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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか)

普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.3

お礼と補足を拝見しました。 字数制限超過のため、例によって2つに分けて書きます。 (その1) @<前後関係でも示されない限り、どちらかと決めつけるのは尚早に過ぎるように思います。>-Going to the church always makes me feel gloomy. I'd rather go to the cinema instead. これだったら、「例の・いつもの教会へ行く」という意味は出にくいと思います。/私の普段の授業では、go to churchは礼拝にゆく、goes to the churchは教会という建物にゆく、と教えています。/goes to the churchは礼拝にゆく、つまりgo to churchと同じ意味で使うのだと言う人(アメリカ人)もいます。冠詞の解説書でそのことを記述しているものもありますが、なぜgoes to the churchがgo to churchと同じ意味で使われるのか説明したものはありません。/アメリカ英語では、go to the Xはgo to X の意味と、その場所又はいつもの場所に行く、の意味の両方があるようです。/churchもmarketもcollegeもhospitalも<町での暮らしにおいて、人がおおぜい集まる場所>という上位概念を構成するデフォルト要素として人々に認められているので定冠詞がつくと言えそうな気がするわけです。 ⇒新しい情報をありがとうございます。「Going to the church always makes me feel gloomy. I'd rather go to the cinema instead.なら『例の・いつもの教会へ行く』という意味は出にくいと思います」について「出にくい」ことは納得ですが、絶対出ないわけでもない、ということですね。また、「アメリカ英語では、go to the Xはgo to X の意味と、その場所又はいつもの場所に行く、の意味の両方がある」とのこと、私もそれを考えていました。前便でのご提案(同一言語共同体での用法を比較すべき)はそれゆえでした。なぜ定冠詞がつくのかという疑問に対する説明のための補助線として、sea, forest, mountainsなどを取り上げ、上位概念を構成する自然環境を想定すると、各語はその下にぶら下がるデフォルト要素として認められるので定冠詞がつく。それと同様、churchもmarketもcollegeもhospitalも公共的施設という上位概念を構成する典型的な範例要素として人々に認められているので定冠詞がつくと見たことについては納得できます。 @カントが登場した当時の時代背景ですが、自然科学がニュートンの物理学を基礎に据えて自らの正しさを標榜していました。ところが、経験論的な素朴な発想のものでしかなかったために、その正しさを示す原理が存在しないも同然でした。/一方、合理論的な発想だと経験で得られたものの正しさをきちんとくみ取れない、あるいはくみ取ろうとしないということがありました。そこで、カントは経験論的な発想を大幅に取り入れた形で、かつ、経験で得られたものを統御するのは理性であるとする合理論的な発想を残しました。/カントの功績を認めない反動的な勢力がいました。一方の勢力は経験論者達です。彼らは人間の側に認識を統御する理性がアプリオリに備わっているとするカントの考えを受け入れようとしませんでした。/合理論者の方でもカントに不満を持ちました。カントは、人間は本質(絶対の確実性を持つ真理-カントの言葉では物自体)を把握することはできない、本質から現象してくるものを理性によってとらえることができるだけだとしました。でも、その考えによって、理性が窮屈な場所に閉じこめられてしまったように感じた人たちがいたようです。彼らは理性は強力な力を持つものであって、理性の働きによって本質にたどり着けると主張しました。/ドイツ観念論に共通して言えることですが、カントの説にあった経験論的な傾向を排除しようとするあまり、理性に比重をかけすぎたため、客体性がさらに強いものになりました。人間はもともと主体と客体とに分離されていて、そこから非客体的状況へと向かわなければならないとするわけですが、最初の出発点で主体と客体との対立状況が前提されるために、論理的にはどうしても矛盾が残るものになります。ヘーゲルの理性とは、カントの設定した経験論的な制約を取り払って、絶対精神として社会や歴史を創造してゆくというダイナミックなものでした。