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唯物論でしか考えられない

世界は最終的には物質、空間、時間といったものに還元されると思っています。 私は徹底的な唯物論者です。 だから、人間の心や思考なども最終的には物質で解明されて、人間は一種のロボット・機械であることが証明されるでしょう。 この考えは変ですか? 唯物論では解明できないことがある、あるいは唯物論は間違っているなどの指摘がありましたらお願いします。

みんなの回答

回答No.9

 これでおしまいとしますが 次の点が 問題となります。  ★(No.8お礼欄) 経験しないということが分かっているなら話は簡単です。  ☆ 《人知を超えている・経験世界を超えている》ということは その正解たるナゾにひょっとして 出会っているかも分からないのです。  あるいは 向こうから ニュートリノのように 経験世界にやって来て われわれを突き抜けて行っているかも分かりません。  さらにあるいは 指の先が互いに触れなんとしている状態にあるかも分かりません。  これらの可能性は――超経験のナゾが 経験世界にやって来ているなどという・これまた とてつもない不思議な出来事ですが―― その経験的な出来事などは ないんだよというもう一方の〔仮りの〕見解を 同時に持っているなら みとめられます。  もっとも われという一人の人間のその主観内部におけるまぼろしとしてのみですが。  つまり そのようなかすかなまぼろしの経験可能性を 許容しているのが 神です。  ★ 経験しないということが分かっている  ☆ という定義内容は あり得ません。なぜなら 《分かっている》と言うのなら 《人知が及んでいるその範囲(つまり もろに経験事象)》であるからです。  《経験しない》という見方で断定することが出来ないのですし 《経験できる》とだけ断定することも 間違いになります。  ★ 観測できないものはないのと同じです。  ☆ 《観測できない》というのは そのような人間の能力による認識が及ぶかどうかの問題です。  神は 認識を超えています。――《超えている》ということは じつは その神のほうが 経験世界を覆い包んでいるかも分からないという派生的な推理が得られます。  

