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戦後10年にあたる昭和30年代の日本の課題は何?

戦後10年目にあたる昭和30年代(1956年とかその辺り)、日本では何が重要課題となっていたのでしょうか? まだ親も生まれてませんでしたし、親も知りません。 祖父母が青春の最中くらいの頃です。

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.6

産業復興、外貨獲得、食糧増産(自給)、医療衛生の向上

  • mekiyan
  • ベストアンサー率21% (883/4066)
回答No.5

昭和22年生まれですので、30年代はちゃんと覚えていますよ。 とにかく、働いて働いて、いかに廃墟から脱出するかが重要課題。少し効果が出てきて落ち着いたところで、貧乏から脱出で所得倍増計画が池田首相より発表されました。食料事情も改善され、お米は配給制だけでなく自由米の販売も始まりました。 日本がよくなり始めたのは、皇太子がわたしの選んだ人を見てくださいと「美智子様」が明るい話題で、一気に日本が明るい方向へ方向転回を成し遂げた時期です。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6920/20475)
回答No.4

昭和30年代 まだまだ人々は貧しく 仕事が無い人も多かった。 失業対策事業が行われていました。日給が240円でした。 食料増産 米 単位面積当たりの収量を増やすことが課題でした。 コシヒカリなどおいしさを求めるようになったのはずーーっと後のことです。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (420/1308)
回答No.3

1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約が発効 して、晴れて日本は独立国となりました。 空襲で都市は焼野原となり、回復途上でした、食料は不足していて、 皆が空腹を抱えていた状況です。 大日本帝国は滅んだので、あらゆる組織、病院、学校、鉄道、等々 新たに構築しなければなりませんでした。 東京タワーが完成した1958年(昭和33年)辺りから、食料事情も良くなり、現在の1959年の上皇様と上皇太后様の御成婚が決まり日本中が明るい雰囲気に包まれました。 まだまだ、日本は貧しい国でした、お金が無いので、国際通貨基金 からお金を借りて、1963年(昭和38年)に名神高速、続いて、 1968年(昭和43年)に東名高速を作りました、この高速道路が 大動脈となり、世界から奇跡の復興と呼ばれた、高度成長時代が 始まりました。

  • NOMED
  • ベストアンサー率30% (522/1726)
回答No.2

教育改革・右往左往 https://www.p.u-tokyo.ac.jp/lab/ichikawa/johoka/2008/Group1/kaiteimatome.htm  学校給食法 昭和29年6月3日の公布・施行   「国民の食生活の改善」への「寄与」 ---- 当時、日本は高度経済成長に突入した時期であったことからも、特に科学技術教育に重点が置かれました ----

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1504/3660)
回答No.1

経済面では昭和31年度の「年次経済報告(経済白書)」に「もはや『戦後』ではない」という有名な表現があります。原文を読むと「日本は復興した、戦後は終わった」というような単純な文脈で使われたのではないことがわかります。(以下引用) 戦後日本経済の回復の速やかさには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。 しかし敗戦によって落ち込んだ谷が深かったという事実そのものが、その谷からはい上がるスピードを速やからしめたという事情も忘れることはできない。経済の浮揚力には事欠かなかった。経済政策としては、ただ浮き揚がる過程で国際収支の悪化やインフレの壁に突き当たるのを避けることに努めれば良かった。消費者は常にもっと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多くを投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。      (引用終わり) ひとことで言えば、「これからの経済の成長は「戦後復興」で走り続ければよかったこれまでのようには行きませんよ」と「将来へ向けての課題を示した」ということです。今にして思えば、「今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである」という指摘は優れた見通しであったと思いますが、その後日本経済は高度成長期を迎えたため、この経済白書の「もはや『戦後』ではない」という表現は、もともとの意味を離れて世に広まりました。 余談ですが、回答者は昭和20年代の末の生まれで、昭和35年に「所得倍増論」が出た翌年に小学校に入学しましたが、このころたまたま弟が生まれ、母親に「うちは月給は2倍にならないけど子どもの数は倍増したね」と言ったそうです。「所得倍増論」は小学1年生でも知っているくらいインパクトがあったのでしょう。時の池田勇人総理大臣が、日本の国民所得を10年で2倍にしますという「所得倍増計画」を唱え、大風呂敷だと批判されたものの、実際には10年もかからずにそれが実現してしまったのですから…。 一方外交面では、国際社会への復帰です。昭和31年にソビエト連邦との国交が回復し、国際連合への加盟が実現しました。昭和39年は「夢の超特急」東海道新幹線が開業した年ですが、経済協力開発機構(OECD)に加盟し、国際通貨基金(IMF)8条国に移行して先進国の仲間入りをした年でもあり、新幹線の開業の直後に東京オリンピックが開催されました。 このように昭和30年代の日本は経済の高度成長を背景に国際的な地位も向上して国民生活のレベルもあがりましたが、その一方で当時公害と呼ばれた環境問題などのひずみも深刻化しました。これらの課題の解決に本格的に取り組むのは昭和40年代以降です。

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