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昭和30年代の少年たちが戦争をテーマにした理由は?
- 昭和30年代の少年たちは戦争に関する曲を歌い、絵を描き、語り合っていました。
- なぜ平和国家の建設が進んでいる中で戦争がタブー視されず、少年たちに人気の娯楽となっていたのか疑問です。
- 他の娯楽がなかった理由や当時の文化的背景についても考えてみました。
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質問者が選んだベストアンサー
こんばんは。 同じお年頃と思いますが、僕も何か制約を受けた記憶は有りませんね。 売春婦は道によく立ってたし、差別用語なんて言葉も無かったし、夏休みの工作は戦艦大和を作って学校に持って行ってたし、TVはコンバットが人気でした。 同期の桜も、いろんなところでよく聴かれました。 もう何でもありの時代だったと思います。 終戦後少しして、朝鮮戦争が始まり、そのための軍需産業が日本の復興にも大きく貢献してることから、戦争の全てが悪ということでは無かったのではないでしょうか。 洋服も、GIのお下がりや、それによく似た服も出回ってましたね。 進駐軍目当ての風俗産業も、地域によっては盛んでした。 遊ぶものも不足してるということはなかったですね。 映画や音楽も、今よりも幅広く浸透してたと思います。 実に楽しい時代だったと思います。
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- ichikawa2017
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>かなりの田舎で育ちましたが 田舎であれ一軒家でも無い限り村落内には徴兵されて出征された方がいたはずです。 少なくても昭和20年に5歳以上の方であれば全員何等かの形で戦争経験者でそれなりの記憶を持っておられます。 >そして、米国の指導の下、教科書の戦争に関する部分が黒塗りされたように、…… 戦時中の国定教科書を使わざる得なかった終戦直後の話です。 昭和30年代にこのようなことはありませんでした。 >上記の「戦争をテーマにして……歌ったり、絵を描いたり、語ったりすることがタブー視されていなかった」という私の認識は正しいでしょうか??? 正しいというか同じような経験を持っている方が沢山おられるかと思います。 >平和を希求していたにもかかわらず何故でしょうか??? 昭和30年代には沢山の帰還兵の方がおられた時代です。 戦地から無事に帰還できたということは戦闘で生き残ったということです。 つまり自分の手で敵兵という名の人殺しをしてきた人達です。 多くの方々が自分の戦地でのことを話さずにお亡くなりになられました。 とは言え子供が戦争に興味をもつことを止めるのは自分の青春を否定することに繋がります。 極めて微妙な精神状態だったということをご理解ください。 平和を希求して戦争は避けるべきだとすることとは別次元の話です。 >単に他の娯楽がなかっただけなのでしょうか??? 娯楽がなかったというよりも何時の時代でも戦闘行為というのは武勇伝で勇ましい話ですので男の子であれば好みます。 宇宙戦艦大和やガンダムの代わりが戦艦や戦闘機、戦車だっただけのことです。 戦時中の川柳に 屍のゐないニュース映画で勇ましい 万歳とあげて行った手を大陸において来た 手と足をもいだ丸太にしてかへし というのがあるように戦場では悲惨な死傷者が生じることを避けることが出来ないというのは大人の間での認識です 子供の間では死傷者などは話題にはなりません。 この子供相手の書籍類も戦艦や戦闘機、戦車の写真や絵画、戦闘シーンなどを掲載していましたが死傷者については一切触れませんでした。 戦争をテーマにした話題や歌がタブーになるのは冷戦時代に入ってからのことです。 特に当時のソ連による世論操作が大きく影響しています。 ソ連に近親観を持たせるために歌声喫茶などという施設を設けてロシア民謡などを歌わせていました。 ロシア民謡とされていますが多くは日本向けに作られたもでした。 その中に反戦歌が多くありました。 日本国内でも昭和30年代には戦時中から米軍による占領時代、朝鮮戦争までの間に厳しく統制されていた社会主義思想が反動で急激に若者の間で広まりました。 