stmim
質問者

お礼

回答ありがというございます。 書いてある意味がよくわかりませんが、それだと考える必要ないと思いますよ。単なる言葉遊びにみえます。

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回答No.8

 No.7です。お礼をありがとうございます。  ★(No.7お礼欄)  あるかないか証明することができないのは別に神に限ったことではなくて、雪男とかツチノコ、ネッシー、幽霊も同じです。ないことを証明するのは原理的に困難です。そいうものと同じ扱いでよいと思います。  ☆ ええっとですね。基本として 経験事象であるか または 経験世界を超えている(人知を超えている)かで 丸っきり扱い方が違って来ると考えます。  挙げてもらっている事例は みな 経験世界に属するものごとです。  雪男は 定義にもよりましょうが 実際にその存在が見つかるかどうかの問題だと思います。  ★ ないことを証明するのは原理的に困難です。  ☆ という問題ではなく そうではなく 見つかるまで 想像力をたくましくしているというだけのことだと思います。  ツチノコは よく知りませんでしたが 未確認動物だそうで 次のネッシーをふくめ 雪男の場合とまったく同じなはずです。  幽霊は わたしの定義では 《恨みをのこして死んでしまった人のその思いが 遺された人に(そしてそこから広がって 人びと一般に)何らかのことをうったえるということ。そして それが 火の玉のかたちを採ったり あるいは足のない人の姿を採って現われるという言い伝え》です。  これらはすべて 神の場合とは カテゴリとして異なります。  そして 神の場合には 微妙ですが:  ★ あるかないか証明することができない  ☆ のではなく そうではなく 《神は有る》とも《神は無い》とも いづれも証明することが出来ないそのナゾだということです。  存在が有るか無いかを探究しようという――人知による認識可能性に立つ――姿勢が お呼びではないのです。  ただし 表現として《人知》にかかわり得ますので 言いかえます。:《神は有るかも知れないし 同時に 神は無いかも知れない》というナゾです。  有ると無いとの可能性が表現として〔のみ〕――もっとも厳密には ひとりの主観内部における場合に限って――同時にあるという不可思議です。《有る神》派と《無い神》派とがあり得て このふたつの場合が――仮りの分かりやすい表現のかたちとして――あり得ます。  ★ 何かありそうな根拠がでてきたらそのように扱えばいいし、なければ特に扱わなくてよいと思います。  ☆ 有るとも無いとも 証明出来っこないのです。神は 初めから《無根拠》です。  根拠があるとしたら・根拠が何らかのかたちで分かったとしたら その認識(人知)が得られたことにおいて それは 神ではないとはっきり言えるナゾです。  つまり 近代以降の科学が・そして哲学が まだ この神論〔の基礎を成す前提〕が分からないのです。  ★ 神については、子供が親を必要とするように、人類の親を昔の人々が求めていた願望の結実だと思います。人間が創造したものではないでしょうか?  ☆ ですから 《人知を超えた何ものか》あるいは《経験事象を超えたナゾ》は 神なら神という言葉にして――そしては それは シルシとして(つまり 神という正解のための補助線として)表現するかたちで――人類は捉えましたが それは 《こしらえた》ものではありません。  正解がありそうだとでも思ったのでしょう そこから 補助線を引いたのです。あるいは 《依り代》とも言いました。 八百万の神々が それぞれその補助線であり 神の霊が降りて来ると捉えたものごと――つまり 山や木や石その他その他――が 依り代です。  アメノミナカヌシの神は 隠れているとも伝えられています。《有るとも無いとも証明し得ないナゾ》として 言葉にして表わした。そういうかたちで《見つけた》とは言えても そのナゾを――超経験なるものを――人間が創造したという話は あり得ません。    ★ 神が存在するとなると、厄介なのは「神を創造したのは誰か?」という問題が発生することです。もともと神は存在しないと考えた方が自然と思います。  ☆ 《神が存在するとなると》というふうに 《神は有る》派の一辺倒としての神理解は あり得ないのです。《神が存在しないとなると》という他方の側の神学――つまり 無神論――も それだけでは 唯物論としての世界現実を見ていない部分観です。  ★ もともと神は存在しないと考えた方が自然と思います。  ☆ 超経験で人知を超えているということは 《考える》では埒が開かないのです。考えて分かるのなら 神とは言わないのです。次元が違っています。  ただし 《有るとも無いとも いづれとも分からない。また 分かるか分からないかが分からないナゾ》については 《有る神》派と《無い神》派との ふたつの――思考を交えた場合の――神観が 同時にあり得ます。両方が 同時にあるというかたちでないと ナゾを捉えた(表現した)ことにはならないしろものです。  ★ 唯物論でしか考えられない  ☆ というとき 《心は 質料(一般には 物質と呼ぶ)のハタラキである》という説明を添えているなら そして 神は質料や心をも超えているナゾであるという神論でその唯物論(じつは 人間論)を基礎づけているなら だいたい同じような思いを持ちます。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 経験しないということが分かっているなら話は簡単です。 観測できないものはないのと同じです。 私の考えでは考慮する必要はありません。

