江戸の「町並地」とは

このQ&Aのポイント
  • 江戸の町並地とは、本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地に指定したことで、江戸の総町数が急増しました。
  • 「町屋を町並地にする」とはどういう意味か、町並地と町人地の違いや住人の呼称についても教えてください。
  • 具体的な例を通じて、江戸時代の町並地における村方三役や年貢の変化について教えてください。
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江戸の「町並地」とは。

正徳3年(1713)に、本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地にしたので、江戸の総町数は、一気に259町増えて933町になったそうです。(下記URL) 「町屋を町並地に」の意味が分かりませんので教えて下さい。 町並地とは「町人地」ではないのですか。 町並地になると、「○村」から「○町」と呼ばれるようになるのですか。 そうなると、そこの住人は「町人」となるのですか。 村であった当時の村方三役や年貢はどのようになったのですか。 基礎知識がないので、一般論ではなく具体例を教えていただけると助かります。 よろしくお願いします。 東京都公文書館>江戸東京を知る>江戸の範囲 http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm 

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回答No.4

コメントを読みました。 >>しつこく聞いて申し訳ないですが、この続きが知りたいのです。そして、どうなったのですか、という疑問です。 例えば、「年貢」であれば、代官の手を離れて、直接的に勘定奉行の支配するところとなった。と言うことで、つまりは、農民がこれまでは代官所に収めていたものが、以後は、直接的に幕府の米蔵へ収めることとなった。と言うことです。 また、「警察権」等についても、事件が発生した時や土地の境界争いなどが生じた時の訴訟などは、これまでは代官所で吟味されていたものが、以後は、町奉行所で取り扱いをする。と言うことです。 もっと簡単に言うと、「江戸」という町(「府外」または「郊外」、「市街地」なども含めて)に組み入れられたことにより、江戸の庶民と同じように扱いますよ。と言うことになります。 もう一つ念を押せば、それまでの「江戸」という町は、武士、工業、商業、だけの町だったものに「農業」(百姓)も加わえたということです。 ただし、あなたのおっしゃるように、百姓を江戸の庶民と同じように扱うこととなったとはいえ、農業を続けていく上においては、「村方三役」や「五人組制度」は存続しました。 >>大体のことは想像できるのですが、「年貢や税がどうなったのか」、最大の疑問です。 「年貢」については、村々によって違いますので一概に四公六民とは言えないのですが、いわゆる「税率」に関してはこれまでと同じ税率で徴収されました。 徴収方法、および、納税先は上記に述べた通りです。 その他の新しく加わった「税」(または、税の一部と考えられるもの)と呼ばれるものとしては、「労役奉仕」。 例えば、町並整備としての道路や橋の清掃、修繕。まあ、これらは村であった頃からもありましたが、より一層の整備の強化が求められました。 その他としては、「お城のお堀の清掃」「火災防止のための見回りの強化」などが加わりました。 >>「古地図」では「年貢町屋」なる名を散見しますが気になります。 「年貢町屋」とは、簡単に言えば、年貢を納める農家がある町。 つまり、以前は「〇〇村」だったものが、「✖✖町」(ちょう、または、まち)と名前を変えただけです。 例えば、「小日向三軒町年貢町屋」と言われる場所がありますが、そこには、三軒の農家があり、その農家が所有していた土地(農家も含めて)を町名に変更するにあたって「小日向三軒町年貢町屋」と呼ぶようにしたことから由来しています。 ただ「〇〇村」から「町名」に変更しただけで「年貢」を依然として納めていた町、ということになります。 その他にも、主に郊外になりますが、「本所松坂町二丁目年貢町屋」、「麻布今井町年貢町屋」、「上野町二丁目年貢町屋」・・・など、調べれば結構ありますよ。 余談ですが、「拝領町屋」というものもあります。 これは、本来は幕府から「〇〇(守)殿屋敷」として与えられていたものが、町民の増加に伴い、「〇〇(守)殿屋敷」の一部を幕府に返上させ(ある意味では、強制的に取り上げて)町民のための街にしたことから由来しています。 「本所松坂町一丁目拝領町屋」などが有名ですが、これは、ご存じの通り、赤穂浪士の討ち入りにより吉良上野介が打ち取られた地で、幕府は吉良の屋敷を強制的に取り上げて町民に開放し街に変えたものです。 あなたの答えになりましたでしょうか。

kouki-koureisya
質問者

お礼

厚かましい再質問に快く応じて下さって真にありがとうございます。 よく分かりました。 何がよく分かったのかと言いますと、これは私の知識ではなかなか理解できない難問だと言うことで す。 村の名を「○町」に替えて、そして代官に加えて町奉行の支配も受けるようになった、と安易に考えていました。 しかし、自分の質問を読むと 「正徳3年(1713)に、本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地にした」と書いています。 「町屋を町並地」にしたのであって、村のことなど一切触れていません。 私の思い込みで、本所・深川一帯、山の手の「村」を「町」にしたと思っていました。 先ず、「町屋とは?」を知らねばなりませんが、ここで行き詰まっています。 江戸の郊外の農村のあちこちに「町屋」が続々と増えて、それらは街道筋であれば町並(市街地)となったでしょうが、農地のあちこちに数軒ずつの町屋が散在している地域もあったのでは、と想像しています。 これらの町屋を拾い上げて、あるいはもともと「○町」と呼ばれていた町もあった(むしろ、いっぱいあった)のかもしれませんが、「○町」として町奉行の支配下においたのではないかと、想像しています。 郊外では村の方が大きくて村の中に「町」があったような気がします。 >例えば、「小日向三軒町年貢町屋」と言われる場所がありますが、そこには、三軒の農家があり、その農家が所有していた土地(農家も含めて)を町名に変更するにあたって「小日向三軒町年貢町屋」と呼ぶようにしたことから由来しています。 このサイトに延寶年中之形(1673-81)の地図がありますが、左下にも「小日向○町年貢町屋」があります。 また、「小日向清水谷町」の名もあります。 私は、江戸郊外の集落は全て「村」と思っていましたから、今、混乱状態です。 「学 長 室 か ら の 花 便 り」 http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/bunkyo/n147.html >「年貢町屋」とは、簡単に言えば、年貢を納める農家がある町。 分かりました。 ホントは分かってはいませんが、分かったことにしなければ前に進めません。 隣接する「小日向清水谷町」との違いが分かりません。(独り言ですから無視してください) >もっと簡単に言うと、「江戸」という町(「府外」または「郊外」、「市街地」なども含めて)に組み入れられたことにより、江戸の庶民と同じように扱いますよ。と言うことになります。 そうですね。このように全体としては分かるのですが、各論になると混乱してきます。

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  • Kittynote
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回答No.12

