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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「要請」 ・ 「二律背反」について)

「要請」・「二律背反」について

ghostbusterの回答

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回答No.2

えっとですねぇ。 すんごい悩んでます。 ここまで細かいことは絶対に必要ない。 かえって質問者さんを混乱させるだけになるかもしれない。 それでも…それでも、気になるんです。 だから、二種類、回答を書きますね。 簡単な方と細かい方。 細かい方は、気が向いたら読んでください。 で、もし大学に行って、哲学科に進むようなことがあったら、もう一度読み返してみてください(誤りを見つけられたりして^^;)。 ---(簡単な回答) 意志の自由、霊魂の不死、神の存在は、論理的に証明することはできないけれど、「実践理性」の「要請」として認められます。 ここでの「要請」は、あくまで「公準」(公理に準ずるもの)という意味です。 ---(ほとんど無意味に細かい回答) 「自由」は「霊魂の不死・宇宙・神」の形而上学の三大問題とはやっぱりちょっと位相がちがうんです。 ちょっと整理してみましょう。 まず『純粋理性批判』の中で、カントは人間の理性(推理の能力)には限界があることを証明します。 人間は実際に経験し得ないものごとに関しては、認識することはできない。 けれども人間には理性が備わっているため、実際には経験したことがないことであっても、推論を積み重ねることができてしまうのです。 従来の形而上学の誤りはそこにある。 霊魂の不死、宇宙、神について、推論に推論を重ね、誤った議論に陥ってしまっている。 カントは霊魂の不死に関して、従来の形而上学が陥った誤りを「先験的誤謬推理」と名付けます。 つぎに、宇宙論での誤りを「二律背反」としてとりあげます。 「二律背反」は、理性を誤って使用することで、まったく相反する二個の結論に達してしまう、ということで、以下の四つがあげられます。 第一の二律背反:世界は時間上始めを有し、空間に関しても限界を有する。 ←始めを有せず、限界を持たない。 第二の二律背反:世界におけるすべての実体は単純な部分からなる。 ←単純なものは存在しない。 第三の二律背反:世界において自然因果律の外に自由な原因が存在する。 ←一切は自然因果律によって生起し、自由というものはない。 第四の二律背反:世界にはその部分としてかあるいは原因として絶対的に必然的なものが存在する。 ←世界の内にも外にも絶対に必然的なものは世界の原因として存在しない。 最後に、神の存在証明をおこなう上での従来の誤りを指摘し、存在を証明することはできない、とします。 こうしてカントは従来の形而上学を批判しました。 そのうえで、つぎの「実践理性批判」において、形而上学をあらたに人間の側から再構築していくのです。 このとき、まず「自由」の存在は、二律背反でみてきたように証明することはできないけれど、意志の自由は道徳律の存在根拠である、というありかたで見出すことができる、とします。 けれども霊魂の不死と、神の存在は、「実践」という方法においてさえ直接与えられることはありません。 もしかしたら、カントがもっとあとの時代に生まれていたならば、このまま霊魂の不死も神の存在も、人間には知り得ないもの、として放っておいたかもしれません。 けれども、カントはやはり18世紀の人で、おそらくは霊魂の不死と神の存在は絶対的な信仰としてカントの中にあったのでしょう。 そこでカントは「要請」という形で認めることができる、としたのです。 ここでの「要請」ももちろん「公準」という意味なんです。 でもやっぱり…「強く請い求める」という「要請」のもうひとつの意味は響いていますよね。

tomatooow
質問者

補足

ありがとうございました。 本当に毎度毎度ご親切に教えていただき恐縮です… 細かい説明まで本当~に感謝します!!! ありがたいです。           m(__)m

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