20歳でマルクスにかぶれない奴はバカ30歳でかぶれている奴は大バカといわれた時代でした。 日本共産党などが社会主義国家の原爆は平和のためのもので自由主義国家の原爆は戦争のためのものだなどと訳の分からないことを主張していた時代でした。 昭和30年代から40年代初頭にかけてヴェトナム戦争が勃発して反戦集会が度々開かれた時代でした。 アメリカでも戦場から帰還した兵士が勲章をホワイトハウスに投げ返したりしていました。 このようなことが重なり昭和40年代には戦争=悪くという概念が広がって根付きました。 >認識が間違っているということであればそれを指摘して下さい。 間違っているというよりも歴史的な流れでお考えになられることをお勧めします。
お礼
ご回答ありがとうございました。 出征された方がいたはずです。……私の父も南方に出征したそうです。 少なくても昭和20年に5歳以上の方であれば全員何等かの形で戦争経験者でそれなりの記憶を持っておられます。……そうかも知れませんね。私は戦後生まれなので、出征の様子などはテレビなんかで見たことはありますが、全く記憶にありません。もっとも、テレビ、映画の話であれば、現代でも見ることができるのですが。 戦時中の国定教科書を使わざる得なかった終戦直後の話です。……私もそのように理解しています。終戦直後に、中学生くらいだったと思うのですが、私の恩師が、「黒く塗られた部分を太陽にすかして何が書いてあるかの方に関心があった。」と高校時代の授業(日本史)で話してくれたのを覚えています。 昭和30年代にこのようなことはありませんでした。……私も、黒塗りのない新品の教科書を使わせて貰いました。 つまり自分の手で敵兵という名の人殺しをしてきた人達です。……配属された部署にもよりますし、決めつける必要は無いと思います。 とは言え子供が戦争に興味をもつことを止めるのは自分の青春を否定することに繋がります。……そんなに大袈裟に考えなければならないものなのでしょうか??? 極めて微妙な精神状態だったということをご理解ください。……わかりました。そのような人もいるとは思います。 男の子であれば好みます。……確かに、そういう面はあると思います。 宇宙戦艦大和やガンダムの代わりが戦艦や戦闘機、戦車だっただけのことです。……ichikawa2017さんのご見解として理解させていただきます。私は、昭和30年代と、昭和の末期と、そして現在とでは、その時代の置かれている環境や戦争というものの理解の質の相違などから同列に扱えないのではないかという思いがあっての質問でもありました。 子供相手の書籍類も戦艦や戦闘機、戦車の写真や絵画、戦闘シーンなどを掲載していましたが死傷者については一切触れませんでした。……私が中学生の頃に読んだ太平洋戦争に関する戦記物では、当然のことですが、悲惨な状況は描かれていました、と言うよりも、悲惨な状況がほとんどでした。 歴史的な流れでお考えになられることをお勧めします。……今、たまたま太平洋戦争のことを勉強し始めたばかりですし、生憎のことに、そもそも歴史を「流れ」としてつかめるほどの知識・教養は持ち合わせておりませんが、「歴史を流れとして理解する」ことの重要性は理解しているつもりなので、ichikawa2017さんからの教訓として受け止めさせていただきます。
- gunsin
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団塊の世代です。 昭和30年代は、国も国民も貧しかったが、自由だった、の印象しか、 記憶に残ってませんね。 世界一の高さの東京タワーに誇りを持って、南極観測隊の派遣が、 金が無くて頓挫しそうの話を聞き、空き瓶を集めて売り寄付しました。 東京の目黒の中学(記憶が曖昧です)が行った事が、新聞の載ったのを、 見て、北海道の山の中の俺たちも負けて居られないと、集めたので、 校庭が空き瓶で一杯に・・・ 額に汗して働く、大人達を見て、何れは・・なんて思ってました。 額に汗しなくても、金が金を生む、現状は何か違うでしょう(貧乏人の 僻みです) コスト、コスト!ノルマ、ノルマ!に追われる毎日の現在のサラリーマンは、 気の毒ですに思えます、植木等の唄の世界は、何処かに、飛んで行って しまいました。 高度成長期前の、日本は個人情報なんたら、なんて煩い事なんぞ無く、 貧乏だったけど、自由、快活さが有りました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 昭和30年代は、国も国民も貧しかったが、自由だった、の印象しか、記憶に残ってませんね。……育った環境が良かったのですね。私は、不自由ではなかったけれど、「自由だった」という印象はありません。 北海道の山の中の俺たちも負けて居られないと、集めたので、校庭が空き瓶で一杯に・・・ 当時、北海道の山の中の学校で、校庭が空き瓶で一杯になるほども集めるとしたら、相当苦労されたでしょうね。