No.11投稿、訂正の件で深夜に御邪魔致します。 左右を確認せず発車してしまいました(><) 地域毎にパターンが違うようなのでリストアップも遅々として進みません。 誤/ 代官「山田茂右衛門」 正/ 代官「山田茂左衛門」 ついでに、たとえば、 ●御府内備考卷之百十七 深川之七 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/93 <93-95/189>(169頁上段10行目-172頁) ○一色町 一 …(中略)…(169頁上段21行目-下段3行目) 正德三巳年閏五月松野壹岐守様坪内能登守様丹羽遠江守様町御奉行之節ヨリ 町方御支配ニ被仰付引續公役相勤古町同様之町屋鋪ニ御座候…(中略)… (169頁下段12行目-14行目) 町並屋鋪ニ御座候間御年貢之儀者中之鄕地方名主庄太郎ヨリ取立 御代官山田茂左衛門様御役所え相納申候…(後略)… 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 辞典・事典類が絶対的なものと言い切れないので少し回り道をしましたが、お蔭様で終着駅が見えて来ました。 回り道をするほど思わぬ事例に出くわして、何か得をした気分になります。 これまでのご回答でじっくりと読めなかった箇所についてまとめておきます。 #11の品川臺町について。 ● 御府内備考卷之百八 品川之一 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/22 このページの始めに 「品川は今も南北品川宿及歩行新宿と称して町奉行の支配に属せずただ白金につづきし辺に台町と云もの少しく在り…中略…町方の支配に入れり。」とあります。 賑やかな町並みが続く宿場(北から徒歩新宿、北品川宿、南品川宿)が代官支配であり、宿場から北方にちょっと離れた品川臺町が町方支配になっています。 「正德三巳年閏五月中町御奉行坪内能登守様丹羽遠江守様松野壹岐守様御勤役中町方御支配ニ相成申候」「町御奉行所御代官中村八太夫様兩御支配ニ御座候」です。 南品川宿の枝町である品川猟師町は、小さな家が密集した「町場」ですが代官支配です。 治安の悪化に対応するという面では、食売旅籠屋がひしめき、駕籠舁渡世の元気者が多い宿場の村が、なぜ町方支配にならなかったのか、疑問です。(独り言で質問ではありません) 品川宿は、朱引内には入っていますが、墨引内には入っていません。当然ですが…。 正徳3年に「町場」を根こそぎ、「町並地」にしたのかと思っていましたが、例外も探せばもっとあるようです。 延享3年(1746)南北品川にある18の寺社にあった門前町が、一括して江戸町奉行支配になっています。 結局、享保4年(1719)に町奉行支配地に関して何があったのか、調べることはできませんでした。 (これも独り言ですから無視してください) 今回も丹念に資料を調べて下さったお蔭で、疑問は解消しました。 bungetsu様とのやりとりもよい刺激となって、深く考えるきっかけとなりました。 ご教示に感謝申し上げます。

  • Kittynote
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回答No.11

>「町御奉行所御代官兩御支配ニ御座候」は正徳期なのか、文政期なのか、 >思案中です。 全ては確認していませんが「御府内備考」では、 両支配條文に代官「中村八太夫」「山田茂右衛門」などが多数登場します。 では、彼らは正徳期、文政期何れの代官なのでしょうか? たとえば、 ●御府内備考卷之百八 品川之一 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/22 <22/189>(26頁下段7行目-27頁下段19行目) ○品川臺町 一 當町起立之年代相分不申候町名之義者荏原郡北品川高内ニ而古村地ニ而有 之候砌高場ニ付品川臺と相唱來町方ニ相成候節ヨリ町銘ニ相成候趣申傳尤其頃 者御代官御支配ニ而百姓町家ニ有之候處正德三巳年閏五月中町御奉行坪内能登 守様丹羽遠江守様松野壹岐守様御勤役中町方御支配ニ相成申候 …(中略)… 一 御檢地 右者元祿八亥年中織田越前守様御改ニ御座候 一 反別貳町貳反九畝貳歩七合五勺    内貳町貳反一畝貳拾貳歩北品川分壹反七畝拾歩下大崎村分 右御年貢之儀者前書貳ヶ村惣高之内え相籠村方ヨリ上納仕候 …(中略)… 一 町御奉行所御代官中村八太夫様兩御支配ニ御座候   以上戊子(※文政十一(1828)年?※)書上 上記の「品川臺町」は「正德三巳年閏五月中」に「町御奉行坪内能登守様丹羽 遠江守様松野壹岐守様御勤役中町方御支配」となり、 また「元祿八亥年中」「織田越前守様御改」の検地があり、 年貢は「北品川分…下大崎村分」「貳ヶ村惣高之内え相籠村方ヨリ上納仕」、 最後に「町御奉行所御代官中村八太夫様兩御支配ニ御座候」「以上戊子書上」 となっています。 〇『大武鑑.巻之4/橋本博編/大洽社/昭和10』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015324/28 <28/97>正徳三(45頁6段目) ・町御奉行/丹羽遠江守、松野壹岐守、坪内能登守 3名該当。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015324/37 <37/97>正徳三(63頁4・5・6段目) ・(4段目)関東御郡代/伊奈半左衛門 ・(5段目)関東方御代官衆/伊奈半左衛門を筆頭に外7名  (6段目)〃/19名 上記代官27名中に「中村八太夫」「山田茂右衛門」は存在せず。 〇『文政武鑑 4巻[5]/千鐘房須原屋茂兵衛/文政12』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547062/105 <105/123>(97丁オモテ/左側最終行目) ○武藏 相模/…御役料三百俵三十人扶持/中村八太夫[百表五人フチ…] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547062/106 <106/123>(97丁ウラ/右側2・3行目) ○武藏 下総/…御役料二十人扶持/山田茂右衛門[百五十表…] ○武藏 相模 伊豆 駿河/…伊豆韮山屋敷住居/江川太郎左衛門[百五十表…] 以上から、年貢の件は横に置くとしましても、 「町御奉行所御代官中村八太夫様兩御支配ニ御座候」箇所を素直に読めば 文政期に至っても両支配であったと読み取れますが如何でしょうか? 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 >「町御奉行所御代官中村八太夫様兩御支配ニ御座候」箇所を素直に読めば文政期に至っても両支配であったと読み取れますが如何でしょうか? 今はすっきりと、全くそのとおりです、と言えます。 町並地では「行政上は町奉行の支配を受けながら年貢は代官に納める」ということがようやく分かったからです。

