• 締切済み

なぜ太っていることが悪とされるのでしょうか?

nagata2017の回答

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6277/18695)
回答No.5

肥満と言っても 程度の差がありますが 悪とされるレベルの話ですね。 食料については なにを食べるかについては関係なく 必要量以上に食べるということが問題です。 (お菓子などのメーカーは肥満するまで食べる客は大歓迎でしょう。) 体の大きさは 公共の乗り物ゃ座席について  バスの二人用の座席に二人座れない 映画館の座席からはみ出す ひじ掛けを左右占領して さらにはみ出す。 エスカレーターが停止する エレベーターが動かない 自動車の燃料消費量が増える。 でも 個人ではなく 企業側に悪が潜んでいることのほうが多い。 テレビの深夜番組のCMでは「アブ〇〇〇」などという名前のダイエット用器具のものが大量にあふれている。 昼間はおいしそうなお菓子ゃ料理のCMや番組を流して肥満者を大量生産して 夜はダイエット用品のCM。 24時間金儲けのネタがつきないというわけですね。テレビ局は。 アメリカでカウチポテトという言葉がある。カウチとはソファーのこと 仕事が終わって疲れて家に帰ると ソファーに座ってポテトチップを食べながらテレビを見る。それが庶民の日常の生活。 それを「カウチポテト」と表現した言葉。 そこでポテトチップばかりではなく おいしそうなお菓子のCMを大量に挿入するわけですね。 肥満を作り出しているのは テレビ。

関連するQ&A

  • 神は全てのワルを超えている

    ワルは居るけど、対処法方が有るんだよね、 お客様の為に我々は奉仕しますと言う所だってそうらしいよ でも、一番のワルと言うかワルを超えているのが神なんだよね 国家権力も似てるのかも知れないけど・・・ だからかもしれないけど、ワルはこの地上から消えて無くならないんだ 昔から、神と悪魔と分けて考える人が多いけど、同一なんだよ、私見 だけどね、まあ、神の愛と言うのは奥が深い物なんだよね 皆さんの鋭い意見を教えて下さい、お願いします

  • 悪という概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 いじめを肯定する意図はありません。 ただ、悪とは何かについて考えた結果です 皆さんはどう考えますか。

  • 悪を揶揄する君たち自身が悪だ

    やあ。 こんなニュースがあった。 電力供給4割の一般家庭で利益率9割。 http://news.livedoor.com/article/detail/6585338/ 素晴らしく反感をかっており少し検索してみると贅沢をしすぎてお金が足りない一般庶民から9割の利益を絞り取るのは悪そのものだと、おおむねそういう論調一色だ。 しかしだ、君達は検針に来たおばちゃんから電気量の明細を受け取っていないかい? 高所作業車が電信柱をメンテナンスする光景を見る事はめづらしいことかい? あなた自身の家庭に電気を届けるために電力業界が努力している姿はどこにでも見つかるだろう。 そんな一人ひとりに感謝できないのが君たちだ。 多くのモノ ヒト カネを4割の電力供給に費やしその経営資源の投入にふさわしい対価を利益として正当に得ているだけだよ。判り易く言うと4割を大切にしているから利益が9割も出るのだ。 しかし君は君自身が悪であるために、君と等しく誰もが悪を行っていないと満足しない。 そこで9割の利益率を悪の行いだと正義感ぶるのだよ。 このような正義は悪の正義だ。 君達悪人の正義が、努力する誠実な人々を悪と糾弾する。 そこに私は慈悲心を発揮してこのように電力業界を庇護するのだ。 私の慈悲は君達を滅ぼす慈悲だ。 君達は悪であり、救いを求められる事はこっちからお断りだ。 以上のように書くだけ書いてみました。 4割の電力供給に多くのコストがかかるために、そこから9割の利益を得るのは正当である。 その行いを悪だとするのは、君自身が悪だからだ。 慈悲とは不当にも悪とされた者をそこから救い出すためにあり。 他者を悪と追い落とす悪の権化のためにあるのではない。 要するにこのニュースに不満を持ち悪の存在を感じた君達は、その時点で君達に救いがない事を自覚すべきなのだよ。 実のところ悪そのものである君達にできる事は、自らが救われる事を望む事でなく、君達の悪行の結果から君達の被害者に救いの手が差し伸べられる事を祈る事だ。 それはすなわち、救いを望むのでなく、滅ぼされる事を望むのだ。 さて君達の悪について何かしらの弁明を聞こうではないか。

  • 悪と言う概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 シニアの諸兄はどう感じますか。

  • 悪という概念の役割について、

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 悪という概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 悪という概念の役割について

