を得るのである、即ち愛は人格の欠くべからざる特徴である」といっている。他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、而して各々が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認めるということができる。

その他の回答 (1)

  • Nakay702
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回答No.2

「その2」へ行く前に、「その1」へのご感想をお願いします。こんなタッチというか、書き方でよろしいですかね? 原著からの引用ばかりで、少々気が引けています。

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