- Postizos
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今でも大戦の兵器のプラモデルは売ってますしそれを眺めて楽しむことも私はあります。 当時は大人がみんなで歌える歌は軍歌でしたから宴会などで歌っていることはよくありました。 70年代ごろ、青年だった私はある模型屋でハセガワの1/72を選んでいた小学生に「ナチって悪いんだよね?」と相談されました。私は「ナチは悪いけど飛行機は悪くないでしょう」と答えました。大人である自分は実際はそうは言い切れないことを知っています。しかし“戦争の間違いや酷さを理解した上でなら”ドイツの大戦機のスタイリングには日本には無い美しさや強さや合理性がある事実は認められてもいいのではないかと思うのです。そういう社会的諒解があるから今の大人の世界でも大戦機のプラモデルを製造販売することにそれほど反感がないのでしょう。 私の父は自民党員でしたが大戦に対しては嫌な思い出しかなく完全に否定的でした。そのような前提が右翼左翼のような思想的立場を超えて社会全体にあったから過去への郷愁や共有の文化が現実にそぐわないものであってもその限界を知って混同しないように生きることができたわけでしょう。 しかし今日の人にはそのような自分の人生と結びついた風俗としての戦争期の文化として当時のものを見られないし軍歌などは勉強でもしないと憶えられない。そういう人たちに否定すべき面を知りながら過去の文化を愛せなどと言っても「思想的に偏った人だ」としか感じないでしょう。 まずは前の大戦がひどいことばかりだったのが事実として社会全体に諒解されていればそれに付随する文化もクールな目で理解され免疫耐性を持った身体は上澄みを享受することも可能なわけですが、今日それを実感できない人も多いですし、ましてや体験していない人の娯楽のタネなどにはなり得ないのは自明ではないでしょうか。今の人にとってはガンダムの流行がみんなで共有できる、身体に染み込んだ「事実」なのですよ。 大戦下の文物が郷愁とともに享受されないのは今の人がそのような経験が無いからであって教育やマスコミのタブー視のせいではないでしょう。 マスコミや教育はむしろ当時を伝えないとまずいと考えているように私には見えています。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大戦に対しては嫌な思い出しかなく完全に否定的でした。……対戦に「良い想い出}を持っている人なんているのでしょうか??? 折角のご回答ですが、残念ながら、私の能力ではご回答の意味を理解できませんでした。<(_ _)>
- staratras
- ベストアンサー率41% (1504/3660)
回答者は質問者様より数歳年少の世代になります。小学生のころ軍用機のプラモデルを多く作りました。両親とも空襲の体験者で、自宅を空襲で焼け出された母は、さすがにひどい目に遭った爆撃機B29や戦闘機P51などの模型を作るのは喜びませんでしたが、戦時中に旧制中学の生徒だった父は、工場に動員されて爆撃機「飛竜」を生産していたことなどを教えてくれました。 「戦争をテーマにして……歌ったり、絵を描いたり、語ったりすることがタブー視されていなかった」というのは、もちろん家庭や学校(先生)により違いがあったと思いますが、昭和30年代の社会全体としてはおおむねご指摘の通りでしょう。 世の中全体としては、あの悲惨な戦争を二度と繰り返してはならないという点では、ほぼ意見が一致していましたが、昭和30年代は成人はすべて昭和20年以前の生まれで、中年以上の世代には兵隊として戦地で戦った人も少なくなかったため、親や教師の世代から戦争体験を聞く機会は多くありました。