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江戸時代。高山陣屋の正式名。

高山市の観光名所の一つである「高山陣屋」は、江戸時代にも「高山陣屋」と呼ばれていたのですか。 地元では単に「役所」と呼ばれていたと思いますが、幕府の勘定奉行支配下の組織ですから、組織としての正式名は何ですか。 例えば「高山代官所」とか、あるいは安永6年以降であれば「郡代役所」とか。 よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.4

『古事類苑 官位部三』の中の「郡代‐飛騨郡代」の項に、次のようにあります。 〔天保六年武鑑〕飛騨国御郡代 飛騨、加賀、越前、美濃‐中略‐本陣屋飛騨高山 出張越前本保、同美濃下河辺、豊田藤之進 〔吏徴‐上 布衣以上〕飛騨郡代一人‐中略‐飛騨高山在陣  「武鑑」は、江戸時代に民間で発行されてはいますが、幕府職員録・人事録というべきものです。「吏徴」は、江戸時代後期に発行された江戸幕府職制の解説書で、現在の幕府職制研究の基礎資料となっているものです。 「古事類苑」は、明治政府が編纂した一種の百科全書で、各項目について古代から江戸期までの文献から引用したもの。この書籍は日本史研究の基礎資料として重要視されています。 これらの文献の中で、「武鑑」に「陣屋」と書かれ、「吏徴」に「在陣(陣‐陣屋‐にあり)」と書かれているので、「陣屋」が正式名称だと思います。陣屋は全体を表す言葉で、陣屋の中に政庁や、郡代の居住スペース、配下の長屋などの建物があったはずで、その中の政庁が役所と呼ばれていた可能性はあります。なお、「出張」は、「出張所」の略です。現在でも使われている言葉ですが、江戸時代も使われていたようです。 なお、郡代の項には、美濃郡代、関東郡代、西国郡代等についても、「陣屋」「在陣」と見えていますが、「役所」の記述はありませんでした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 「陣屋」なのですね。すっきりしました。 「武鑑」は、幕府の役人も大名家でも重用していたので信用しています。 他の「代官所」や「陣屋」についても多くの疑問があるので、「武鑑」や 『古事類苑 官位部三』を調べてみます。

その他の回答 (3)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.3

kouki-koureisyaさん、こんばんは。 高山を領していた金森氏が領地替えとなり、伊奈忠篤らによって高山陣屋は作られました。もともとは金森氏の下屋敷だったようです。陣屋は1692年(元禄8年)に「高山代官所」となり、あるいは1777年(安永6年)以降であれば「飛騨郡代役所」になりました。 詳細は下記のURLを参照してください。 高山陣屋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E9%99%A3%E5%B1%8B

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 このURLでは、 「高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・飛騨郡代役所(陣屋)。」と説明されています。 正しいのかも知れませんが、明治以降の解釈なのか迷っています。 それで、江戸時代には何と呼ばれていたのか、枝葉末節に拘っています。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 時代考証事典(稲垣史生著)で引用された「県治要略」の孫引用ですが、「代官所とは、代官の支配地・支配領域のこと」だそうです。  建物は、「陣屋」または「陣屋敷」「役宅」と言ったが、陣屋と呼んだのは戦国時代からの遺称である、とのこと。  特に、住居とオフィスの併用=陣屋、オフィスのみ=役所 と言い分けることもあるようです。  支配地が広く、支所を置く場合は、本庁を「元陣屋」、支所のことを「出張(でばり)陣屋」といい、代官が任地にいることを「在陣という」、とあります。  なので、(高山陣屋の建物や敷地は旧高山城の一部のようですが)代官が担当してからの名称は「高山陣屋」でよいと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「代官所とは、代官の支配地・支配領域のこと」 なるほど! 旗本の支配地を「知行所」と言いますからね。 何気なく「幕領地」とか言っていますが、「幕府」も後世に作られた用語ですからおかしいですね。 小説では、「数人の武士が代官所に駆け込んだ」というような箇所がでてきますから、ややこしいです。

  • lumiheart
  • ベストアンサー率48% (1102/2295)
回答No.1

そのまんま素直に高山陣屋公式の解説では何が足りないんでしょうか? https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/27212/shoukai.html

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 この公式HPを読んで疑問に思ったので質問しました。 「江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、御役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼びます。  飛騨代官は安永六年(1777)に飛騨郡代に昇格し、他の郡代役所(関東・西国・美濃)と並んで幕府の重要な直轄領となりました。  幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で、当時の主要建物が残っているのはこの高山陣屋だけです。」 と説明されています。 関東・西国・美濃は「郡代役所」だが、高山は「陣屋」である。 また、郡代・代官所の中で、当時の主要建物が残っているのはこの「高山陣屋」だけという箇所が分かりません。 片言隻句をとらえてのつまらぬ疑問ですが、気になって質問しました。 江戸と高山陣屋との間で書状のやりとりがあったはずですが、例えば宛名を「高山陣屋」としていたのであれば、納得できます。

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