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百姓地という呼び方はあったのか

D-Gabachoの回答

  • D-Gabacho
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回答No.5

No.3です。ほかの江戸時代の「百姓地」の用例をさがしてみました。 『慊堂日暦』 天保三年九月 京師よりの書来り、君夫人の墓誌中の谷中村は新堀村ならんと訂すと。余は書を作って云う、(略)因って寺社由緒書を検すればすなわち云う、宝永六年に本行寺を谷中経王寺尾の百姓地に移すと。因って谷中を以て定となし、答を作ってこれに答う。 天保十二年四月 本月十■日、新地奉行触書大意ニ云ウ、御目見以上以下陪臣寺社町人、百姓地内々譲請、百姓名代ニテ抱屋敷ニイタス夥敷、御場内不取締ニ付、右様ノモノ村役人ヨリ二十日マデ書出可申ノ旨ナリ 天宝十二年九月 十四日、祭酒より呼出書付以御達左之通(御月番大炊頭様) 其方借地住居候下渋谷村羽根沢百姓地、此度公儀御触之趣も有之候間、家作引払可致返地之処、二十年来教授をも仕候儀に付、其訳を以申立置候処、此上三年之内は是迄之通住居致候而も不苦候。 『楽郊紀聞 対馬夜話』 同村柿の下といふ所は、多葉粉(たばこ)の宜き土地也と云。其処は百姓地也。

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