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唯物論でしか考えられない

soyez-heureuxの回答

回答No.2

正直言ってその考えは、変どころか支離滅裂って感じしますけどねぇ・・・ 私は寧ろ「唯脳論」者なんで・・・ 養老孟子先生もだいぶお年を召され「唯脳論」から かれこれ25年くらい経ちますが、私は当時、傾倒したものです。 人間の心や思考なども最終的には物質で解明されて、とありますが ここで言う「物質」って、何を指してますか?ホルモンでしょうか? 「人間は一種のロボット・機械であることが証明されるでしょう」 AIが人間の知能を上回り、人間がAIに命令され使われる世の中になれば 「人間は一種のロボット・機械」に成り下がるでしょうが そういう世の中にはなってほしくないと思います。 唯物論では、人間の大脳皮質の働き、中でも大脳辺縁系の働きによる 意思や感情をどのように説明しますか? こういった事柄は唯物論では解明できないと思います。

stmim
質問者

お礼

>ここで言う「物質」って、何を指してますか?ホルモンでしょうか? 分子の組み合わせです。ホルモンも分子です。 >人間がAIに命令され使われる世の中になれば AIに命令されて人間が従うとすれば、それは従った方が人間にとって得になるからでしょう。AIが発達するのはいいことだと思います。 >「人間は一種のロボット・機械」に成り下がるでしょうが >そういう世の中にはなってほしくないと思います。 そいうことにはならないと思います。 >唯物論では、人間の大脳皮質の働き、中でも大脳辺縁系の働きによる >意思や感情をどのように説明しますか? 意思や感情は一種の錯覚だと思います。 あると思うから、あるというか・・・ ピッタリした例えじゃないかもしれませんが、映画をみて感動することありますよね。本当は俳優が演じているだけなのに。みなしとしてその世界が存在していると錯覚しているのです。 この本をまだ読んでなかったら読んでみてください。 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 前野 隆司 (著)

stmim
質問者

補足

回答ありがとうございました。 お礼の言葉を述べるのをわすれておりました。 脳も物質であり、脳の思考などの作用も最終的には物質の相互作用で説明できると思っています。

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