    悪という概念の役割について 江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 悪の誘惑

    私は、成長したいと思っています。 しかし、それを邪魔するように様々な悪の誘惑があります。 私は未熟で、簡単に誘惑に負けてしまいます。 物質に対する執着心があります。 自分を良く見せたいという気持ち(虚栄心?)もあります。 何か物を買うにしても、「最低限の機能があればいいじゃないか」「安い物でいいじゃないか」と思う自分が居る一方、いや、こっちの方が高性能だし・・・とか、こっちの方がオシャレだし・・・などというように、心の中で、天使と悪魔の戦いみたいな葛藤があり、大抵の場合、悪魔が勝ってしまいます。 髪やファッションに気を使ってオシャレな自分で居たいと思う一方、オシャレになった自分にふと恥ずかしくなったりします。何カッコつけてるんだ、と。 聖人と呼ばれるような人などと比べて、自分の未熟さに恥ずかしく情けなくなります。 あの人がこんな風に格好を気にするだろうか? あの人がこんなに物にこだわるだろうか? と。 格の高い人は外見などにこだわらないでしょう。 格の高い人は自分の為にはほとんどお金を使わず、他人の為に使うでしょう。 人には守護霊というのが居るそうですが、守護霊に対しても申し訳ないです。 「こんなにも未熟でごめんなさい」と思い、泣けてきます。 他人の為に役立つ人間になりたいと思う気持ちが心の底にあるのに、今の実際の自分は、自分のことばかりです。自己犠牲の精神がまったくありません。自分の人生の楽しみなどすべて捨てて、他人の為に一生を捧げるような人間にはなれないのでしょうか? 今の私のレベルではあまりにも背伸びしすぎでしょうが、私は今後どうやって成長していけばよいでしょうか?

  • 『他人の容姿に嫌悪感を持つ』ってどういう感覚なんで

    『他人の容姿に嫌悪感を持つ』ってどういう感覚なんですか? 容姿に嫌悪感を持つという感覚が分かりません。 ネットを見ていると「こういう顔は生理的に無理」とか「容姿が悪い人には優しくできない」みたいな書き込みをよく見かけるのですが、こういうのって本気で言っているんですか? 何かされた訳でもない人のどこに嫌悪感を感じるのでしょうか? 最初にそういう書き込みを見た時は、容姿に嫌悪感を持つのなんて一部の人だけだと思っていましたが、テレビに出ている人でも同じようなことを言う人がいるので驚きです。 容姿に対して嫌悪感を持つのって一般的なことなのでしょうか? 正直、「生理的に無理な見た目」とか「相手の容姿によって態度を変える」という話がいまいちピンと来ません。 少なくとも僕は、20年間生きてきて他人の容姿を不快に思ったことは一度もありませんし、相手の容姿で態度を変える人にも出会ったことがありません。 普通、たかだか人の見た目のことで嫌悪感を感じたり、態度を変えたりしますか? それとも、僕が気づいていないだけでそういう考え方の人は結構いるのでしょうか? 人に限らず、外見がより好みのものを好きになる気持ちは分かりますが、だからと言って好みでないもの(人)に対して邪険になる必要はないですよね? 他人の容姿に対して嫌悪感を感じたことがある人にお聞きしたいのですが、『容姿に嫌悪感を持つ』とはどのような感覚なのですか? 相手の容姿によって態度を変える人は、なぜそういったことをするのでしょうか? 相手の気持ちは考えないのですか? 責めている訳ではなくて、純粋にそういった考え方について知りたいんです。 容姿(=生まれ持ったもの)に対して嫌悪感を持つということは、例えば生まれが貧しい人とかに対しても同じように嫌悪感を持つということなのでしょうか? 他人の容姿に嫌悪感を持ったことがあるという方、もしくはそういった心理に詳しい方、是非回答していって下さい。

  • ヤクザが悪。朝鮮人が悪ではないでしょ?

     最近よくネットや巷で、「パチンコ屋を経営しているのは朝鮮人である」「暴力団の人間は朝鮮人である」というのを根拠にして、「在日朝鮮人はけしからんからそういうことをやる」「朝鮮人に日本をこれ以上荒らされてはならない」といった意見を述べる方がいらっしゃいますが、私はこの考えに強烈な違和感を覚えます。  朝鮮人だから悪なのではなく、暴力団が悪なのであるという当たり前のことがすっとばされているような気がしてなりません。パチンコについて私見を述べると、決して健全な娯楽ではないが社会から一切締めだしてしまってはかえってよくない。ただ現状は街の中で大手をふるって商売をしすぎ。風俗店と同じくらい社会の陰に隠れて存在すべきだと私は思っています。  私の肉親が昔ヤクザによって殺されました。私にとって犯人が日本人か朝鮮人かなどというのはどうでもいいのです。  暴力団も商売相手がいなければ商売になりません。パチンコも客がいなければ商売になりません。日本人自身が彼らに屈服し、甘い罠にかかっていることがそもそもの原因なのだと私は思います。  私から言わせてもらえば世間の人は甘いです。全くもって本気ではない。チャンチャラおかしいです。ヤクザ映画、暴力映画を無批判に楽しみながら、同時に自分だけヤクザに脅かされかされなければよい、というの考えではヤクザがはびこって当然です。