哲学・倫理・宗教学

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  • 踏み絵

    こんにちは。 またまた、枠が空いたようなので・・・って。 「私の「逆鱗」は、こんなところです。」 もう、こんなにネットワークが発達しているご時世です。 あらかじめ「逆鱗」を紹介しておくことで、余計なトラブルを避けることも、出来るのではないでしょうか。 (何が訊きたいの?) 「私の逆鱗は、コレコレです」 そんなの、見たこと無いが、もし有れば、きっと、潤滑になるような気がします。 ・・・ご意見・ご感想を、頂けると、幸いです。 宜しくお願い致します。(カテゴリ選択) (あれ、つまりコレは、「学問」ではないでしょ!という、憤りか。)

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 超能力者です予知と透視ができます

    しかしまだまだ強くなく たまにできる程度です 私はこの力を強めて全知全能の神になるつもりです なれるでしょうか? みなさんはどうおもいますか?

  • 最新!

    あれ?まだ、質問枠が有った、というんで・・・ 「最新」ネタ、これには、弱いんです。 (何が訊きたいの?) 「最新!」で、何か有れば、ご披露下さい。 宜しくお願い致します。(カテゴリ自分で選択・・・)

  • ♪真っ赤な薔薇は、あいつの唇

    やさしく抱きしめて くれとねだる 瞳の奥に 獲物を映して 淋しく問いかける 愛の在りか 男には 自分の世界がある たとえるなら 空をかける ひとすじの流れ星 孤独な笑みを 夕陽にさらして 背中で泣いてる 男の美学 https://www.youtube.com/watch?v=Luyf7uuPFqY ・・・さて、何を訊きたかったのかな (何を訊きたいの?) 「女の口説き方」・・・いや、違いますね。 「男の美学」、こっちですね。 宜しくお願い致します。(カテゴリ自分で選択)

  • 「書いてある通り」・・・

    こんばんは。 某番組を見ていて、ハッと、しました。 「書いてある通り」 これって、つまり、社会主義(的)なのではないか、と。 (何が訊きたいの?) 上?は、宗教から、下?は、料理レシピまで。 「書いてある通り」って、社会主義的ではないでしょうか? 宜しくお願い致します。(一応、哲学・倫理・宗教学、らしい)

  • 「すみません」

    こんばんは。 ・・・「すみません」の甘え、というか。 昔々、日本では、とにかく「謝りなさい!」と、態度で示すことが重要視され、、、度が過ぎて、(とにかく、謝れば、許してもらえる)といった「甘え」を生んでしまったのではないか?と思うことが、有ります。 「すみません」が安い人・・・つまり、外見的・形式的には「態度で示して」いるにも関わらず、実はちっとも「反省」していない、やってしまったことに責任を負わなければならないとは、露ほどにも思って居ない、そういう人って、居ませんか。 ・・・対して、「謝って済むなら、警察いらねーよ!」という、モットモな反応も、有ったように思います。 (何が訊きたいの?) 「いやいや、お気持ちだけで・・・」とか、「とにかく、許してやることが、立派だ」とか、そういう被害者の態度って、どうなのでしょう?立派なことだと、思われますか? 宜しくお願い致します。(一応、哲学・倫理・宗教学、らしい)

  • 女にあって男にないもの

    私の偏見主観ですが、男にあって女にないものは「義」である気がしています。 逆に、女にあって男にないものは何だと思いますか? 主観、偏見でかまいません、何かありましたらお聞かせください。

  • 量子力学の「生死の重ね合わせ」は仏教では?

    仏教と量子力学は似ているといわれます。 具体的にどこがどう似ているかをお伺いします。 箱を開けてみるまでは、猫は生きているか死んでいるかのどちらかではなく、生きても死んでもいる、つまり両方の状態にあるとされ、それは箱を開けて確認した人によって決まるという「シュレディンガーの猫」の実験がありますが、この考え方は仏教でいうと、何に当たるのでしょう。 十二因縁とか、諸法無我かなと思いますが、ではそれらとどう共通点があるのでしょうか。

  • ソクラテスと千利休の死について

    ソクラテスと千利休の死について、互いに自分の死で信条を守ったという観点から、それぞれの相違点と類似点を教えていただきたいです。

  • すぐフェミフェミ言われて困ってます

    私は女なんですが、とにかく生きづらさと日常での恐怖を感じながら生きてきました。 父は虐待と金銭を納めないダメ人間で、父の影響も大きく男の人が苦手ですし、世の中まだまだ男の方が強く感じます。 日本は女尊男卑という人がいますけど、大抵の言い分は「これまで男尊女卑だったくせに女が調子乗りやがって!!」って平等になりそうなのを必死で押しとどめているように感じます。 職場の男性はみないい人ですが、「この女調子に乗ってんぞ!」と女尊男卑信者の男性が持ち上げる理論や事柄に疑問を感じ、コメントすると「フェミだ!ツイフェミだ!」と叩かれます。 そもそもツイフェミは女の生き方を捨てた何にもなれない人なのにフェミと一緒にしないで欲しいですし、フェミだったらなんなの?あんた達は男至上主義なだけでしょ?と思うんですがマウントを取られて罵られてしまいます。 フェミフェミうるさいと思います。 女性に発言権がないように感じます。 女が生きやすい世の中に意地でもしたくないんだと感じてしまいます。 今の世の中、ホントに女尊男卑ですか?

