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百姓地という呼び方はあったのか

ichikawa2017の回答

回答No.2

武家地、町人地、百姓地などという用語は明治時代に入ってから使われた用語です。 従って江戸時代にはこのような区分呼称はありませんでした。 参考 明治初期の武家地がおかれた状況 混乱する江戸 www.photo-make.jp/hm_2/nazo_daimyoumon_7.html 抜粋 明治元年(1868)8月、郭外の土地建物について、土地は取り上げるが、家作は売るなり、取り壊すなりの判断は自由とした。これらは首都を東京にしたときの布石であり、郭内の土地建物はそのまま壊さずに保存することにした。また、郭内においては、藩すべてに1カ所の屋敷所有を認める、郭外においては、藩の大小にかかわらず2カ所の屋敷所有を認めた。 しかし、同年11月訂正の布告で、郭外の建物は全てを壊すと土地の境界が不明になるため、「石垣、板塀などは壊すことは禁ずる」と修正された。当然に門は板塀と繋がるので残された可能性が高い。 参考 武家地(ぶけち)とは - コトバンク kotobank.jp/word/武家地-1404866 抜粋 地租改正に先だって,1872年(明治5)いちはやく東京市街地(町地(まちじ),武家地)に地券が交付され,沽券税法の施行をみた。これは,町地(町屋敷,拝領地など種々の土地を含むが,その主要部分は町屋敷),武家地には旧幕時代,さまざまの特典が与えられていたので,それを統一税制下の課税対象に組み込むための措置であり,それを迅速に果たしえたのは,町屋敷には早くから売買・質入れが認められて所有権が成立していたからである。… 参考 都史紀要13 明治初年の武家地処理問題 - 東京都総務局 www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0604t_kiyo13.htm 抜粋 維新政府としては、江戸という巨大都市の再出発ともいうべき、新しい都東京に、町地においては地租という形ではないにしても何等かの形で租税的なものがあるのに、武家地とよばれる地域に一銭の地租税も課せられてないということは、財政難にあえいでいた政府側にとって、がまんの出来ぬことといってよい。そこに財政の上からも武家地というものを一刻も早くなくして、すべて「租税を納める土地」としようとした考えも当然のことといえる. >江戸市中では武家地、寺社地、町人地などとありますがどうでしょうか? 〇〇地という言い方ではなく統治する役所(勘定奉行、寺社奉行、町奉行)によって区分けされていました。 >又は他の呼び方でしょうか? 武家が居住する土地は一般に屋敷と呼ばれていました。 下級旗本や御家人は現在の公務員宿舎団地のような組屋敷と呼ばれる地域に集団で居住していました。 有名なのがTVの時代劇などに出てくる八丁堀です。 この地域には南北江戸町奉行に勤務する与力や同心が居住していました。 町人が住む地区については特別な呼称はありませんでした。 幕臣の場合は親子代々身分に応じて土地家屋が支給されていました。 人通りの多い通りに面した土地を支給された武家は通りに面して住居を建てて賃貸していました。 原則論からいえば違法行為ですが黙認されていました。

pusuta
質問者

お礼

回答ありがとうございます。武家地→屋敷、町人地→特に呼称なしということなんですね。各奉行の管轄地としての認識でそれを指す、一般的な呼称はなかったということでしょうか??

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