  • Kittynote
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回答No.10

>便乗して頂いても何ら差し支えないどころか、歓迎します。 そう言っていただけて救われました。 ( kouki-koureisya 様に大人と言うのもなんですが) いつもながらの大人の対応に謹んで感謝申し上げます。 >「享保四(1719)年、259町の町並地はすべて正式に町人地になった」 >のですね。 「ここで脳裏を過ぎったのは「享保四(1719)年、259町の町並地はすべて正 式に町人地になった」辺りですが、…」などと私が曖昧表現にしたために誤解 が生じたとしたら誠に申し訳ありませんm(_"_)m 実際はNo.7投稿のとおり 「…、「町奉行代官両支配」に比べ思いの外、言及されている書籍など(…) が少ない事もあって、私自身理解出来かねている状況下にあるため、」が 正直なところでございます。 御存知のとおり「正德三年閏五月十五日」の租税等は旧の如く代官、 市店等は町奉行にと言うのは大きな再編ですが、 『德川實紀.第五篇/成島司直等編/經濟雜誌社/1904.6』 〇「有章院殿御實紀卷四 正德三年閏五月」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917878/172 <172/641>(328頁上段14・21行目-下段5行目) 「享保四(1719)年」規模は別にしても幾つかの再編がありました。 享保四年四月三日、本所築地奉行廃止に伴う所管替があり、 本所拝領屋敷(武家邸宅)分は普請奉行、道・橋・水道は勘定奉行 (【柳営日次記】【享保四録】)とか、水道・道・橋等此後代官指揮 (【有徳院御実記】【大成令】)などとあって明確ではないのですが、 ほかにも同年七月十二日「本所深川辺上水下水定浚圦樋修復、其外樋之戸明ヶ 立見廻り等之義、町奉行指揮(【有徳院御実記】【享保撰要類集】)」など、 また元禄15(1702)年からの三人体制の北・中・南町奉行が二人体制に戻るなど 再編時期に当たるため、他に何か所管替があってもおかしくないことから、 Googlebooksで見かけた気になるフレーズ 「享保四(1719)年、259町の町並地はすべて正式に町人地になった」を 理解出来かねている状況下で利用したのが実態です(><) >「人別」は、町奉行管轄になったということですが、 >「人別」とは具体的に何なのか分かりません。 難しく考え過ぎなようにも思いますが如何でしょうか? 釈迦に説法になりますが、とは言いましても決して高飛車に高説など申し上げ るほど知識もありませんので、単純に差し引きするだけです。 【日本歴史大事典(小学館)】代官/〔近世〕 …5代将軍綱吉から8代将軍吉宗の治世にかけて、初期からの世襲的・年貢請 負人的代官は、年貢滞納などを理由にとして処罰され、新規代官の多くは勘定 所出身の純粋な徴税官僚へと性格転換が図られた。 これは、1723年(享保8)関東方・上方と二分した支配が勘定所支配に一本化し、 1725年代官所経費支給方法が改正されたことにより一層促進された。… …代官の職務は、地方(じかた)(徴税を中心とする民政一般)、公事方(刑事・ 民事裁判や治安・警察)に分けられ、ほかに臨時的な御用や任地に付随した御 用を行った。…<西沢敦男> 【日本歴史大事典(小学館)】町奉行/ …その職掌は江戸市中の武家地と寺社地とを除いた町地を支配し、町および 町人に関する行政・司法・立法・警察・消防などを、月番でつかさどった。… <所理喜夫> 「地方(徴税を中心とする民政一般)、公事方(刑事・民事裁判や治安・警察)、 臨時的御用、任地付随御用」のうち「地方(徴税を中心)、臨時的御用、任地付 随御用」が代官に残り、 「地方(徴税以外の民政一般)、公事方(刑事・民事裁判や治安・警察)」が 町奉行に移管され「町および町人に関する行政・司法・立法・警察・消防など」に組み込まれたと捉え、「地方(徴税)」など以外の上記の全てが「人別」と 思えば…何て私は単純に考えています^^ あとは、余談ですので軽く読み流して下さい。 No.3投稿では字数に余裕がなかった為、省略しましたが、 前回御質問時と同様、今回も各辞書・事典間の差異に驚いています。 ・コトバンク>本途物成 https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E9%80%94%E7%89%A9%E6%88%90-135211 【ブリタニカ国際大百科事典】「田畑の本来の物成すなわち年貢をいい」 【デジタル大辞泉】「田畑に課せられた本年貢」 【百科事典マイペディア】「田畑に課せられた基本的租税」 【日本大百科全書(ニッポニカ)】「田畑に課した本年貢のこと」 【世界大百科事典第2版】「田・畑・宅地など検地によって高に結ばれた土地 に賦課された本年貢」 【大辞林第三版】「田畑や屋敷など農民の名請地を対象として付課された年貢」 あと、手元の電子辞書から 【広辞苑】検地をうけた田畑(本途地)から上納した年貢」 【日本史事典三訂版(旺文社)】「田畑に課せられた年貢」 【日本歴史大事典(小学館)】「検地を受けて石高がつけられた田畑屋敷地に課 税された地代」 【日本史辞典(角川書店】「田・畑・屋敷地に賦課される年貢」 以上のとおり「田畑」6件、「田畑+屋敷地(宅地)」4件。 幸い今回は、No.3投稿既出の ・「深川猟師町の漁師(研究)/高山慶子」 『お茶の水史学 Vol.45/2001-10』(p.21-51) http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/899 <6/31>(17行目)&<7/31>(1-11行目) 「寛文十戌年、猟師町、伊奈半十郎…様ヨリ本家御縄入ニ相成、七月廿五日御 検地屋敷高九町六反八畝廿壱歩与相定、同年十一月御年貢上納被仰付候」と記 録されており、この時の検地によって起立以来地子免許であった土地に年貢が 賦課されたことが知られる。…寛文一〇年の反別が「屋敷高」で示されている 通り、この頃の土地はすべて屋敷地であったことが窺われるが、「検地帳」に 記された土地もすべて屋敷地である。」など実例を知っていましたから戸惑い ませんでしたが、ド素人ゆえ一歩間違えばとんでもない方向に向かったかもし れないと思うと、改めて辞書・事典の杜撰さを嘆かずにはいられません。 以上 冒頭の感謝以外は 再びお茶を濁してみました^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 範囲を広げ過ぎましたので焦点を絞ります。 質問は「町並地とは何」で、残る疑問は「年貢はどうなったのか」です。 正徳3年に代官支配であった町や町屋が町並地になって、代官と共に町奉行の支配を受けるようになってもその町並地には田畑があり、年貢を納めていたはずです。 その年貢の徴収権者は「代官か、それとも町奉行か」という問題に集約されます。 これは、代官だろうと思っています。 年貢関連の仕事をしなければ、町奉行を差し置いて代官が出る幕はないですから。 間違っているかも知れませんが、私としてはそんなに問題ではありません。 #6、#7の結論は、 「享保4年(1719)には、本所、深川、両国、なども町奉行支配地としました。 この時に、年貢米の徴収役務等が完全に代官から切り離されました。」ということですね。 ここで、迷ってしまったのです。 では、年貢米の徴収役務は、町奉行配下の何者が担当したのか、 年貢割付状の発行者、宛は誰か、などなど。 多分、町並地もそしてその町並地が正式に町人地となっても、奉行・代官の両支配だったと思います。 このことは「御府内備考」を読めば、多くの町村で「町御奉行所御代官兩御支配ニ御座候」との記述が出てくることから推定できます。 以下、独り言ですから無視してください。 「人別」が分からないと書きましたが、具体的にどんな書類を指すのかが分からないという意味です。 町並地の説明で「土地は村方と同様に代官所支配でありながら、人別が町奉行所支配に編入された」ということでした。 では、五人組帳や年貢関連の文書は土地に関係するから代官の管理で、「宗門改め」は人別だから奉行の管理になるのか、という疑問です。 村役人は、あるいはその命を受けた者は、これらの文書を代官所と奉行所へ届けることになるのかな、といった想像です。 このことがわかる古文書を探していますが、お願いしている訳ではありませんので無視してください。 思いついたことを忘れぬように「独り言」で残しているだけですので、無視してください。