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回答No.7

 No.5です。コメントをありがとうございます。  あんがい重要な論点だと思っていますので いまいちど投稿します。  ☆☆(回答No.5) >絶対性としての神なる場は あるとも ないとも 証明できないという事情が――おそらく事実として――のこっているものと思います。  ☆ この《現実》は 身とのカカハリだけではなく 心の問題とじゅうぶん絡み合っていると思われるからです。  そして このことは 《神は あるとも ないとも 証明できないという事情》なのであって この事情が全体としてまとまった認識として すでにわれわれ一人ひとりにとっての《現実》と成っている。こういう問題だと思います。  つまり:  ★(No.5お礼欄) 神については、存在しそうな証拠でも出てきたら考えればいいと思います。  ☆ という見方が ふるいのだと思います。有るとも 無いとも それらの証拠は 出っこないのです。これが 近代市民にとって 神論の前提であり 基礎であるはずなのです。  そしてこの《いま現在において――そして人間にとっては つねに―― 神の有る無しは 証明することが出来ない》という認識を どう扱っておくか? この問題であるはずなのです。    ★ 今のところ神の存在をことさら考える必要はありません。  ☆ という見解も 《神問題にからんで 心をどう捉えるか》についてのひとつの・その心のあり方に成っています。  ★ 神のことをどうしても考えたいという欲求がなければ考慮しなくていいと思います。  ☆ 《有無は 証明できない》ところを 《おそらく〈無〉説でよいだろう》という見解であり そういう心のあり方です。  もし言われるところの唯物論に世界は立脚しているとするなら 《心》は 唯物論的な《事実》に対応した心のあり方を見せて 現われて来るはずではないでしょうか?    ということで 唯物論に傾く思潮は なおその根拠をしっかりと固めて行かなければならないと思います――というひと声でした。  つまり 神論としては 《神は有る》派も《神は無い》派も いづれも自己の心のあり方をそれぞれのように決めた見解を一辺倒として唱えるなら それは 《唯物論 ないし 唯事実論》からは 或る種のパーフォーマンスとして表現すれば アホバカ教でしかない。・・・となるのだと考えられます。  (この最後の見解は ご質問から脇道へ逸れていますが これも・つまり案外これが 唯物論的な見方だと思います)。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >そしてこの《いま現在において――そして人間にとっては つねに―― 神の有る無しは 証明することが出来ない》という認識を どう扱っておくか? あるかないか証明することができないのは別に神に限ったことではなくて、雪男とかツチノコ、ネッシー、幽霊も同じです。ないことを証明するのは原理的に困難です。そいうものと同じ扱いでよいと思います。 何かありそうな根拠がでてきたらそのように扱えばいいし、なければ特に扱わなくてよいと思います。 神については、子供が親を必要とするように、人類の親を昔の人々が求めていた願望の結実だと思います。人間が創造したものではないでしょうか? 神が存在するとなると、厄介なのは「神を創造したのは誰か?」という問題が発生することです。もともと神は存在しないと考えた方が自然と思います。

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  • shiren2
  • ベストアンサー率47% (139/295)
回答No.6

テンプレ的な回答は、始まりの問題を解けないというやつでしょうね。 物質と空間と時間があれば、あとはごちゃごちゃやっていれば色々出来るよ! は結構ですが、それら三要素はどのようにして存在するに至って、 どのようにしてそれ自身を維持しているのか、というやつです。 仏教でいうと、 「諸行無常はいいけど、諸行無常という法自体が無常じゃないじゃん?」というツッコミと同じですね。 その法は無為法だから…と冷や汗を流しながら仏教徒は反論したわけです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 宇宙のはじまりの問題でしょうか?なるほど、それは難しい問題です。 物理の本を読むと、何もないところにいきなり誕生したという話です。 「ああ、なるほど、そういうことか」と私は割合と納得しています。 物質がいつ消えるかということも問題ですね。 陽子崩壊の実験は過去になされていますが、まだ検出されていないようです。 ただ、大きな問題は人間の心がどうなっているかという問題だと思います。 その点に関しては宇宙の開始や終焉を考えなくてもよさそうです。

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回答No.5

 No.3です。  コメントをいただきました。  そうですね。おっしゃるような――単純な平易な唯物論の見方をする――トレンドがある。ということですかね。  たぶん そうだと推し測ります。  ただ それは まだ確実に証明されてはいないようですね。  と言いますか よく分かりません。極端な批判としては やはり 形而上の世界についての問題が のこっているでしょうね。  つまり 絶対性としての神なる場は あるとも ないとも 証明できないという事情が――おそらく事実として――のこっているものと思います。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >確実に証明されてはいないようですね。 そうですね。どの程度の証明が必要かという問題もあります。 厳密な意味での証明となると原理的に難しそうですね。 >形而上の世界についての問題が のこっているでしょうね。 また科学が発達してなかった頃に考えられていた話なので、もう現代の人はそのことを考えなくてよいと思います。 >絶対性としての神なる場は あるとも ないとも 証明できないという事情が――おそらく事実として――のこっているものと思います。 神については、存在しそうな証拠でも出てきたら考えればいいと思います。 今のところ神の存在をことさら考える必要はありません。 神のことをどうしても考えたいという欲求がなければ考慮しなくていいと思います。 証明ということですと原理的にはできないと思います。 できないならこだわっても仕方ない。 統計では95%とか99%の確率で差があれば有意という判定をします。 それと同じように、それが確かである蓋然性が高ければ、そうだ考えるということで良いと思っています。

