江戸府内の農地と農民についての疑問

このQ&Aのポイント
  • 江戸府内のWikiによれば、慶応元年の江戸の武家地、町人地、寺社地の面積が記載されており、農地については言及されていない。
  • 農地が存在すれば農民もいたはずだが、ネットの情報では江戸府内には農民の人口についての情報が見つからなかった。
  • 上記の総面積は墨引内の面積であると思われる。また、「その他」の面積についての具体的な説明はない。
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江戸府内の農地、農民。

Wiki 「江戸」によれば、慶応元年(1865)の江戸の武家地、町人地、寺社地、その他の面積は次のとおりです。 総面積  79.8 km2 武家地  50.7 km2 町人地  14.2 km2 寺社地  10.1 km2 その他   4.8 km2 これを見ると、農地の記載がありません。 質問ばかりして申し訳ないですが、以下の疑問について教えてください。 1.江戸府内にも農地があったと思いますが、なぜ農地は記載されていないのですか。 2.また、農地があれば農民(農業に従事している人)がいたはずです。ネットを調べた程度ですが、 農民の人口は出てきませんでした。農民は、江戸府内にはいなかったのですか。 3.上表の総面積は墨引内の面積ですか。 ざっと計算してみると、墨引内と思います。墨引内でも農地が広がっていたと想像しています。 また、「その他」とは何の面積ですか。 よろしくお願いします。 Wiki 「江戸」 2.1江戸の範囲 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずはあなたの回答からお答えすると、いわゆる「府内」といわれる範囲には、 「農地」と呼ばれる土地はありませんでした。 ただし、農地と呼んで良いかどうかは、色々意見が分かれるところですが、各大名家の主に下屋敷には「水田や畑」がありました。 大名の規模にもよりますが、およそ2~3反歩くらいです。人数も平均すると2~3家族位でした。 これは、お殿さまに、百姓の苦労を知ってもらうためでした。 ここで働く百姓(お抱えの百姓)は下屋敷内に長屋を与えられ、そこに住み、住所はあってないようなものでしたので「〇〇(守)殿百姓」と呼ばれていました。 つまり、「〇〇(守)殿お抱え百姓」を略したものです。 さらに、明暦3年(1657)の大火頃には、すでに「府内」と呼べる範囲は、武家地、町地、寺社地だけで手狭になってしまいました。 つまり、余りにも密集していたため、一度火事が発生すると、極端に言うと江戸街の全てが焼け野原となってしまう。 「困った」「困った」・・・そこで幕府は考えました。 以下のように江戸の範囲を拡大していきました。 御府内の範囲の変遷。 ※慶長8(1603)年・・・千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計三百町の町割が完了し、この範囲を町奉行所の管轄地とした。以後、この地域を「古町」と呼ぶようになった。 ※明暦3(1657)年1月18日~20日におよんだ明暦の大火の後、曲輪(くるわ=城を中心とした一定の地域。郭とも書く)内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれ、郊外として挙げられたのは、深川、浅草、駒込、目黒で、ここまでを江戸と呼ぶこととする。さらに数年を経て、江戸と呼ばれる範囲は五里四方に拡大し、深川、本所、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが江戸の範囲と定められたが、これらは「府外」と呼ばれ、「府内」とは、依然として、古町の範囲だけであった。 ※万治元(1660)年・・・当時は東の隅田川より向こうは「下総国」と呼ばれており、江戸と下総の両方の国にまたがるということで命名された「両国橋」完成。貞享3年(1686)に両国橋より東(本所、深川、両国など)も江戸に編入され、江戸の市街地に加えられた。 ※寛文2(1662)年・・・南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から町奉行所に「警察権」のみ委譲。この地域はまだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行が常時取り締まる必要がなかったが、ここで初めて町奉行所の管轄範囲が広がる。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として、二里四方(「墨線」の部分)であった。 朱引図 http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html ※寛文5(1665)年・・・品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の四宿内を江戸内と呼び、江戸内への(庶民の)旅人の駕籠の乗り入れ禁止令を出す。(街道筋での利用は認められていた)。なお、駕籠の乗り入れ禁止令は、たびたび発令されたが守られず、享保11(1726)年に禁止令は解除された。 ※明和2(1765)年・・・御番所(庶民は「町奉行所」とは呼ばず、通常は「御番所」と呼んでいました)での判決の中の「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。従って、この範囲までが町奉行所の管轄となった。しかし、内藤新宿は御城から近いにもかかわらず、管轄外であった。 ※寛政3(1791)年・・・東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪内四里四方を御府内と定める。旗本や御家人が御府内を出る時には「届出」を必要としたために決めたが、東北東とか西北西などの東西南北以外では、依然、あいまいだった。 ※文政元(1818)年8月・・・目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」(「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」)というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に朱線を引き、<この朱引図内を御府内として>老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」(または「朱引図」)と呼びました。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲。しかし、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲として、二里四方に墨線が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしているものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、サイトでも分かるように、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれる、と言う矛盾もあった。 目付は旗本や御家人の取り締まりをする役目。なお、大名を取り締まるのは大目付でした。 <この御府内を決めたのは、旗本や御家人は御府内であれば夜九つ(午前1時)までに自宅に帰っていれば自由でしたが、御府内の外での宿泊には目付への届出が必要であり、これを怠ると「閉門」や「蟄居」などの処罰対象となり、目付としても御府内を決めてもらう必要に迫られたからです。> ※こうして、江戸と呼ばれる範囲は、府内、府外を合わせて、 農地が35%、町地は15%で、朱印内を含めると農地が半分以上を占めるようになったのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 作物を作っている土地はいっぱいあっても、江戸府内においては、それは大名家の土地であるから「農地」とは呼ばれない、ということですね。 また、そこで農作業をしている人びとは、大名屋敷の奉公人のような存在であって、「町人」に対して「農民」とは呼ばれない、ということですね。 なるほど、「〇〇(守)殿お抱え百姓」なのですね。 そう言えば、岡山藩の下屋敷の話を思い出しました。 お姫様が「田植えを見たい」とか言うので「それならわが屋敷のたんぼで田植えをするから見るがよい」というような話でした。 抱屋敷の場合は農地なので年貢を納めねばならず、大名が幕府に年貢を納めたという話も思い出しました。 >目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」(「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」)というお伺い書が老中に出された… 御府内を決めてほしいと目付が伺い出た理由もよく分かりました。 「ビバ江戸」は、以前のbungetsu 様の回答で知っていました。 この地図に定規を当てて墨引内の面積を推定しました。 そこでWiki 記載の総面積は墨引内だと思いました。 お蔭様で疑問は解けました。ご教示に感謝申し上げます。