  • Kittynote
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回答No.9

>全く収拾がつきません。 そう言えば、前回も「収拾がつかず、混乱中です。」と嘆いていらっしゃいま したね^^ 恐らく前回は不本意ながらの苦渋の締切(解決?)だったのでは? (何しろ投稿者はお茶を濁す私だけでしたから)と勝手に想像しています。 斯く言う私も、野村兼太郎氏の五人組帳前書に対する実態評価が足枷となって 先に進めず不完全燃焼のままでした(><) 今回も探求心旺盛な kouki-koureisya 様ならではの嘆きかもしれませんが、 まさか全5巻制覇なんてことではないですよね^^ 私の場合は、投稿とは離れ第29巻と別の巻も合わせ正徳三年町方(代官両)支配 の259町に絞ってその起立経緯と年貢、公役銀納ほかをリスト・アップの最 中=未完だったりもします。それ以上、手を広げるのは私には無理です^^ なので、全体を見据えてなんて出来かねますので、 レア・ケースに過ぎませんが今回はNo.3投稿を含め後記の 髙山慶子氏に注目している次第です。 >代官だけではどんな不都合なことがあって、町奉行が加わることによって、 >何がどのように解決できたのか、が次の疑問になりますが、 幸田成友氏の場合、下記のような見解もあるようです。 http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/koda4-9.htm なお、農業ではなく漁業関係者事例で一部No.3投稿と重複しますが、 〇「江戸日本橋魚問屋と深川の魚商人/髙山慶子」 『宇都宮大学教育学部紀要.第1部 Vol.63/2013-03』(p.11-27) https://uuair.lib.utsunomiya-u.ac.jp/dspace/handle/10241/8918 <3/20>(上段1-6行目) 深川猟師町(現在の東京都江東区清澄・佐賀・永代辺)は、江戸城へ魚介類を上 納する漁師の居住地として、寛永六年(一六二九)に隅田川東岸に成立した。 当初は代官伊奈氏の支配を受けたが、猟師町を構成する清住町・佐賀町・相川 町・熊井町・富吉町・諸町・大島町・黒江町の八ヶ町は、正徳三年(一七一三) に町奉行支配に組み込まれ、同年以降は代官と町奉行による両支配を受けた。 <3/20>(下段15-17行目) …、明治一四年(一八八一)に編纂された「東京諸問屋沿革誌」には、 「深川組魚問屋」の沿革について、以下の通り記されている。… <4/20>(11-17行目) 一、寛永六己巳年、深川地方ニ市街ヲ拓キ、大島・黒江・相川・熊井・諸町・ 富吉・清住・佐賀ノ八ヶ町ヲ猟師町ト惣称シ、漁夫等是ニ移住シ、蛤町・奥川・ 中島ノ三ヶ町ヘ地小買等転住シテ、其地方ノ魚物ヲ買集メ、之ヲ幕府肴役所ヘ 納メ(専ラ石鰈・手長海老・蛤等ノ類)、其残魚ヲ日本橋市場ニ送リ販売セリ 一、寛政四壬子年、従前ノ魚類上納ヲ止メ、一ヶ年永六十六貫七百文ヲ上納ス ヘキ旨代官所ヨリ達アリテ、毎歳之ヲ収納ス、… <5/20>(上段17行目-下段1行目) 三条目には、寛政四年(一七九二)に深川猟師町が魚介類の現物納を止め、以降 は毎年六六貫七〇〇文の銭を上納するようになったことが記されている。これ は、「御定式臨時御菜肴上納之儀、寛政四子年六月中伊奈右近将監殿役儀被免 候後ハ、活魚・野〆肴・貝類、肴役所ヨリ漁師町漁師并地小買共え御注文被申 付、鷹野役所よりハ漁師町町役人え被申付、上納仕候」とあるように、深川猟 師町を代々にわたり支配した代官伊奈氏が罷免された後に生じた上納方法の変 化である。猟師町による御菜御肴の上納は代銭納となったが、これ以降も引き 続き、肴役所から漁師や地小買に、鷹野役所から猟師町の町役人に[11]、注文 がなされており、深川の魚商人が魚介類の上納を止めたわけではない。 <16/20>(上段16-21行目) [11] 肴役所と鷹野役所は代官伊奈氏が罷免された寛政四年に創設された役所 で、前者は江戸橋広小路に置かれた幕府賄所の出先機関、後者は郡代役所で鷹 場賦役の賦課・徴収などの鷹野御用を扱う機関である。…(後略)… 私ド素人の当て推量に過ぎず、一事例から全てを語るには無理がありますが、 要は既得権益・財源の維持・確保のためにそれまで培ったノウハウを生かせる 代官支配(但し、上記事例では寛政四(1792)年まで)を残し、人口集中と諸々 の構造変化に伴って当然トラブル、犯罪等も増加傾向にあったでしょうから、 その強化対策として町奉行所も加わったのではないかと単純に考えています。 以上 お茶を濁してみました^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 治安の悪化に対応するには、 「町奉行は町奉行、代官は代官と、銘々独立的に職分を守り、支配違には手を入れぬ規定ですから」 ということでは困るので、一帯を町奉行の支配下にしたということですね。 昔からお役所は「タテ割行政」だったのですね。 管轄地域が拡大するとそれに見合った人員を要しますが、与力・同心を増員したのか、そんなことが気になります。 ざっと調べたところ、享保4年に南北それぞれ25名となったそうですが、後日、も少し調べます。 >正徳三年(1713)深川・本所・浅草・小石川・牛込・市ケ谷・四谷・赤坂・麻布辺で代官所支配で町と名の附いた分を町奉行支配に属せしめた。 ここでも「町と名の附いた分を町奉行支配に」したとあります。 村を町にしたのではない、ということを確信しました。 >町並地は町在両支配で、土地は従前の如く代官が支配し、同人の手で地子(地租)を徴収するけれども、人別は町奉行が支配する。 >それから享保四年(1719)に本所深川を町奉行支配とし、…以下略 ということは、正徳3年(1713)から享保4年(1719)に至る間は、当該地は「町並地」であって代官と町奉行の両支配、そして享保4年以降は町奉行支配になったと理解しました。 しかし、どうも不安です。#3から抜粋します。 ● 御府内備考卷百四 白金之三 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/9  <9-10/186>(1頁上段10行目-2頁上段20行目) ○六軒茶屋町 當町起立之年代相分不申町銘之儀者荏原郡上大崎村高内ニ而往古村地ニ有之候砌六ヶ所之商ヒ家有之候ニ付六軒茶屋と里俗ニ唱來町方ニ相成候節ヨリ町銘ニ相成候趣申傳尤其頃者御代官御支配ニ而百姓町家ニ有之處正德三巳(※1713)年閏五月中町御奉行…(中略)…御勤役中町方御支配ニ相成申候…(中略)… 一 反別壹町四反九畝五歩   但御年貢之儀者上大崎村高四百三十三石八斗四升七合之内え相籠り上納仕候尤六軒茶屋町永峰町兩町合高三拾八石七斗貳升ニ而壹町限り高分ヶ之儀相知不申候 …(中略)… 一 町御奉行所御代官兩御支配ニ御座候 「町御奉行所御代官兩御支配ニ御座候」と書いてあります。 また、正徳3年に(代官支配から)中町奉行支配になったとも書いてあります。 「御府内備考」は文政12年(1829)に取り纏められたものですから、「反別壹町四反九畝五歩」は、文政期の現状を報告したものと思いますが、「町御奉行所御代官兩御支配ニ御座候」は正徳期なのか、文政期なのか、思案中です。 「反別」云々は多分、小作で、年貢は上大崎村に籠めて納めたということで、納得しています。 これはテスト勉強ではないですから、逡巡している間も歴史を楽しんでいます。

