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百姓地という呼び方はあったのか

fujic-1990の回答

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 江戸は、「武家地」「寺社地」「町地」の3種類に分けられていましたが、これは、誰が統治するかという支配権が違ったせいです。それぞれの権力行使が越権にならないように、厳密に名称をつけて区分けする必要があったからです。  江戸町奉行が担当したのが「町地」です。江戸の約20%。  江戸に農民は一人も住んでいなかったかというと、いました。江戸府内は時代によってどんどん拡大されて行って、取り残されたというかなんというか、農民が住んでいる場所も江戸になってしまったので、江戸に農民もいたのはいました。  朱引き内と呼ばれる江戸内の、その農民も町奉行が支配したので、その農民が住んでいる土地も「町地」です。  江戸の外(村方)の農民は、法制上は代官が支配したのですが、例えば5人いた関東の代官はふだん江戸内で年貢徴収のことだけやって、村方には徴税作業以外には出向かず、支配その他(捕縛など)は名主などにお任せ一任状態だったとのことなので、思いますに「〇●村」「××村」という名称で区別しただけだったろうと思います。  諸藩のことについて書いた本を持っていませんが、まあ、代官所と同じ程度(大雑把)だったのではないか、と思います。2万や3万石の大名に、幕府と同じような専門家・責任者を召し抱えるのは無理でしょうから。

pusuta
質問者

お礼

回答ありがとうござます。江戸周辺の農山村は代官支配で、特に「~地」というような呼び方はしていなかったということですね?

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