彼の論法はほとんど詭弁のように私には聞こえます。彼よりより少し前に活躍したシェリングの場合は、主体自身が本質に合一することを目指すもので、宗教的色彩の濃いものになりました。ヘーゲル哲学においては精神とか理性とかが喧伝され、人間の主体性は無視されたので、そのことがキルケゴールやマルクスの批判を呼び起こしました。でも、彼ら二人は主体と客体の対立を克服しようとはしましたが、出発点でそうした対立状況を前提としていたため、結局、矛盾を解消することはできませんでした。 ⇒分かりやすいドイツ観念論史をありがとうございました。私は、「人間の側に認識を統御する理性がアプリオリに備わっているとするカントの考えを受け入れようとしなかった」という経験論者達に共感します。もっと言えば、哲学史上のドイツ観念論者の各派が一様にカントの呪縛とでも言うべきアプリオリという桎梏に絡め取られているような気がしてなりません。私の勘違いがあるかも知れませんが、ヘーゲル(絶対精神論)も彼の周辺のシェリング(直観論)やヘルダーリン(汎神論)はこの問題に向き合うことを無視したし、キルケゴール(実存論)やマルクス(経済論)は別の問題への関心に心奪われてこれに関知しなかったのではないかと推測されます。変な喩えですが、陣地を飛び立って敵地に降り立った落下傘部隊が、その着地点から自陣へ向って陣地を拡大していって、自陣につなげようとする場面を考えます。ドイツ観念論者の立てる前提は、落下傘部隊の着地点に似ています。戦いの場面なら戦略の1つとしてよい作戦かも知れませんが、我々が当面する探求のための仮説の設定(立地)としては、つぶさに一考を要することだと思います。なぜなら、その仮説の設定の根拠に信憑性が備わっていなければ、それを元にした演繹も、正しい推論も成り立ちません。そもそもの有り様を無視して、自分のお気に入りの虚構を据え、そこから出発して自前の問題解明に取りかかるという、根本原理を無視したようなやり方はどこか嘘っぽい机上の空論のような感じがしてなりません。ゲームの前に絶対的ルールを一方的に提示し、しかもそれがなぜ絶対かなどの説明が一切なく、ただ「そういうものとする」という金科玉条として与えられる絶対的前提とも見えます。「人間はもともと主体と客体とに分離されていて、そこから非客体的状況へと向かわなければならないとするわけですが、最初の出発点で主体と客体との対立状況が前提されるために、論理的にはどうしても矛盾が残る」との表白にもその片鱗が見える、と言えるかも知れませんね。私としては、そこに困惑の元凶があるように思うわけです。実は前便で、「feeders仮説」は面白いと思いますが、ただ、懸念されることは、心なしかドイツ観念論にも似た匂い・感触があって云々…と申しましたのもまさにこのことと関係があります。(後述) @このようにドイツ観念論は欠陥の多いものでしたが、その欠陥を修正するためには、カントにまでさかのぼって主観-客観図式にメスを入れるしかありません。そこに登場するのが現象学です。フッサールは、主観-客観図式を解消するためにある実験的な操作を行いますが、うまくいきませんでした。その後、紆余曲折があって、晩年になって生活世界というものを提唱します。これは世の中の一切の知識や経験や生活を支えている基盤のようなものです。もちろん非客体的な場所です。ただ、彼は、それが具体的にどのような働きのものであるかを分析することはしませんでした。同じものをハイデッガーも提唱しました。それが世界内存在という存在体勢です。ハイデッガーはその場所がどのような場所であるかについて詳しい分析を行いました。/ハイデッガーはドイツ観念論の批判的継承(ただしかなり異なります)という面も持ち合わせているとも言えそうです。 ⇒先の段落で、哲学史上のドイツ観念論者の各派が一様にカントの呪縛とでも言うべき先験性という「拘束衣」に絡め取られているような気がするということ、キルケゴールやマルクスは別の問題に心奪われてこれに関知しなかったように見えることなどを縷々述べました。さらに加えれば、フッサール(現象論)やハイデッガー(被投企・世界内存在)でさえ、私の目には、経験論にこだわり、あるいはこれを無視しながら、結局はカントの呪縛から脱却しきれていない面があるように思えてなりません。不連続な形而下と形而上とを無理につなぐ、あるいは、形而上の概念や術語を何の条件・吟味もなしに形而下に持ち込み(あるいはその逆)、ご都合主義風に利用しているという疑惑を抱いてしまうからかも知れません。私には分かりませんが、哲人はこの不連続をつなぐ方法を持ち合わせているに違いありません(オルテガは「天才は単純化の名人」と言いました)。持ち合わせないとしても、少なくとも、意識に留めておくことは必要だと思います。