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  • hekiyu2
  • ベストアンサー率35% (271/774)
回答No.4

この考えは変ですか?   ↑ ヘンではありません。 正しいか間違っているかは別にして、現在の 脳科学や分子生物学はそうしたことを 前提にしているからです。 分子生物学でノーベル賞を受賞した利根川進先生は 突き詰めていけばタンパク質があるだけで 魂などは存在しない、と明言しています。 唯物論では解明できないことがある   ↑ 例えば自我などは仮説はありますが 唯物ではまだ解明されていません。 あるいは唯物論は間違っているなどの   ↑ 最先端の脳科学者は、研究が進めば進むほど その神秘性に打たれる、と言っています。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 唯物的考え方は現代の潮流ということですね。 自我は解明されていないですね。ただ、これまで明らかになったことから、特に物質以外のものが介在しているとは思ってません。仕組みが解明されていないだけで将来は物質的に説明可能になると思っています。 研究が進むと確かに世界はエレガントに出来ているなあと思います。 でもそれは物質のみから出来ていることと矛盾はしません。

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回答No.3

 1. モノは 質料と形相から成ると言います。家が 材料とそのかたちから成るというようにです。  2. かたち ないし 形相は 思考上の観念でもあり イデア(エイドスですか)です。  3. このふたつの要素について 形相は その究極のものとして第一形相を立て 質料は やはりその究極の第一質料を立ててみたとき 世界が 第一形相に還元されると説くのが 唯心論であり 同じく第一質料に還元されるというのが 唯物論です。  4. すなわち 第一形相は 世界精神であり 第一質料のことは 物質と言うというわけです。  5. 還元された世界精神や物質は すでに 経験事物ではありません。いわゆる形而上の存在です。  6. つまり 唯心論も唯物論も どちらも究極の存在を立てる形而上学の理論であり 仮りに究極の存在を単純に神と呼ぶとしますと 神論の一種です。つまり 神の呼び名が 物質と精神とで違うだけです。  7. ですが おっしゃる仮説では 形而上の物質は立てないということのようですね。  8. ★ 世界は最終的には物質、空間、時間といったものに還元される  ☆ 時空間は 場であり そこに何らかのモノがやはりあるかたちであり  場が地であり モノが図であるといった捉え方でしょうか。  9. 言いかえると 地図として成っている世界は 究極の形而上存在を立てないのですから やっぱり素粒子や量子から成るという見方なのだと思われます。  10. つまり 最初に戻って 世界が 質料と形相とから成るというとき それは 実質的には 質料のみであり 形相は まぼろしであると言ったことになります。  11. 結論に近づきたいわけですが:  ★ 人間の心や思考なども最終的には物質で解明されて  ☆ というとき 世界は 質料のみだということであり いま心とか思考とか言っている形相のことは 質料のハタラキによるということだと見られます。   12. でも そうだとすると 《質料のハタラキ》を形相と言うだけのことだと言えば それで済むことではないのですか?  13. それとも:  ★ 人間は一種のロボット・機械であることが証明されるでしょう。  ☆ というときには 形相としてのいまの心や思考は いまあるように見えていても やがては そのほんとうの姿として《無い》状態になる・・・ということでしょうか?  14. わたしは どうなるか分かりませんが そうすると もしおっしゃるような《唯物論》が実現したならその世界というのは もういちいち唯物論として成り立っているとは 言う必要がない・・・のですよね? そう言ったり考えたりすることそのものが無くなる。  15. ということは いま唯物論を唱える必要ないし理由・目的は 何か? ――予測し予言したいから? そんなことは考えておらず ただ その未来社会にそなえるだけ?   16. でも 唯物論として成る世界の出現にそなえると言っても 出現したときには 世界や人間のほんとうの(ふつうの)姿になるのだから そなえていなくても 憂いはないものと思います。あぁ あのとききちんと考えて備えておけばよかったなぁ・・・という事態は 来ません。  17. では いま現在 唯物論を考えたり説いたりするのは 何ゆえか? 何ゆえでしょう?