少年が戦争を語ることがタブー視されていなかったのは、多くの大人の戦争体験がまだ生々しく、折に触れて語られたことの反映でしょう。 とくに艦船や軍用機などの兵器については、技術的な誇りのようなものもあり(戦艦大和やゼロ戦など)、少年雑誌(月刊誌や週刊誌)に連載記事や特集などが掲載されていたほか、戦記漫画も人気でした。(例えば「紫電改のタカ」(ちばてつや) ただし大人から「戦争をどのように語ってはならないか」について教えられたことはありました。例えば「戦没者に敬意を払わないのはよくない」、「戦争の惨禍に目を向けずただ勇ましくカッコいいものとして語ってはならない」などです。逆に言えば当時の子どもたちにそのような傾向があることを心配する大人がすでにいたということです。 ある日、近所の友達と回答者が、土にまみれた六角形の金属製の筒を見つけて遊んでいたところ、これを見た母親に「そんなもので遊んではいけない」とひどく叱られました。そのとき初めてこの筒が戦時中に投下された焼夷弾の燃えがらで、このために多くの人が死傷したり家を失ったりしたことを知りました。戦後まだ20年経っていませんでした。
お礼
ご回答ありがとうございました。 小学生のころ軍用機のプラモデルを多く作りました。……(*^_^*)私もよく作りました。小学校の正門の前に駄菓子屋があって、プラモデルも売っていました。今は、作ろうなんて気は起こりませんが、おもちゃ屋なんかでプラモデルのコーナーを覗くと、少年の頃を懐かしく想い出します。 私の父は南方に出征していますので、staratrasさんのご両親も、私の両親より若いようですね。 世の中全体としては、~~折に触れて語られたことの反映でしょう。……このような見方もあるのですね。参考になりました。 ただし大人から~~心配する大人がすでにいたということです。……戦争を実際に経験した人でないと出てこない言葉かも知れませんね。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2310/5141)
>上記の「戦争をテーマにして……歌ったり、絵を描いたり、語ったりすることがタブー視されていなかった」という私の認識は正しいでしょうか? 正しいですよ。 今のように、「全て、日本は悪い国だ」という一方的な思想報道が少ない時代でしたからね。 誰もが自由に活動できた時代です。 今、同じ事をすれば・・・。 朝日新聞・TV朝日・毎日新聞・TBS・日教組・自治労・共産党・社民党・立民党・希望・民主党が、大々的に「非難・批判」を行います。^^; 今では、入学式・卒業式で「国旗掲揚・国家合唱」を行う事も、「戦争美化」として拒否・批判される時代です。 >認識が間違っているということであればそれを指摘して下さい。 決して、間違ってはいません。 敗戦後からの復興で、国民が一致団結していた自由な国でした。 右派・左派・中立と、それぞれを認め合った時代です。 今は、与野党共に「党利党略」で国民生活には一切関係ない問題で国会でマスターベーションをしていますよね。 年金機構のずさんな運営問題、介護医療問題、北朝鮮の核・拉致問題、TPP・保護主義問題・・・色々な国民に直結する問題が山積していますよね。 が、野党は「安倍政権退陣・衆議院解散」を目的にマスターベーション。 当然、左派系報道機関・活動家は「支持者を導入して、反政府デモ」に夢中。 昭和30年代の(与野党問わず)政治家は、あの世で嘆いています。
お礼
ご回答ありがとうございました。 今では、入学式・卒業式で「国旗掲揚・国家合唱」を行う事も、「戦争美化」として拒否・批判される時代です。……これだけは「本当におかしい」と思います。何で素直に「国を愛すること」だと、理解しないのでしょうかねぇ。(T_T) 昭和30年代の(与野党問わず)政治家は、あの世で嘆いています。……政治のことは、あまり分かりませんが、「貧乏人は麦を食え」と言われても、それを受け止め、頑張ってきた国民も賢かったし、評価は別にしても「国民にも正直に物を言う本当の政治家がいたなぁ」という気がします。 今は、親から貰った職業としての「政治屋」しかいなくなったと感じていますが、貧乏人のヒガミでしょうか???(T_T)ただ、だんだん、国民も政治家もバカになってきているようには感じます。私もそのひとり(国民として)ですが。
- tpg0
- ベストアンサー率31% (3785/11963)