回答No.8

kouki-koureisya さま。 Kittynoteさまとの個人的意見交換を大目に見ていただき、ありがとうございました。 私からも厚く御礼申し上げます。 なお、私の見解の一部は、 「地名で読む江戸の町」大石学 著 「江戸時代史」三上参次 著 などをベースにして、私の所有するその他の史料との整合性を踏まえて述べさせていただいております。

kouki-koureisya
質問者

お礼

お返事が遅くなってすみません。 個人的意見交換に大賛成です。 質問者としては、自分が気づかぬ視点から意見が出ることは、大変参考になります。

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.7

bungetsu 様 おはようございます。 No.5の Kittynote です。深夜?早朝?にもかかわりませず、 イレギュラーな便乗質問に即時対応いただきまして恐縮至極で御座います。 誠にありがとうございました。 >★そして、享保4年(1719)には、本所、深川、両国、なども町奉行支配地 >としました。 >この時に、No3さんが言われる通り、年貢米の徴収役務等が完全に代官から >切り離されました。 上記御回答をいただきまして、正直ホッとしております^^ もしも「正徳三(1713)年時点あるいはそれ以前からの事」だった場合に備え、 改めて「御府内備考」の該当箇所を見直しても、元々は官撰とは言え、 焼け残った編纂時資料の集成ゆえか典拠も無いため、他を当たったところ 「新編武藏国風土記稿」(豐島郡之一&之七) に「御府内備考」と同趣旨の記 述を見つけ『南向茶話/酒井忠昌』までは遡れましたが、典拠が一つでは心許 ないと考えておりました。 結果的に「享保四(1719)年以降の事」との御教授を賜りまして、 胸をなで下ろしている次第でございます。 「享保四(1719)年、259町の町並地はすべて正式に町人地になった」件に関 しましては、「町奉行代官両支配」に比べ思いの外、言及されている書籍など (と言いましても、私の場合はプロフィールの通り、主にネット中心ゆえに出 版年が古いものに限られる弱点は否めませんが)が少ない事もあって、私自身 理解出来かねている状況下にあるため、今回の御教授を糧に、 新たな課題に向けて取り組みたいと思います。 bungetsu 様 重ねてお礼申し上げます。 貴重な時間を割いていただきまして、誠にありがとうございました。 なお、本御質問者の kouki-koureisya 様におかれましては、 イレギュラーな便乗質問を黙認いただきまして 誠にありがとうございました。感謝申し上げます。

回答No.6

こんにちは。 NO3さんへお答えします。 >>上記御回答は、享保四(1719)年以降の事ですか?それとも正徳三(1713)年時点あるいはそれ以前からの事ですか? すでに、「代官」及び「郡代」などについては、お調べしていると思いますので、それらの役務等については省略をさせていただきます。 上記の件についてのみ回答をさせていただきます。 あなたのおっしゃることに間違いはありません。 ★明暦の大火後の町造りの過程(明暦3年・1657・1月以降)で、江戸府内も手狭になったことから、北の浅草方面の開発や南の埋め立て地の拡大、開発を幕府として正式に決定し、芝、三田、飯倉(港区)、下谷(台東区)などの街道沿いの地域は「町並地」として、年貢関係は「代官支配」、人別帳関係は「町奉行支配」と決めました。 これにより、江戸と呼ばれる範囲は674町となりました。 ★さらには、大川(隅田川)の対岸である、本所、深川、あたりまでをも「市街地」とする方向で検討がされ、それまで、軍事上の理由から「橋」を極力造らない方針でしたが、すでに泰平の世になったと判断をし、万治元年(1658)両国橋を完成させ、万治2年から本格的に、本所、深川、両国、などを整備始めました。 ★同時に、江戸の町人を武蔵野台地への強制移転をすると共に移転先の地の新田開発なども促進しました。 例えば、万治元年には「火除地」を確保する、と言う名目で、神田連雀町(「連雀」とは行商人のこと)の住民25戸を連雀新田(現・三鷹市連雀町)へ、明暦の大火で最も被害の甚大だった本郷元町の吉祥寺門前町の住民を吉祥寺村(現・武蔵野市)、芝西久保城山町の住民を西窪新田(現・武蔵野市)へ移転させました。 さて、本題: ★正徳3年(1713)、代官支配地であった町屋259町を「町並地」に編入し、同時に、代官支配から町奉行所支配地とすることとしました。 これにより、江戸の町数は933町となりました。 ★また、ご存じとは思いますが、代官そのものは元々は勘定奉行の支配下に置かれており、本来勘定奉行(所)が行うべき「作付面積」、「収穫量」、「年貢の徴収」etcを「代官」という肩書を付けて代理事務をさせていた、と言うことで、大元としては極端な言い方をすれば、代官が受け取る=勘定奉行所が受け取る。も同じ穴のムジナとでも言うことになるのでしょうかねぇ。 ★しかし、一方では8代将軍吉宗の政策顧問でもあった儒学者の荻生徂徠は、「政談」の中で、 「何方迄(いずかたまで)ガ江戸ノ内ニテ、是(これ)ヨリ田舎ト云(いう)彊界(きょうかい)ナク、民ノ心儘(こころのまま)ニ家ヲ建続(たてつづけ)ルユヘ、江戸ノ広サ年々弘(ひろ)マリユキ、誰許ストモナク、奉行御役人ニモ一人トシテ心付(こころづく=気付く)モナクテ、何(いずれ)ノ間ニカ北ハ千住、南ハ品川マデ家続(つづき)ニ成(なり)タル也」 と書き記し、町造りがまだまだ「無計画のように見える」と嘆いています。 ★そして、享保4年(1719)には、本所、深川、両国、なども町奉行支配地としました。 この時に、No3さんが言われる通り、年貢米の徴収役務等が完全に代官から切り離されました。 おそらく、この時をもって、「年貢町屋」という呼称が生まれたものと考えます。 ★延享2年(1745)には、寺社の門前町も寺社奉行の管轄か町奉行の管轄かがあいまいだったものを、正式に、町奉行支配下とする。と決定しました。 ★こうした幕府の意向の有無にかかわらず江戸の町は広がりをみせましたが、治安の低下は著しいものとなっていきました。 ここで登場したのが、享保2年(1717)に町奉行に就任した大岡越前守で、彼は「耐火建築の推進」、「消防制度の整備」、「米価引き上げ」、逆に「諸物価引き下げ」、「小石川療養所の設立」などの政策を次々と断行して人心の安定と治安の維持の強化に寄与しました。 ★なお、家康が関東に入国した時には、「伊奈忠次」と言う者が代官頭に任命され、その後「関東郡代」と呼ばれるようになり、12代に渡って世襲してきました。役宅は千代田城の常盤橋御門内にありました。 しかし、明暦の大火で焼失してからは、現在の中央区日本橋馬喰町二丁目付近に役宅を移転しました。 その後、伊奈忠尊が不祥事を起こして失脚をした寛政4年(1792)以降は、勘定奉行が関東郡代を兼務することとなりました。 少々、脱線した部分もあるかも知れませんがご容赦を・・・。