その他の回答 (3)

noname#224207
noname#224207
回答No.4

1.ご指摘のWikipediaでは内藤昌氏が月刊文化財175号に掲載した図表を転載していますが、この図表についてでしょうか。 そうであれば内藤昌氏にお問い合わせください。 尚、武家地等に関しては下記のようなサイトもあります。 江戸城下町 - Biglobe www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/edo/edo_jyokamachi.html 地図を色分けして表示しています。 2.3.当時は現在のような国勢調査をしていた訳ではありません 町奉行、寺社奉行それぞれが支配地内の町人の数を取りまとめていただけです。 更に、一口で町人と言いましても、範囲が不明確です。 浅草弾左衛門支配下の身分外身分の階層は対象外でした。 武家奉公人も対象外でした。 年齢も幼児死亡率が高かったことから、およそ15歳未満はカウントしていませんでした。 誰が居たの居なかったのなどという議論の対象にはなりません。 農民(農業に従事している人)とされておられますが、現代で言う兼業農家はどのようにお考えでしょうか。 数字を持ち出して議論されるのであればお使いの言葉を定義して下さい。 江戸府内とはどの範囲を言われますでしょうか。 墨引きとは町奉行、御代官所支配地入込候地の外縁部を繋いだものです。 朱引きとは札掛場、境筋並寺社方勧化場の外縁部つないだものです。 これを江戸の範囲としていました。 これとても文化元年(1818)に定められたものです。 朱引きのは墨引きよりも広範囲です。 現在で言えば東は中川まで、西は神田上水まで、南は目黒川周辺まで、北は荒川と石神井川下流とお考えください。 あくまでも役所の支配の範囲や所払いなどの際の目安でした。 わざわざ測量をして定めたものではありません。 そもそも、江戸は武蔵国と下総国にまたがった地域です。 この武蔵国や下総国の境界はどのように決められていたとお考えですか 後世、藩と呼ばれる大名領の境界はどのようにして決められていたとお考えですか。 現在の都道府県の県境のように測量して決めるようになったのは明治以降です。 江戸時代を含めそれ以前の人口統計はあくまでも推定値です。推定される学者さんによって異なります。 浅草田圃(吉原田圃)といわれますように農耕に従事していた人は間違いなく居ました。 当時は人口だの土地面積だのという単なる数値としての統計数値などには関心はありませんでした。 誰が誰の支配を受けているのか、ということが最大の関心でした。 史料を読まれるときには、現代の価値観ではなく、その時代その時代の価値観で考えて下さい。 御高説を拝聴しました、などという回答者を愚弄したお礼は御控えください。

kouki-koureisya
質問者

お礼

私はいつも、資料の上っ面だけを読んで、深く考えることなく、思いつきで質問しています。 この程度の質問者ですから 「お考えですか」 と何度も言われるとホント疲れます。 こんな思いつきの質問にもかかわらず、貴重な時間を割いて、真正面から回答してくださるわけですから、有難いという気持ちでお礼を申し上げるように心がけています。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.2

基本的に徴税業務のための書類ではないということでしょう。 大事なのは墨引き、つまり町奉行の管轄範囲を記したことであり、またそこが武家地・寺社地かそれ以外かということになります。(武家地寺社地は町奉行の管轄外) 荒れ地か農地かは町奉行がとくにこだわる内容ではありません。 勘定奉行であれば徴税を管轄するので農地かどうかは大事ですが、町奉行ですからね。 そこに事件があれば農地だろうと荒れ地だろうと同じことです。町奉行の管轄として処理しなくてはいけません。だからまとめてその他です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、徴税の視点から見るのですね。 江戸切絵図を見ると「田」「畑」「百姓地」がいっぱい出てきます。 寺社の所有地かも知れません。 そもそも、単位が平方kmですから、明治以降、研究者が古地図を参考に「武家地」「町地」などと分類したのかも知れません。

  • tokx367
  • ベストアンサー率10% (40/373)
回答No.1

1.隠し田こそ、本当の収入源。 2.お上に、正直に報告出来たら、苦労なんか無い。 3.土地こそ、財産だから、シークレットさ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

素晴らしい発想!! 座布団1枚。

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