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    概念が情感を喚起することがあるかというテーマで質問させて頂きます。 前々回と前回の質問の際に少しだけ話題に出しましたが、ヘレン・ケラーの話を再度取り上げます。たしか、前々回の回答者の方からも話題にして頂きました。その時の回答者の方は、「概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われる」という話と関係して紹介なされたように記憶しております。  その時の文を厚かましいのは承知の上で使わせて頂きます。(ご無礼でなければいいのですが)  <ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これがwaterというものであることを知りなさい! そして言ってみなさい! 発音してみなさい!言ってみなさい!!」>---以上引用文 実に感動的な場面でした。映画「奇跡の人」のあの場面をみて感極まらない人はなかなかいないと思います。さて、ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時でした。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったわけです。 では、なぜ、Water!という言葉が感動を与えたのでしょうか。そもそも言葉に感動を与える働きがあるのでしょうか。確かにあるとしか言えません。もし、あの場面が無声映画で字幕もついていなかったとしたら感動はあったとしてもさほどのものではなかっただろうと思われますから。  感動は、言葉そのものが持つ意味と文脈の相互作用によるものだと思えますが、今回の議論においては、文脈(状況)という要素を極力排除して、言葉そのものが持つ意味だけを問題にすることとします。文脈(状況)という要素については後で(つけたし程度ですが)言及することにします。  ここで、名詞が限定詞を伴う場合とそうでない場合とで感動の仕方(情感の感じ方)に違いがあるのかをwaterを例にとって考察してみたいと思います。 Water is a clear pure liquid. におけるwaterはカテゴリーであって、話者によって客体的(傍観者的に)とらえられるものなので情感を表すことはできません。カテゴリーの機能は整理と秩序づけだと思われますが、こうしたものを志向するときはどうしても客体的な見方が必要とされて、言語主体と対象との間に隔たりが生じます。隔たりのあるところに情感の行き来はありません。  I drank some water. におけるwaterは実体ですが、空間的限定が与えられている(客体化されている)ので言語使用者との間に隔たりを持ちます。隔たりによって情感の行き来は阻まれます。隔たりが消失するか、または隔たりが生じる前の段階でなければ情感が生まれることはないはずです。 Water, water, waterrr!! ....." の場面において、<水>の冷たさやさわやかさをヘレンは実感として感じ取っていますが、同時に、それを観客も実感しています。ヘレンだけでなく、観客も画面を通じて<水>の冷たさやさわやかさを実感しているわけです。  ただし、うれしさや驚きまでといったような情感までも、実体としてのwaterが生じさせることはないと思います。では、そうした情感はどこから生まれるのでしょうか。実体としての<水>には実感を引き出す力はあっても、情感を喚起する力を持っているとは思えません。なぜなら、情感がわくということは言語使用者が自分の心の中の何かと関わるからだとしか考えられませんから。そうした力があるとしたら実体ではなくカテゴリーの方だと思われます。  ということは、カテゴリーに2種類あると考えるしかありません。一つは定義文に見られるような客体的に言い表されたカテゴリー(意味)です。もう一つは言語主体との間に隔たりが存在しない前客体的なカテゴリー(意味)です。前者のカテゴリーの働きはその属性を表わすことだけです。一方、後者のカテゴリーには人間に情感を生じさせる力があると考えるしかありません。 でも、情感を実際に感じ取るためには、I feel fear now. におけるように、概念がカテゴリーでもあるし、同時に実体である(ただし、空間的制約が与えられず、量が明確に意識されない)という状況が必要とされるはずです。  ということは、Water! という実体が冷たさやさわやかさを実感させ、同時にwaterという前客体的なカテゴリーである<水>の意味と相まって、嫌だな、とか驚いたとか気持ちいいとかいった情感的反応が観客の心の中に生じるのではないかと思います。 (文脈・状況的なことには触れないつもりでしたが、少しだけ触れておきます。おそらく、我々観客が映像がかもし出す雰囲気の中に浸り込み、自分が観客であることを忘れてしまう時、前客体的なカテゴリーによって情感が引き起こされるのではないかと思います。)  結局、Waterの持つ前客体的なカテゴリーと<水>という実体とが相補的に影響しあって情感を引き起こすとしか言いようがありません。もちろん、私の仮説にすぎませんが一応の合理的な整合性を持っているように思われます。いかがでしょうか。  では、なぜその時に情感が生まれるのかということですが、情感が発生するのではなく、もともと認知行為の最初の時点において情感が存在していたのではないかと思います。そもそも認知行為の最初の時点において、知覚相だけでなく情感相も働いていたのだと考えるしかなさそうです。前々回の私の投稿でも述べましたが、一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。そもそも言葉は心的な経験でもあるので、そうした経験に情動・情感的相がかかわらないわけがありません。知覚的相と情感的相は相互補完的なものであるはずです。 これは、私の仮説ですが、言語主体が何か(例えば水)を認知する時、まず訪れるのはカテゴリーと実体に分化する以前の状態だろうと思います。"Water!" も"Summer (has come)." も"(I feel) fear (now)."も、カテゴリーと実体に分化する以前の状態だと考えれば、言語主体が実感を伴って、場合によっては情感を伴って関わりを持つ、そのような状況だと思います。(その場合、文脈や状況次第で情感の強さが異なるのではないかと思います。) その後、概念がカテゴリーと実体とに分化してゆくと、情感や実感はもっぱら語が持つイメージや文脈などから間接的に与えられるものとなっていったのではないかと思います。 例えば、I feel fear now. においては、おそらく、不安・恐怖は話し手が直接的に感じ取るものだろうという気がします。一方、some fearという語からも実感がわきますが、これはfearという言葉の持つ意味が間接的に生じさせるものだろうと思います。 先ほど述べた仮説の言い方を変えると、時間と空間の制約を受ける実体(someや冠詞などの限定詞がつく)はもっぱら知覚の相において把握されるものであり、時間と空間の制約を受けない実体(someや冠詞などの限定詞がつかない)は前客体的なカテゴリーと共に、情動や情感の相において把握されたものであると言えるのかもしれません。 ここで、概念とまでは言いませんが内包に非常に近い用法の場合を考えてみます。 "(Bring me) jewels(. Be quick.)においては、 jewelsは概念ではありませんが概念に非常に近い働きを行っています。"Water"!やfearと同じように考えてよいのではないかと思います。宝石強盗の持つ切迫感とか、脅迫めいた語調が伝わってくるような気がします。 同様に、Summer has come. やNight is coming on. において、実体としてのsummerやnightは話し手に暑さや暗さを実感させると思いますが、暑さに伴う不快感・開放感や暗さがもたらす不気味さ・不安やロマンチックな感じをもたらすのは、カテゴリーと実体に分化する前段階のsuumerやnightだろうと思います。 以上です。ご意見をお持ちしております。