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.5

No.3投稿の Kittynote です。 便乗質問でお騒がせ致しますm(_"_)m No.3投稿で「町奉行と代官の両支配ですから、 年貢などは村方を通じて納めていたようです。」と曖昧表現ではありますが、 「御府内備考」の「町内の儀は先年ヨリ町御奉行御代官両御支配にて、 御年貢は御代官え致上納、諸事町御奉行所御支配を請」を鵜呑みにして 少なくとも正徳三(1713)年時点かそれ以前の町並地については、 たとえ町並地になっても年貢は代官が関与したつもりでカキコミました。 その後、No.4にて自称「歴史作家」bungetsu 様が、 「例えば、「年貢」であれば、代官の手を離れて、直接的に勘定奉行の支配す るところとなった。と言うことで、つまりは、農民がこれまでは代官所に収め ていたものが、以後は、直接的に幕府の米蔵へ収めることとなった。と言うこ とです。」と御回答なされていらっしゃいます。 ここで脳裏を過ぎったのは「享保四(1719)年、259町の町並地はすべて正式 に町人地になった」辺りですが、ここからが便乗質問です。 上記御回答は、享保四(1719)年以降の事ですか? それとも正徳三(1713)年時点あるいはそれ以前からの事ですか? 「歴史作家」bungetsu 様から私ド素人に 典拠などを含め御教授頂けましたら幸いで御座います。 何卒よろしくお願い致します。m(_"_)m なお、本御質問者の kouki-koureisya 様におかれましては、 私の振る舞い誠にもって御迷惑なことと存じますが、 平に平に御容赦下さい。m(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 歴史を想像して質問するという私の楽しみに、便乗して頂いても何ら差し支えないどころか、歓迎します。 これまでのいきさつをまとめておきます。 質問は、 1.「町屋を町並地に」の意味が分かりませんので教えて下さい。 【日本歴史大事典(小学館)】町並(まちな)み/ …江戸では、近世中期の市街地拡大に伴い、土地は村方と同様に代官所支配でありながら、人別が町奉行所支配に編入された都市周辺部の地域を「町並み地」といい、…後略 2.町並地とは「町人地」ではないのですか。 「享保四(1719)年、259町の町並地はすべて正式に町人地になった」のですね。 このことは知りませんでしたので、町人地ではないということは分かりました。(ホントは分かっていない) 3.町並地になると、「○村」から「○町」と呼ばれるようになるのですか。 質問した時点ではそう思っていたのですが、「蓋を開けてみますと経緯は様々のようで」調べてみると、もともと「町」と呼ばれていた所が、そのままの町名で江戸市中に編入されたケースが大半だと思います。 正徳3年に深川・本所・浅草・小石川・牛込・市谷・四谷・赤坂・麻布などで「町と名のつく」所259町を江戸市中に編入し… ( 『シリーズ日本近世史4 都市―江戸に生きる』 ) 4.そうなると、そこの住人は「町人」となるのですか。 町人の定義はともかく町に住んでいるから単純に「町人」と思ったのですが、意味のない質問のような気がします。 5.村であった当時の村方三役や年貢はどのようになったのですか。 結局、上記3に関連しますが、町並地になっても、年貢徴税権は代官のままで何も変わらなかったのではないかと思います。 「人別」は、町奉行管轄になったということですが、「人別」とは具体的に何なのか分かりません。 (独り言ですから無視してください)