こんにちは。 私は、昭和25年8月生まれですから、正しく昭和30年代は5歳から14歳でした。 ですが、私の父親は弟が昭和20年2月にヤップ島で戦死をして父親の両親(私からは父方の祖父母)も昭和20年3月10日の東京大空襲で犠牲になり亡くなってますし、母親の兄も昭和20年4月に戦艦大和と共に沖縄特攻のため出艦した軽巡洋艦矢矧に乗艦し戦死をしてますので、戦争の悲劇しか聞かされずに育ちました。 それでも、昭和30年代は小学生の遊びとして「軍人将棋」が流行った時期もあり、元帥を守るため大将から少尉の駒やスパイ(元帥に勝てる駒)とかタンク(戦車)などの特殊な駒を巧みに盤面に配置して遊びましたので、軍隊の階級などは自然に覚えました。 恐らく、質問者様のご両親を始め肉親に戦死したり空襲などで犠牲になり亡くなった人がいなかったので、太平洋戦争に関することがタブー視されなかっただけと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 恐らく、質問者様のご両親を始め肉親に戦死したり空襲などで犠牲になり亡くなった人がいなかったので、太平洋戦争に関することがタブー視されなかっただけと思います。……私の父は南方に出征していたようですが、普段家庭の中で、戦争の話をすることはありませんでした。ただ、「戦争に負けて良かった。」という父の言葉は今でも覚えています。戦争で亡くなった父の兄弟はいるのですが、兄弟が多くて、……父に兄弟姉妹が何人いるのか、質問したことはあるのですが、何人いるのか、どこにいるのか、まともな答が返ってきたことはありません。(*^_^*)そんな時代だったのかも。……そんなに気にもしていなかったように思いますし、私も気になりませんでした。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7249)
あなたの記憶は正しいと思います。ただ解釈がちょっと。 戦後しばらく街で、腕がない人とか足を失った人が切れ口を見せながらものごいをしていましたが、かならず「ああーあの声で」という軍歌を流していました。 当時ですからSPのポータブルプレイヤーで貧しい音でしたが、軍歌と乞食は一緒のものでした。もちろんこのひとたちは戦争に行って負傷したひとたちです。 進駐軍は、忠臣蔵のような復讐劇は完全禁止していたようです。また、日本刀を使った芝居などにも目を光らせていたようです。これは、自分らが降伏させ進駐させているので恨みを買うなら自分たちに決まっていますから大石内蔵助だとか堀部安兵衛が出てこられると不都合だったからです。 しかし、名もない兵隊が戦場で死ぬ話はべつに問題はない。愚かな日本軍のせいで死ななくてもよかった人間が犬死したというのは、二度と軍備はいやだという気持ちを持たせますから。友は野末の石の下、とうたうことはいやじゃなかったのです。 GHQの占領は昭和27年に終わりましたので、当然そこで縛りはなくなります。そうすると、ゼロ戦はやととか紫電改のタカみたいな漫画も可能になった。そういうことです。 また、朝鮮戦争というのが起きまして、日本は軍隊がないけど、アタマの上を米軍が通過して堂々と戦争をするようになったので、戦争そのものがいや、じゃなくて正義の戦争なら大丈夫だ、というように気持ちをもっていってくれるならアメリカは支援したのです。日米安保条約と連携します。 このへんでプラモブームが起こり、自動車も人気でしたが戦車や戦闘機を作るのが大変に熱気を帯びて活発になった。太平洋の戦隊を全部作って机に並べるなんていうことを、30過ぎの大人が熱中した。このひとたちは戦争中は招集を受けるまえの世代だった連中です。昔軍人に憧れて、敗戦で夢をめちゃめちゃにされた世代です。 実際には平和を希求した時代なんてなかったのです。憲法だけなんです。 どんな国でも同じですけど、仮想敵国を作りそれを倒すんだという意識が一番国をまとめます。そういうことだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 当時の背景を詳しく紹介していただきありがとうございました。それとご回答のひとつひとつが、私なりによく理解できたと思います。 忠臣蔵のような復讐劇は完全禁止していたようです。……極めて興味深いですね。忠臣蔵、水戸黄門、大岡越前なんていうのは、「勧善懲悪」、「よっ、待ってました」という、安心して見られる私の好きなドラマですね。(*^_^*) ただ、「仮想敵国を作りそれを倒すんだという意識が一番国をまとめます。そういうことだと思います。」というのが、私の質問とどのように関係しているのか理解できませんでした。<(_ _)>