  • 他のヨーロッパの言語にはあって英語にはないもの

    英語には名詞の性の概念が存在しません。これは、もともと存在しなかったのでしょうか? それとも、昔は存在していたけれどなくなったのでしょうか? 他のヨーロッパの言語の多くは、動詞が人称・時制・法などによって何十種類にも活用しますが、英語の動詞の活用パターンは極端に少ないです。これについても、もともと少なかったのでしょうか? それとも、昔は多かったけれど少なくなったのでしょうか?

  • 現在分詞、過去分詞と関係代名詞の関係は?

    英語 現在分詞、過去分詞が名詞を修飾する働きは関係代名詞自体とはどのように違うのでしょうか。 例えば、(1)The girl standing over there is my friend.は        The girl who is standing over there is my friend. でもいいのか。             (2) The cookies baked by my mom are the best in the world.は         The cookies which are baked by my mom are the best in the world.でもよろしいか。 よろしくお願いします。

  • 固有名詞に対する限定・非限定

    固有名詞に対する限定・非限定というテーマで質問させて頂きます。 例文を挙げておきます。たぶん許容されると思います。 When I saw a poster saying, "Welcome to beautiful Paris", I heard a man close to me screaming, "Beautiful Paris? Damn it. We have had a lot of snow mingled with rain all week. I just see a wet, cold and miserable Paris instead of a beautiful Paris". a wet, cold and miserable Paris instead of a beautiful Parisにおいては形容詞によってParisが種類分けされています。ということはParisは普通名詞として使われていることになります。ところが、"Beautiful Paris?ではParisに不定冠詞がついていないのでそうした種類分けがなされていないと考えるしかありません。ということは、ではその場合のParisは本来の固有名詞として使われていることになります。  では、その場合のbeautifulという性質は、もともとParisが持っているはずだと話し手が考えている内包(特質)の一つであって、ここでは話し手がその特質を焦点化していると考えてよいのでしょうか? 普通名詞の場合は、内包がどういうものであるかは言語共同体による広範な同意が伴うと思いますが、固有名詞の場合は厳密に言うと、ものの数だけ作ることができるので、必ずしもそうした同意がなされるとは限らないと思います。ということは、ある固有名詞の内包の核になる部分は固定したものであっても(例えば、Parisの場合はa city named Paris )、内包の周縁部は話者によって個別かつ主観的にとらえられたものなのではないかと思います。ということは、Parisの内包は話者の数だけ存在するとも言えますが、いかがでしょうか。もしそうであるなら、例えば次のような文が書けると思うのですがいかがでしょうか。 A poster at the entrance of Paris's City Hall: "Welcome to beautiful Paris. May you have a good day today."  Arthur Rimbaud: "Beautiful Paris? No kidding! Don't you see lots of unemployed workers, lots of homeless children and lots of dishonest merchants? Damn it. The poster should say, "Welcome to miserable and hell-like Paris". ネイティブチェックは受けていませんが、たぶん大丈夫だと思います。 あるいは、核になる部分は言語使用者の間でなるべく共通のものであるべきであるけど、内包を構成する周縁部分は個別の色彩を持つものであってもよいのでしょうか。そして、それを言語使用者が自分の都合で焦点化してもいいのでしょうか。