  • Kittynote
  • ベストアンサー率84% (32/38)
回答No.3

>町並地とは「町人地」ではないのですか。 【日本歴史大事典(小学館)】町並(まちな)み/ …江戸では、近世中期の市街地拡大に伴い、土地は村方と同様に代官所支配で ありながら、人別が町奉行所支配に編入された都市周辺部の地域を「町並み地」 といい、武家屋敷で町人に貸与された屋敷を「町並み屋敷」と称するなど、近 世には町方に準ずるという意味で用いられることが多い。…<伊藤裕久> >町並地になると、「○村」から「○町」と呼ばれるようになるのですか。 それが一般的とは思いますが、蓋を開けてみますと経緯は様々のようで、 正徳3年の町奉行支配(代官との両支配)を基準にした場合、 それ以前の町屋の段階で「町」と呼称されていた例もあるようです。 >村であった当時の村方三役や年貢はどのようになったのですか。 町奉行と代官の両支配ですから、 年貢などは村方を通じて納めていたようです。 >一般論ではなく具体例 真っ先に思いつくのは「御府内備考」で、 正徳3年からの町奉行支配(代官との両支配)の場合は、 「本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地」なので、下記のうち 〇第29巻「御府内備考 自巻百四 至巻百四十」(巻126乃至巻139原書欠本)が 概ね該当します(正徳3年以外の町並地も含みますが)。 ・『大日本地誌大系.第1~4巻・第29巻/蘆田伊人編/雄山閣/昭和4-6』 〇第1巻「御府内備考 自巻一 至巻廿四」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214847/9 〇第2巻「御府内備考 自巻二十五 至巻四十六」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214857/5 〇第3巻「御府内備考 自巻四十七 至巻七十四」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214872/5 〇第4巻「御府内備考 自巻七十五 至巻百三」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214882/188 〇第29巻「御府内備考 自巻百四 至巻百四十」(巻126乃至巻139原書欠本) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/5 ●御府内備考卷百四 白金之三 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/9 <9-10/186>(1頁上段10行目-2頁上段20行目) ○六軒茶屋町 當町起立之年代相分不申町銘之儀者荏原郡上大崎村高内ニ而往古村地ニ有之候 砌六ヶ所之商ヒ家有之候ニ付六軒茶屋と里俗ニ唱來町方ニ相成候節ヨリ町銘ニ 相成候趣申傳尤其頃者御代官御支配ニ而百姓町家ニ有之處 正德三巳(※1713)年閏五月中町御奉行…(中略)…御勤役中町方御支配ニ相成申 候…(中略)… 一 反別壹町四反九畝五歩   但御年貢之儀者上大崎村高四百三十三石八斗四升七合之内え相籠り   上納仕候尤六軒茶屋町永峰町兩町合高三拾八石七斗貳升ニ而壹町限り   高分ヶ之儀相知不申候 …(中略)… 一 町御奉行所御代官兩御支配ニ御座候 …(後略)… <10-11/186>(2頁上段21行目-4頁上段20行目) ○永峰町…(全略)…※内容は前記「六軒茶屋町」と概ね同じ ●御府内備考卷百十一 深川之一 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/33 <33/189>(49頁上段14-21行目) 一 深川久右衞門町壹丁目貳丁目 右ハ築立地之内元祿十六未(※1703)年買受地正德三巳(※1713)年町支配ニ成 一 深川海邊大工町同所裏町 右ハ元和(※1615-25)年中ヨリ寬永(※1625-44)年中迄海邊新田百姓地を町屋ニ 御代官え相願正德三巳(※1713)年閏五月町支配ニ成其節ヨリ兩支配ニ而年貢其 外百姓高役相勤町並屋鋪ニ有之候 <33/189>(49頁下段1-20行目) 一 深川永代寺門前町同所仲丁同東仲丁同所山本丁 右者寬永四卯(※1627)年葭沼之場所永代寺拜領承應二巳年四月門前町ニ成天和 (※2)戌(※1682)年十二月燒失いたし家作御差留之處元祿十巳(?※元禄10年 =丁丑(1697)、元禄14年=辛巳(1701)?)如元町並ニ成延享二丑(※1745)年閏 十一月町支配ニ成先年ヨリ地子金右寺え差出 一 深川淸住町富吉町相川町熊井町諸丁黑江町大島町佐賀丁 右者寬永六巳(※1629)年海手汐除堤干潟之所獵師丁ニ取立度段御代官え相願 元祿十五午(※1702)年九月願之通町並ニ成正德三巳(※1713)年町支配ニ成先年 ハ無年貢ニ而御菜御肴差上御成先御役舟御用等相勤候處寬文十戌(※1670)年右 御役之外高入被仰付年貢相勤 ※ 上記「深川淸住町富吉町相川町熊井町諸丁黑江町大島町佐賀丁」 (※深川猟師町)のより具体的な事例は下記など。 ○「深川猟師町の漁師(研究)/高山慶子」『お茶の水史学 Vol.45』(p.21-51) http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/handle/10083/899 ※ 一 深川扇橋町同所蛤町之内 右慶安(※1648-52)年中ヨリ天和(※1681-84)年中之内海邊新田並深川村百姓地 を町並ニ御代官え相願正德三巳(※1713)年町支配其節ヨリ兩支配ニ年貢其外百 姓高役相勤候元祿(※1688-1704)年中ヨリ右町名相附候 … http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179190/34 <34/189>(50頁上段8-21行目) 一 深川平野町丁一色町元加賀丁此三ヶ丁拜領地入交り伊勢崎丁此丁拜領地 材木丁中川丁富久丁 右元祿十三(※1700)年ヨリ十五(※1702)年迄之内元木場丁屋割之地所並水地 萱野御築立地町屋割之所追々御代官え買受地願古丁同様町屋敷ニ成正德三巳 (※1713)年町支配公役銀勤拜領地之分起立難知分ハ其町内町人共買受地仕候 節ヨリ拜領地と相成候事と相見候 などなど、キリがありませんので…^^ 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「御府内備考」では、イヤと言うほど具体例が見つかりました。 その点は満足ですが、読めば読むほど想定外のことがいっぱい出てきたので、全く収拾がつきません。 まず、「○村」が「○町」になったのだろうと安易に考えていましたが、全く外れていました。 村の一部が独立して「町」になった例もありますが、もともと「○町」と呼ばれていた例も沢山あります。 質問前に『旧高旧領取調帳』を調べたとき、同名の「町」と「村」(例えば「千駄ヶ谷」)があることを不思議に思っていましたが、これで分かりました。 ただ、従来は代官支配だったのが、正徳3年、代官と共に町奉行も支配するという「二重支配」になったということですね。 すると、代官だけではどんな不都合なことがあって、町奉行が加わることによって、何がどのように解決できたのか、が次の疑問になりますが、これは後日調べてみます。 「町並地」の意味は一応分かりましたが、 「土地は村方と同様に代官所支配でありながら、人別が町奉行所支配に編入された都市周辺部の地域」ということで、も少し勉強します。 お礼が遅れてすみません。 まだ、ご回答#4以降は読んでいません。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、「町並地」という考え方ですが、 ★「町屋」・・・雑多な職業を持つ人たちが住んでいた町。 ★「町並地」・・特定の職業(職人)などを一か所に集めて住まわせた。 例えば、鍛冶町、大工町、桶屋町、などを指します。 つまりは、それまでは色々な職業の人たちが住んでいた場所(町)を職業集団の人たちを集めて町として整えた・・・と言うことです。 また、もう一つの考え方としては、あなたの質問の中にもありますが、江戸について言えば、 それまでは近郷近在の「村」だったものを江戸の「府内」(将軍家の領地)及び「郊外」(または「市街地」とも呼ぶ=町奉行の管轄地域)とした・・・と言うことです。 この場合は、近郷近在の「村」は代官が支配していましたが、江戸の勘定奉行や町奉行が直接支配(あるいは、管轄)とする・・・ということになります。 江戸の町は最盛期で町人が50万人、武士は軍事上の機密から公表はされていませんが、町割り図などから判断して、同じく50万人。計100万人都市と言われ、世界一のマンモス都市だったのです。 江戸の町は、徳川家康が江戸に拠点を構えた頃(天正18年・1590・8月1日)は、「江戸城静勝軒詩序」によると民家は100軒余りで、一面が葦(あし)野原であった。しかし、江戸湾を航行する船も多く、以外にも商業活動が盛んであった。 そのために、家康は江戸に本拠地を決めることとした。 やがて、秀吉が死に、関ケ原の戦い、大坂冬の陣、大坂夏の陣を経て家康が江戸で幕府を開くと、当然のことながら政治の中心は江戸になり、人々が集まってきました。 そして、幕府が開かれてから約60年後位に起きた「明暦の大火」(通称、「振袖火事」)では、武家地、町地共に密集しており、一気に江戸全体が焼け野原となってしまいました。 そこで、幕府は次のように「府内」や「郊外」を広げていきました。 ※慶長8(1603)年・・・千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計三百町の町割が完了し、この範囲を町奉行所の管轄地とした。以後、この地域を「古町」と呼ぶようになった。 (江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。「江戸城」という呼称が復活したのは明治になってからです)。 ※明暦3(1657)年1月18日~20日におよんだ明暦の大火の後、曲輪(くるわ=城を中心とした一定の地域。郭とも書く)内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれ、郊外として挙げられたのは、浅草、駒込、目黒で、ここまでを江戸と呼ぶこととする。さらに数年を経て、江戸と呼ばれる範囲は五里四方に拡大し、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが江戸の範囲と定められたが、これらは「府外」と呼ばれ、「府内」とは、依然として、古町の範囲だけであった。 ※万治元(1660)年・・・当時は東の隅田川より向こうは「下総国」と呼ばれており、江戸(武蔵国)と下総の両方の国にまたがるということで命名された「両国橋」完成。貞享3年(1686)に両国橋より東(本所、深川、両国など)も江戸に編入され、江戸の市街地に加えられた。 ※寛文2(1662)年・・・南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から町奉行所に「警察権」のみ委譲。この地域はまだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行が常時取り締まる必要がなかったが、ここで初めて町奉行所の管轄範囲が広がる。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として、二里四方(「墨線」の部分)であった。 朱引図 http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html ※明和2(1765)年・・・御番所(庶民は「町奉行所」とは呼ばず、通常は「御番所」と呼んでいました)での判決の中の「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。従って、この範囲までが町奉行所の管轄となった。しかし、内藤新宿は御城から近いにもかかわらず、管轄外であった。 ※寛政3(1791)年・・・東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪内四里四方を御府内と定める。旗本や御家人が御府内を出る時には「届出」を必要としたために決めたが、東北東とか西北西などの東西南北以外では、依然、あいまいだった。 ※文政元(1818)年8月・・・目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に朱線を引き、「この朱引図内を御府内とする」という老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」(または「朱引図」)と呼びました。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲。しかし、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲として、二里四方に墨線が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしているものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、サイトでも分かるように、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれる、と言う矛盾もあった。 目付は旗本や御家人の取り締まりをする役目。なお、大名を取り締まるのは大目付でした。 この御府内を決めたのは、旗本や御家人は御府内であれば夜九つ(午前1時)までに自宅に帰っていれば自由でしたが、御府内の外での宿泊には目付への届出が必要であり、これを怠ると「閉門」や「蟄居」などの処罰対象となり、目付としても御府内を決めてもらう必要に迫られたからです。 ※こうして、江戸と呼ばれる範囲は次第に広がっていき、当然、町数も増えていったのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >この場合は、近郷近在の「村」は代官が支配していましたが、江戸の勘定奉行や町奉行が直接支配(あるいは、管轄)とする・・・ということになります。 しつこく聞いて申し訳ないですが、この続きが知りたいのです。 そして、どうなったのですか、という疑問です。 「○村」と呼ばれていた村が「○町」となった、ということは想像できます。 正徳3年(1713)に、259町もの町が江戸の仲間入りをしていますから。 「オラも今日から江戸っ子だんべ」「ンだ」という会話が聞こえてきそうです。 しかし、名前が「町」に替わっても、そこに住んでいる人々も家も田畑も昔のままのはずですね。 そこで、何が変わったのかな、と思いました。 「村方三役」もおそらくそのまま同じような業務を引き続いていったでしょう。 名主も以前と変わらず「名主何某」という名で「五人組帳」に署名したでしょう。 それとも「町名主」としたかもしれません。 大体のことは想像できるのですが、「年貢や税がどうなったのか」、最大の疑問です。 おそらく何も替わらないのでしょうが、何か替わったことはないのですか、という疑問です。 ただ、家と人が増えてきたから町奉行の管轄としただけでしょうか。 「古地図」では「年貢町屋」なる名を散見しますが気になります。 当方、時間がたっぷりあるので、つまらぬ想像ばかりしては、質問しています。