- lumiheart
- ベストアンサー率47% (1148/2427)
貴殿は正しい 当時は現代と違ってその辺りは自由であった 地上波テレビでも女性の裸満載だったし 私の記憶が正しければ 女性の裸が出なくなったのと戦記物がタブー扱いされた時期がシンクロしてると思う 或る年にイキナリ切り替わったのでなく10年くらいのスパンで徐々に 恐らく20世紀終わりころ 0戦はやと https://ja.wikipedia.org/wiki/0戦はやと あかつき戦闘隊 https://ja.wikipedia.org/wiki/あかつき戦闘隊 紫電改のタカ https://ja.wikipedia.org/wiki/紫電改のタカ 忍者部隊月光 https://ja.wikipedia.org/wiki/忍者部隊月光 エリア88 https://ja.wikipedia.org/wiki/エリア88 気分はもう戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/気分はもう戦争 快傑ハリマオ https://ja.wikipedia.org/wiki/快傑ハリマオ
お礼
ご回答ありがとうございました。 或る年にイキナリ切り替わったのでなく10年くらいのスパンで徐々に……時が流れ、人が入れ替わる。そんな中で、「気づかないうちに時代が変わる」……得体の知れない恐怖を感じます。ただ単に「時代に取り残されることの恐怖」かも知れませんが。(*^_^*)(T_T) 快傑ハリマオ……懐かしいですね。テレビで流れていた主題歌が勇気を与えてくれるような曲で、今でも記憶にあります。たしか最後が「ハリマオ-、ハリマオ-、僕らーのハリマオー」だった???と。(*^_^*)
- nannkaiporks
- ベストアンサー率26% (466/1765)
以前は歌でも忌野清志郎のように反戦をテーマに楽曲はあリました。 安倍政権になりそういう風潮は除外され始め、半ばタブーのようになりました。 なぜなら安倍自身が戦争したいからです。 戦争したいからそういう声を謀殺したのです。 そしてそういう安倍を支持してるのは団塊の世代と若者に多いのが情けない限りです。 団塊の世代など学生闘争に飽きたノンポリ世代です。 そういうアホが日本をつぶすのです。 音楽で政治批判しても構わないし、するべきです。 もっと戦争批判、戦争したがってる安倍・自民・日本会議批判はするべきです。 タブーなんかではなく、タブーにしてる安倍政権がおかしいのですよ。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 売春婦は道によく立ってたし、……(*^_^*)私の住んでいたところはド田舎だったので、田んぼや山道に売春婦は立っていませんでした。 TVはコンバットが人気でした。……懐かしいですね。確か主演がビック・モローとか?????「ただ単に戦争というよりも、戦争とは何か???」ということを問いかけるような番組だったように感じます。好きな番組でした。 朝鮮戦争が始まり、そのための軍需産業が日本の復興にも大きく貢献してることから、戦争の全てが悪ということでは無かったのではないでしょうか。……このような視点が、私には全く欠けていました。 映画や音楽も、今よりも幅広く浸透してたと思います。……ド田舎だったものですから、映画というのが、非日常的な希有な楽しみだった時代から、テレビが日常になる世界が、一気に訪れたような気がします。 実に楽しい時代だったと思います。……私も、辛いことはありましたが、不思議な充実感が残っています。
補足
皆さん、ご回答本当にありがとうございました。私の能力のなさで、ご回答の趣旨を十分に理解できなかった面もあり、己の勉強不足、能力のなさに、恥ずかしさを痛感しておりますが、あの世に逝く前に、太平洋戦争で犠牲になられた方々への鎮魂の意味を込めて、「太平洋戦争」というものの一端でも理解しようと、勉強を始めました。また、私の質問を見かけたら、これに懲りずよろしくお願いいたします。