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ヨーロッパ中世ならいざ知らす、現代において形而上の問題をまじめに考えている人はあまりいないと思います。 形而上のことは全く考えていません。 歴史的な唯物論の話もわかりません。私の言う唯物論とは自然科学の成果から推測しています。 >そのほんとうの姿として《無い》状態になる・・・ということでしょうか? それは解釈の問題に帰着すると思います。例えばPCの液晶モニターは様々に明滅していますが、それを例えば人間は文字として解釈するから文字が映っているようにみえるわけです。ないと言えばない、あると言えばある。解釈のモードの問題になると思います。 > では いま現在 唯物論を考えたり説いたりするのは 何ゆえか? 何ゆえでしょう? 自然科学でわかってきたことから考えたら世界はモノ(物質)で成り立っているというのが答えに思えるのですが、そうなのか確認したいということ。もし違っているのなら他にどんな可能性があるのか知りたいと思ったからです。

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回答No.2

正直言ってその考えは、変どころか支離滅裂って感じしますけどねぇ・・・ 私は寧ろ「唯脳論」者なんで・・・ 養老孟子先生もだいぶお年を召され「唯脳論」から かれこれ25年くらい経ちますが、私は当時、傾倒したものです。 人間の心や思考なども最終的には物質で解明されて、とありますが ここで言う「物質」って、何を指してますか?ホルモンでしょうか? 「人間は一種のロボット・機械であることが証明されるでしょう」 AIが人間の知能を上回り、人間がAIに命令され使われる世の中になれば 「人間は一種のロボット・機械」に成り下がるでしょうが そういう世の中にはなってほしくないと思います。 唯物論では、人間の大脳皮質の働き、中でも大脳辺縁系の働きによる 意思や感情をどのように説明しますか? こういった事柄は唯物論では解明できないと思います。

stmim
質問者

お礼

>ここで言う「物質」って、何を指してますか?ホルモンでしょうか? 分子の組み合わせです。ホルモンも分子です。 >人間がAIに命令され使われる世の中になれば AIに命令されて人間が従うとすれば、それは従った方が人間にとって得になるからでしょう。AIが発達するのはいいことだと思います。 >「人間は一種のロボット・機械」に成り下がるでしょうが >そういう世の中にはなってほしくないと思います。 そいうことにはならないと思います。 >唯物論では、人間の大脳皮質の働き、中でも大脳辺縁系の働きによる >意思や感情をどのように説明しますか? 意思や感情は一種の錯覚だと思います。 あると思うから、あるというか・・・ ピッタリした例えじゃないかもしれませんが、映画をみて感動することありますよね。本当は俳優が演じているだけなのに。みなしとしてその世界が存在していると錯覚しているのです。 この本をまだ読んでなかったら読んでみてください。 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 前野 隆司 (著)

stmim
質問者

補足

回答ありがとうございました。 お礼の言葉を述べるのをわすれておりました。 脳も物質であり、脳の思考などの作用も最終的には物質の相互作用で説明できると思っています。

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noname#230381
noname#230381
回答No.1

はい、変です。 詰まるところ、貴方は過去の論を踏襲、否真似してるだけで唯物論を唱えていて、証明すらできてない状態です。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 これまで科学的に解明されたことをもとに残りの未解明な事柄についてかんがえてみると唯物論しかないかなと思っています。 どうやっても世界観の証明はできないのじゃないですか? どのような世界観だろうとこれまでに証明されたものはないと思います。

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