DQNと云われる人が居るので体罰は無くならない?

このQ&Aのポイント
  • DQNという人々が存在するため、体罰はなくならないのか疑問です。家庭の躾が重要だと思いますが、それも家庭によって異なるため、体罰は必要な場合もあると考えられます。
  • 1980年頃の私の小中学時代、暴れる同級生の家庭は暴力的で、それが子にも受け継がれていたように思います。このような人々を組織に取り込むためには体罰が必要なのでしょうか?
  • 根性論やモチベーションを上げるためには、時に体罰が必要なのかもしれません。例えば、学校の運動部や会社では、暴力を通じて序列や立ち位置を確認するために体罰が行われていることがあります。このような組織が存在する理由や体罰の必要性について考えるべきです。
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DQNと云われる人が居るので体罰は無くならない?

公立の小中学校にはたまたまその地域に居ると云うだけで 色々な人(子ども)が入ってきます。 学校の教師よりも家庭の躾が大切だと思うのですが、 この躾と云うものもその家庭によって違うと思います。 私も至らない事は多々ありましたが、幼少時から「決まりを守る」「嫌がらせはしない」という事は云われました。 が、この様な事がそれぞれの家庭によって違うので、 「体罰」は無くならないし、それでしか枠組みに入れない人間が 正しくないが存在するという事があると思います。 私の小中学時代(1980年頃)学校で暴れている同級生の家庭は 親や周りの大人も暴力的なタイプでそれが子に連鎖している様でした。 「負けるな いわして来い」という様な躾でした。 親である人自身もそれで自分の立ち位置を保っているという感じでした。 悲しいですがこの様な人達を枠組みに入れようとすると「体罰」が必要悪的なものになるという事なのでしょうか? (モチベーションを上げるという事や根性論も時には必要という事を 踏まえたうえで)学校の運動部や会社等でこの様なタイプは 「(可笑しいし許されないが)自分の立ち位置を探るために暴力 (そこで序列を確認する)」「その様な環境が居心地が良い(そこでしかやっていけない)」という事に成るのでしょうか? 私は嫌いですが、この様なタイプを活かす道としてこの様な組織があり、「体罰」でしか枠組みに入らず、それで立ち位置を確認していくという人種の人が居るので、「必要悪」的なものになるのでしょうか?(彼等に言葉で学校や組織のルールを教えるのには彼等の生い立ちそのものを変えないといけないと思います。罰則としての体罰を超えて家庭も暴力的で強いから従え的な感覚で育っているという事に成るとその様な組織でしかやっていけないという事に成ると思います。)

noname#250543
noname#250543

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  • ベストアンサー
  • tuyosik
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回答No.1

嫌にならない、慈しむ、哀れむ、ほめる、放っておく。害さない、助ける。欲ばらない、与える。今ここに気づく、集中、精進。ありのままに知る確認。悪いことやめる、よいことする。悪友から離れる、善友に親しむ。陰口しない。嘘つかない。悪口しない。無駄話しない。正しく話す、動く、生活。暴れない、冷静に、落ち着く、おだやかに、軽快に、やわらかく、適合、うまく、真っ直ぐやり終える。と思います

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 良い言葉だと思います。 》嫌にならない、慈しむ、哀れむ、ほめる、放っておく。害さない、助ける。欲ばらない、与える。今ここに気づく、集中、精進。ありのままに知る確認。悪いことやめる、よいことする。悪友から離れる、善友に親しむ。陰口しない。嘘つかない。悪口しない。無駄話しない。正しく話す、動く、生活。暴れない、冷静に、落ち着く、おだやかに、軽快に、やわらかく、適合、うまく、真っ直ぐやり終える。と思います どの様な状況であってもこの様な思い(持続する事は難しいが)を根底に大切にして参りたいと思います。

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