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語素と形態素

「語素」と「形態素」は同義ですか? 文献では、どちらかだけが載っているものもあり、また、「形態素(語素)」というふうに、執筆者が同義と考えているらしき記述もありますが、異なるタームである以上、いくばくかの外延・内包の差はあるのでは?とも思います。 言語学にお詳しいかた、ご教示ください。 宜しくお願い致します。

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  • 回答No.4
  • SPS700
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#1です。補足です。 >>「通時的」「共時的」は、 大学の教養レベルで習うですので存じておりますが、その「深さ」というのが分かりません。 おそらく歴史的に どれくらい古くまでさかのぼるか、 とおっしゃりたいのではないかと推測しますが 仮にそうだとして、「 歴史的な見地からどれくらいさかのぼるかによって分類する」という時の「分類する」 の目的語は何でしょうか?  語の構成要素のつもりでした。例えば英語ですと wiindow は一つの構成要素から成る、と見る歴史の深さと、二つ以上から成るとで基準が違います。  それによって、境界の有無や、数が決まる、と言ったことです。別に大したことではありませんので、ゆっくり寝正月をお楽しみください。

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  • 回答No.3
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (14780/31475)

 #2です。補足です。 >>私には初耳の言い方なのですが、「通時的な深さから分ける」とは、どう 分けることですか?  歴史的な見地から分類する、と言った意味です。この場合文書による証拠がある場合で、それがなくて親縁的に分ければ比較言語学的な分け方になります。

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質問者からのお礼

「通時的」「共時的」は、 大学の教養レベルで習うですので存じておりますが、その「深さ」というのが分かりません。 おそらく歴史的に どれくらい古くまでさかのぼるか、 とおっしゃりたいのではないかと推測しますが 仮にそうだとして、「 歴史的な見地からどれくらいさかのぼるかによって分類する」という時の「分類する」 の目的語は何でしょうか?

  • 回答No.2
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (14780/31475)

 #1です。補足です。 >>「人間」は複合語でなく単純語とみなすことも可能なので、そうみなす立場に立つとして、さらに単語未満に分解できる事実を理論化するのに「語素」概念が導入された、とみることも出来るでしょうね。  何しろ漢字「二つ」ですから、分けたいより、初めから寄せ集めですからね。 >>ブリタニカの語釈はツッコミどころが複数ありますね。例えば、「コッペ」は無意味形態素というより「唯一形態素」とみた方が説明が一貫するように私には思われます。  まあ、文法の方から分けるのと、比較言語学の方から分けるのと、通時的な深さから分けるのと、いろいろ分け方がありますし、いずれも今は昔の術語ですね。

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質問者からのお礼

再びのご回答、ありがとうございます。 私には初耳の言い方なのですが、「通時的な深さから分ける」とは、どう 分けることですか? 差し支えなければご教示ください。

  • 回答No.1
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (14780/31475)

 「語素」と「形態素」は同義ですか?  同義の時もあり(=広義の時)、同義でない時(=狭義の時)もあると思います。  (い)広義には接頭語・接尾語や、分解しがたい独立の単語となるものをも含めて考える、  (ろ)狭義には、接頭語・接尾語以外で「いちじるしい」の「しる」、「やせこける」の「こけ」、「にんげん」の「にん」「げん」などをいう。この辞典では、狭義によって、複合の成分と認められるものに限った。造語成分。造語要素。  https://kotobank.jp/word/%E5%BD%A2%E6%85%8B%E7%B4%A0-59036  https://kotobank.jp/word/%E8%AA%9E%E7%B4%A0-501942  形態素は、もともと s のようにアルファベットの子音だけの大きさにまで小さい要素にまで使われ、外国語、から輸入した、もの、  語素は、音節を単位とし、複合語の構成要素にだけ使われ日本語や漢語などに使われていた用語が、ヨーロッパ文法のモルフェームなどと混同したものでしょう。

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質問者からのお礼

ありがとうございました。 「人間」は複合語でなく単純語とみなすことも可能なので、そうみなす立場に立つとして、さらに単語未満に分解できる事実を理論化するのに「語素」概念が導入された、とみることも出来るでしょうね。 ブリタニカの語釈はツッコミどころが複数ありますね。例えば、「コッペ」は無意味形態素というより「唯一形態素」とみた方が説明が一貫するように私には思われます。 お世話かけました。参考にさせて頂きつつ、深めてみたいと存じます。

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     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》説については まだ或る程度の《定説性》が残っています。これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわち この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち    《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール・といより丸山圭三郎の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説です。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。  けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。  * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。