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実高と表高、天領・代官領や旗本領もいっしょ?

江戸時代、諸藩は幕府から朱印状に記された表高分の軍役・夫役を負いながら、開墾をし表高を越えた収入をさらなる藩の財源としました。 では天領ではどうでしょう?諸藩ほど開墾が積極的でなかったとはいえ時代とともに開墾や治水強化農業技術強化で実高は増えていくはずです。旗本領で増えた石高は、旗本の収入としてしまうのでしょうか? 郡代や代官が増えた石高を丸どりしてしまうとさすがに役得が大きすぎるように思えます。

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  • head1192
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回答No.2

そういう事情があるから「検地」は度々行われた。 しかし数年おきである。 なので、検地を受けたあと新たな田畑を開墾すれば、次の検地までその田畑から獲れた作物はすべて作り手のものだった。 二宮尊徳はこの手で稼いだ、とこのまえNHKでやってた。 ちなみに郡代や代官がこれをやると汚職になる。 ばれることはそれほどないが、彼らも武士。 ばれたら良くて切腹、悪ければ磔打ち首の上お家断絶である。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 検地で石直しを行うとなると、代官郡代の場合は幕府に収める米を増やすだけの話ですが、旗本領の場合増えた石高分所領を奪われるのでしょうか?

その他の回答 (1)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10469/32923)
回答No.1

話を分かりやすくするために単純化します。ある田んぼで、年間200石の米がとれるから年貢は100石と決められていたとします。いろいろ頑張ってその田んぼから220石の米がとれるようになったとします。けれども年貢は100石ですから、増えた20石はそこの農民の利益となります。 何年か何十年かに一度、取れ高の調査が行われます。それは旗本などの武士が行うことになりますが、実際に測量は行われません。武士にとって「計算すること」は、金勘定をする「卑しい行為」とされていたのです。 なので「この田んぼはどのくらいとれるのか」と聞いて「へえ。200石でございます」と聞いたら「じゃあ200石」となったのです。でも計算しなくても見れば分かる部分はありますから「前に見たときよりあそこの部分が広がってるじゃねえか。明らかに増えているのに申告しないとは、武士を騙そうとしたのか!」などとなると首が飛びかねないので、そこらへんは「交渉」するわけです。そういった中でなんというか、賄賂的なものが手配されるのです。 一方の武士ですが、武士の給料は米で支払われ、その量は原則として代々継がれるものであり、いわゆる昇給は(なんかよっぽど業績を残すことでもしないと)ありません。 しかし質問者さんが指摘するように、時代が進むにつれて新田開発や技術向上によって米の総生産量は増えます。江戸時代は米をお金に換金してそれで他の物を買うわけですから、江戸幕府経済は「コメ本位制」に近いものがあります。米の総量が増えればインフレになるわけですから、一俵あたりの金額はどんどん下がります。武士がもらえる米の量は決まっていますから、米を換金して換算すると、武士の給料はどんどん下がることになってしまいます。 ここが武士階級と庶民(武士以外)階級のジレンマになるのです。社会全体の経済成長は武士階級以外には恩恵になることが多いですが、武士にとってはむしろ経済成長はマイナスにしかならないのです。 それで時々大規模に検地をして年貢の見直しをして収入を増やそうとするわけですが、一方でだからといって武士たちの給料を増やすことはできません。全員の昇給は難しいのですが、一部だけ昇給すると昇給できなかった人たちは当然不満を持ちます。 だもんですから、貧乏な藩などでは家臣に副業することを認めたり奨励するようになったのです。 ・・・あれ?私は令和のサラリーマンの話じゃなくて、江戸時代の武士の話をしていたつもりなんですけどね。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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