  • 除霊法

    これは効く!という除霊法とこれは違うかもと思う除霊法があれば教えてください。 私は朝太陽の光を浴びること、夜に酒風呂に入ること、感謝すること、陰気なことを考えないことが効いているのではと思います。これは違うかなぁと思うのはYouTubeでお経とか祝詞を聞くことやパワーストーンに頼りがちになることです(前者は聞いて数日後に体調を崩し、後者は以前ラピスラズリをつけていた頃変な気をもらいがちだった為です)。 よろしくお願いします。

  • 【宗教】薬師如来は寺の仏教ですか?神社の神道ですか

    【宗教】薬師如来は寺の仏教ですか?神社の神道ですか?

  • 【真面目な宗教とは何ですか?】 宗教からお布施の

    【真面目な宗教とは何ですか?】 宗教からお布施のお金は運営上切っても切り離せないものです。拝金主義の世界平和統一家庭連合や創価学会が否定される世の中になりつつありますが、令和時代の真面目は宗教とはどういった宗教のことになるのでしょう? キリスト教も拝金宗教で、イスラム教も拝金宗教です。仏教も神道も結局は金儲けの拝金主義宗教です。 拝金宗教の真面目な宗教とはどういったものが該当しますか? 寺や神社の裏に高級外車を隠すことが神様、仏様の救いが受けられる行為なのでしょうか?

  • ブルマ

    おはようございます。 仮に、三蔵法師がブルマを履いていたら、どんなものでしょう。 (何が訊きたいの?) もし、理想の三蔵法師像が有りましたら、ご披露下さい。 宜しくお願い致します。(カテゴリ選択) ・・・あれ、「その他(学問・教育)」という選択肢が、出来ているのか。

  • 夜中の深酒

    こんばんは。 来たねえ。小生の(24時間・・・と)は、少し違うけど。 「一滴も飲めない」というヤツのほうが、ソフトドリンクには滅法、詳しいんだ。羨ましいよ。 「季節に合う酒」、「食べ物に合う酒」は、嗜んでも、「誰かにひけらかすような酒」は、したことが無い。 ・・・しようと思わないからだ。 一番、イイのは、テレビ番組でも、特にお気に入りで、ビールを開けてしまうようなの、とか。ネットで囲碁・将棋をして、(飲んでいるのに!)会心の勝ちをした、とか。 ま、そんなところかしらね。 (何が訊きたいの?) お気に入りの「酒のお供」は、有りますか? 宜しくお願い致します。(流石に、カテゴリ選択)

  • 仏教で、社会的弱者を不要とする考えを戒める教えは?

    自然界では弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を助けることが必要なのか と、障碍者や高齢者と言った弱者を邪魔者扱いするヤカラに対して その反論と言える仏教の教えや、お経の詩句はありますか。

  • 幸福

    こんばんは。 (曰く) >「我々は、疑うことでしか信じることができないので、世界の全てに疑いを持つのですよ。」 「一期一会」や「物事の一回性」といったことを考えたら、迂闊に「同じ!」などとは言えないような。 それは、もはや「疑わないで」というより「信じないで」ということのほうに近いような。 (曰く)「神のみもとに召されるのが、幸福」 たぶん、それには、現実には報われるかどうかも判らないというような、苦労も、有るんだろうと(は)、思います。 「メルヘンチック」・・・(曰く)「童話・御伽話のような」 「この世で、何不自由の無い生活を送りながら、その永続を希望する」・・・(現代の)王様、あるいは王族だ。 そして、往々にして、「この世には「不条理」なんてモノは無い」と主張されるだろう。 (注)厳密には、「人権侵害に当たるような「富の蓄積」」は、認められない、ということになるような、気がします。 (何が訊きたいの?) さて、このよーな世の中で、「幸福」とは、何でしょうか? (まさに、人それぞれで、多様なご回答を頂けることが、期待されます・・・正直かどうかは、別として。) (一応、哲学・倫理・宗教学、らしい) ※追伸 (曰く)「私のキリスト系中二病なんてスゲーだろ?」 うん 私の中で、幾つかの事象が、繋がったような気がしています。

  • 声小さい男性がいます。

    彼は高校時代からかなり声が小さく『お前声小さいんだよ!』とよく男連中から言われてて私は『自分に自信がないのかな?』と考えていたらそうでもなく、過去にキレた時があり、かなり大きい声でした。(暴力も振るったと思います) 普段は怒られても平然としており、泣きません。 こういう男性は本性が怖いんですか?

  • 自利か利他か、仏教的にどう考える

    日本には、自分を犠牲にする、とくに命をかけることを美談とする風潮があります。 ハラキリ自害とかね。 戦争の玉砕とかね。 現代でも鉄腕アトムもそうでしたし、『法華経』信者の宮沢賢治は、『法華経』常不軽菩薩品第二十に登場する菩薩をモデルに『虔十公園林』を書いていますが、主人公の虔十は途中で亡くなっています。 つまり、命がけで事をなしています。 しかし、お釈迦様の仏教を継承するとするテーラワーダ仏教は、そういう考え方を否定して、自利があってこその利他だといいます。 さて、自利か利他か、仏教的にどう考えますか?