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江戸時代の、加賀藩の四国への国替えの話について
『江戸時代に、加賀藩が四国への国替えを、江戸幕府より打診された事がある。』という話を聞いた事があります。 その、『加賀藩が、江戸幕府より四国への国替えを打診された事がある。』という話について、下記(⇩)の3つの質問があります。 (1) その、『加賀藩が、江戸幕府より四国への国替えを打診された。』というのは、いつの話で、その理由は何だったのでしょうか? (2) 加賀藩のどの藩主が、その四国への国替えを拒否したのでしょうか? また、その拒否した理由は何だったのでしょうか? (3) 江戸幕府の思惑では、もし、加賀藩が四国への国替えを希望して受け入れたとしたら、その場合、土佐藩等の四国の藩の処遇は、どうするつもりだったのでしょうか? 以上の、上記(↑)の3つの質問の答えを教えてください。
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加賀藩の史料「国初遺文」に載っている話ですが、幕府の史料にはありません。 先月11月17日(日)石川郷土史学会の月例研究発表会が、金沢で開かれ、加納嘉津政さんが「利常の四国加増問題について―「国初遺文」他史料より―」と題して、発表されています。 とても分かりやすく説明されています。 https://ishikyodo.exblog.jp/239777680/ 「国初遺文」 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/1700105100/1700105100100020/mh000263
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- jkpawapuro
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NO1さんのURLを拝見しました、面白い話題ですね。 事実が何も出てきてない段階ですので状況からの憶測ばかりになってしまいますが・・・ 加増なら受けないわけないので、国替えの打診でしょうね。大坂の陣の褒美を名目とした徳川幕府による大名の再配置。基本的には外様の大半を遠国へというのが一貫した幕府の方針です。 当時の加賀藩は支藩分与前なので120万石近く。 四国だけじゃ明らかに石高が足りないのでおそらく豊後も含めて。 もともと四国の諸大名で先祖伝来の家はほぼありませんので転封はしやすいですね。でかいのは山内と蜂須賀かな。行き場所は若干の加増で代わりに北陸ではないですか? 北前船の就航地は土地柄としても裕福な側ですし問題なさそうです。
- あずき なな(@azuki-7)
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三代藩主前田利常の時代に幕府からそういう話があったらしいですが これには諸説あります 国替えでは無く加賀・能登・越中の前田家の領地にくわえて 四国(土佐)を与えて加増させると言う話だった (これは前田の分家に所領を与える目的だったとか色々言われています) 多分実際に幕府から国替えを言われたら拒否は出来ないと思います 拒否すれば謀反の罪で改易になりますから 加賀藩がそういう事になってないところを見ると 実際にはそんな話は無かったんだと思います
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補足
御回答ありがとうございます。 >国替えでは無く加賀・能登・越中の前田家の領地にくわえて 四国(土佐)を与えて加増させると言う話だった (これは前田の分家に所領を与える目的だったとか色々言われています) しかし、土佐の領地を与えるのだとしたら、その場合、 山内一豊とかの土佐藩・山内氏の処遇は、どのようにするつもりだったのでしょうか? 江戸幕府に、もし、土佐の領地を与える思惑があったのだとしたら、その場合は、土佐藩・山内氏の処遇はどうするつもりだったのか、推測でもいいので、考えを教えてください。