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江戸時代の借財
わたしの、ご先祖は江戸時代、家が潰れるレベルの高額の借財(もしかしたら利子が高かったから、さらに高額に膨らんだ?)をしますが、お金を貸す方は、よっぽど信用してるのと、家柄とかを見て貸すみたいですが、それほど審査基準が厳しかったのですか? ご先祖は農村に家があったから、農村に金貸しがあったかは、疑問ですが ご先祖は武士だったから、お金を貸してくれたのでしょうかね
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百両ですか!! 大金ですね。 質地証文をちょっと調べてみたのですが、そんな大金の例は見当たりませんでした。 事例1 万延元申年 伊豆国田方郡土手和田村 http://www.ihmlab.net/tweet/komonjo/6151/ (一部抜粋)屋敷地1畝15歩(45坪)と上畑4畝歩(120坪)を担保として、20年の年季で金26両を借用。利足の記載はない。幕府法では年季は10年を上限とするとある。借金の額も高額であり、利足分を含めた特別の処置かも知れない。 事例2 1689 (元禄2)年 下総国鏑木村 https://www.jstage.jst.go.jp/article/joah/42/0/42_KJ00009050400/_pdf (一部抜粋)年貢を納めることができず下田 1反 1畝 25歩 と この田地に付属する松山を売渡した売渡証文。 金 8両2分を受け取り,年貢を納めた。 新発田藩のある武士は、具足一式を質に入れて23両借りている事例もあります。 あなたのご先祖様もこれまでの地元での信用で担保以上の借金ができたのかもしれませんね。
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- kouki-koureisya
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農村に土地・屋敷があったのならこれらを抵当にして村の有力者から借金したのではないでしょうか。 村には「金貸し」を専業とする人はいませんでしたが、カネに余裕のある庄屋・名主などが、土地・屋敷を担保に(質地という)「金貸し」をしている例はいっぱいあります。 約束の期限までにカネを返せなくなれば、土地・屋敷は取り上げられることになります。 こようにして大地主が生まれたそうです。 石高わずか1-2斗の田畑でも質地とした証文もありますから、武士だからカネを融通してもらえたというよりは、村の相互扶助としてカネを融通してもらえたと思います。 「質地証文」で検索すれば全国各地の事例がいっぱいでてきます。 古文書ネット「質地証文」の例 https://komonjyo.net/sittisyoumon02.html
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ありがとうございます、チップを送りたいのですが、不具合が生じていて送れません、運営に問い合わせ解決待ちです
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100両くらいの借財ですから、貸す方も慎重だったかと思います 返せなくなって、屋敷の土地はもってかれましたが、親せきがみんなで、お金を出しあって元あった土地の近くに屋敷を建ててくれたそうです。土地だけは自分の家で何とかなったらしいです。多分、畑を潰したのでしょうか
- g27anato
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当初は信用無担保で貸付けていましたが、 江戸後期には困窮武家救済の目的で幕府や藩が借金帳消しの令を多発しました。 貸付する商人は踏み倒しを避けるため審査を厳しくして担保を求めるようになり、借金に苦労する武士も増えました。 土地は農家の所有ではなく藩から授かった武家の管理下だったので、 その辺りに絡む何らかの利権と借金を引き替えに、金貸し商人に対して貸し与えていたのかもしれませんね。 石高(食い扶持)の少ない武士は借金もできずに、家財を売り払ったりして最後はアルバイトで凌いでいたようです。
補足
うちは出自が郷士なので土地所有の藩士でした。結果的に屋敷の土地で借財を返し、屋敷は後で親せきの助けで、新たに屋敷を建てる土地を購入し屋敷も立て直しました
- oska2
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>ご先祖は武士だったから、お金を貸してくれたのでしょうかね 江戸時代は、武家の株が売買されていました。 奉行所の同心株・与力株は、商人・豪農にとっては一番欲しい株なのです。 与力で、1000両。同心で、200両です。 借り手が武家なら、返済事故の場合は「与力株・同心株で返済」するのです。 貨幣経済が進んだ元禄以降は、借金が原因で浪人になった侍が案外多かった様です。
お礼
ありがとうございます
お礼
ありがとうございます