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    江戸の総町数は、正徳3年(1713)では933町ですが、その30数年後の延享年間(1744~1748)には745町も増えて、1678町になっています。 町数が増えたのは、次の二つの理由によるそうです。 1.町地の強制移転により「代地町」が増加。 2.居住町人の増加により、寺社門前町を町奉行支配に。 東京都公文書館>江戸東京を知る>江戸の範囲 http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm  質問です。 1.町地を強制移転させると、元の町地はどのようになったのですか。 元の町地が無くなったのであれば、その分の町数は減るはずです。 減った以上に、代地町の町数が増えたのですか。 そうであれば、1町当たりの町人数は随分少なくなることになります。 2.寺社門前町で町奉行支配になった具体例を教えてください。 3.延享2年(1745年)2月、六道火事が発生しています。 町数が増えたことに何か関係ありますか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の百姓地とは。

    江戸府内(朱引内)及び隣接する府外の地域の地図には、所々「百姓地」と記載されている土地があります。 地図では、田畑や宅地とは明らかに区別されています。 百姓地とはいったい、どのような土地ですか。 1.所有者はだれですか。村または町の共有地ですか。 2.年貢は、田畑と同様に納めるのですか。 3.土地の状況。荒れ地とか休耕田とか宅地とか。 日本国語大辞典(小学館)には「江戸時代、都市の市街地に隣接した農地をいう。」と説明されているそうです。 4.なぜ百姓地ができたのですか。所有者が死亡とか逃亡したとか。湿地帯のように田畑に向いていないとか。それにしても、活用しなかったのはなぜですか。売却できなかったのですか、例えば抱屋敷として。 よろしくお願いします。

  • 百姓地という呼び方はあったのか

    江戸周辺や諸藩において代官や郡代が管轄する百姓が住んでいる郊外の農山村は「百姓地」と呼ばれていましたか?江戸市中では武家地、寺社地、町人地などとありますがどうでしょうか?又は他の呼び方でしょうか?

  • 刑罰「江戸払い」の罪人。

    「江戸払い」を命じられた罪人は、品川、板橋、千住、本所、深川、四ツ谷大木戸の外へ追放されるそうです。 大木戸までは、誰かが見張って、大木戸から外へ出たことを確認するのですか。 地方からの出身者の場合、とにかくその地方へ帰ろうかということになれば、「路銀」と「往来手形」が要ると思いますが、誰かが面倒みたのでしょうか。 江戸生まれの者の場合は、ゆく当てもないので、大木戸近くの村に居座るようなことがあれば、その村は迷惑だと思いますが、そんなことはないのでしょうか。 いつもつまらないことを想像して質問し、すみませんが、よろしくお願いいたします。

  • 江戸の寺の住所。

    江戸の寺には町名はなかったそうです。 町人地には町名がありますが、なぜ、寺社地には町名がないのですか。 芝の増上寺、上野の寛永寺と言うように、「芝」「上野」を付けるとある程度、所在地は分かります。 今の東京23区に代わる「地域名」(例えば芝、上野)が決まっていたのでしょうか。 地方から江戸の寺に手紙を出す場合は、住所をどのように表示したのですか。 よろしくお願いします。

  • 江戸城下町の地図

    ネット上で江戸城下の地図の画像を探しています。 武家地,町人地,寺社地,農村と言うように色分けされているものがいいです。 古地図の原本でもかまいませんし,古地図を基に,作られたものでも構いません。 なかなかコレ!と言うものが見つかりませんので,ご存知の方リンク先を教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。

  • 江戸府内の農地、農民。

    Wiki 「江戸」によれば、慶応元年(1865)の江戸の武家地、町人地、寺社地、その他の面積は次のとおりです。 総面積  79.8 km2 武家地  50.7 km2 町人地  14.2 km2 寺社地  10.1 km2 その他   4.8 km2 これを見ると、農地の記載がありません。 質問ばかりして申し訳ないですが、以下の疑問について教えてください。 1.江戸府内にも農地があったと思いますが、なぜ農地は記載されていないのですか。 2.また、農地があれば農民(農業に従事している人)がいたはずです。ネットを調べた程度ですが、 農民の人口は出てきませんでした。農民は、江戸府内にはいなかったのですか。 3.上表の総面積は墨引内の面積ですか。 ざっと計算してみると、墨引内と思います。墨引内でも農地が広がっていたと想像しています。 また、「その他」とは何の面積ですか。 よろしくお願いします。 Wiki 「江戸」 2.1江戸の範囲 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8

  • 江戸時代の禁裏御料,寺社領の領民について

    江戸時代の朝廷領(禁裏御料・公家領)寺社領に住んでいる領民はどのような身分だったのでしょうか?(何と呼ばれていたのか?) 大名領や幕領には一般的に村に住んでいれば百姓身分。町に住んでいれば町人と把握されていたと思いますが,上記の場合はどうだったのでしょうか?また年貢を納めるなどの役負担はあったのでしょうか?

  • 江戸の町の裏長屋について。

    落語や小説でお馴染の「長屋」ですが、コトバンクの「裏店」の説明では、 「大都市の町人居住地で,表通りに面していない路地裏に建てられた小商人・職人・日雇いなど下層庶民の借家住居のこと。多くは長屋建てであったので裏長屋とも呼ばれる。江戸町人地の場合,基本的な町割りは,京間で60間四方の街区のまん中に,会所地という20間四方の空地をとり,街路に面した奥行き20間の部分を間口5~6間の短冊形に割って屋敷地とするものである。個々の屋敷地内の,表通りに沿った,奥行き5間ほどの表部分には,地主が店舗を出すか,または,地借といって,比較的富裕な商人が地主から土地を借りて自己資金で店舗を建てた。」 とあります。 質問です。 1.コトバンクの説明からは、規格化された整然とした市街地を推測しますが、「裏長屋」はどこにあったのですか。「20間四方の空地」を囲むように建てられたのですか。 2.江戸の町を代表する町人地である日本橋や京橋あたりの町にも「裏長屋」があったのですか。 3.「9尺2間」で代表される統一化された裏長屋は、おおよそいつ頃出現したのですか。何度目かの大火の後、計画的な市街地整備で出現したのですか。 よろしくお願いします。

  • 年貢

    江戸時代、分家(郷士)にした家がありますが、田んぼ7反、畑400坪、あと山(松の木を育ててたらしい)にも土地所有してたみたいですが、 この場合って、年貢はどうゆう感じで取られるんですか? 因みに、田んぼ1町未満は年貢がとられないとか聞いたことあります でも、村では尊敬される家で、どちらかというと裕福だったそうですが、農地は多く所有してはないです