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「要請」・「二律背反」について
- カントの「要請」についての理論のきっかけとは何か?
- 「純粋理性批判」における二律背反とは何か?カントの合理論批判について
- カントの「要請」と「二律背反」について詳しく教えてください
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(1)カントにおける「要請」と「信仰」の関係についての質問です。 「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」(Ich muss also das Wissen aufheben, um zu Glauben Platz zu bekommen.)と言ったそうですが、その「信仰」とは、実践理性による「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを「要請」することを意味するのですか? (2)カントにおける「要請」と「公準」の関係についての質問です。 「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを道徳の実践のために「要請」するという場合、そこには「公準」の意味は無いと聞きましたが、これは本当ですか? たしかに、この場合の「要請」が「信仰」を意味するなら、それが同時に「公準」でもあるというのはへんですよね。「信仰」は幾何でいう「公準」などとは全くカテ違いでしょうから・・・。 一般に、カントの「要請」は「公準」の意味もあるといわれますが、仮に、この(2)の答が「Yes=本当」だとすれば、では、どういう「要請」の場合に、「要請=公準」の意味になるのですか? (3)「要請(する)」と訳されている原語(ドイツ語)について質問です。 カントは3批判書、特に「実践理性批判」の書で、日本語で「要請(する)」と訳される原語としては、名詞のPostulatと動詞のpostulierenと、どちらの方を用いているのですか?どちらも使っているなら、おもに使用している方を教えて下さい。 (4)日本語の訳語と原語との対応関係についての質問です。 使用しているのが名詞のPostulatだけなら、日本語の訳語は「要請」と「公準」の2つで済むでしょうが、動詞も使っていてなおかつ、日本語で言うところの「公準」の意味を含むなら、「要請する」という訳だけでは不十分ということになりますよね。 だって、日本語では「要請(する)」と「公準」とはまったく関係ない言葉だからです。意味が直結しません。 「前提(する)」と「公準」ならわかりますが・・・。 つまり名詞のPostulatも動詞のpostulierenも日本語に訳せば「要請(する)」と「公準」の両方を意味するというのが不可解です。 (A) ドイツ人・・・というかカントの頭の中では、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とが意味的につながっていたのでしょうか? (B)postulierenという動詞は、日本語で「公準(と)する」と訳し得るような意味があるのでしょうか? 日本人の常識では「要請(する)」と訳される言葉が「公準」という意味もあるということ自体、ピンとこないのが普通だと思います。一方は動名詞で一方は名詞だし・・・。それが元のドイツ語では不自然ではないとすれば、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とがあちらでは意味的に近いのでしょうかね? (C)日本語で「要請」と「公準」の2つをつなげるとしたら、<「公準」を「要請する」>といった動詞と目的語の関係しかないと思います・・・少なくとも「要請=公準」とはならならと思うのですがいかが?
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