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唯物論でしか考えられない

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.8

 No.7です。お礼をありがとうございます。  ★(No.7お礼欄)  あるかないか証明することができないのは別に神に限ったことではなくて、雪男とかツチノコ、ネッシー、幽霊も同じです。ないことを証明するのは原理的に困難です。そいうものと同じ扱いでよいと思います。  ☆ ええっとですね。基本として 経験事象であるか または 経験世界を超えている(人知を超えている)かで 丸っきり扱い方が違って来ると考えます。  挙げてもらっている事例は みな 経験世界に属するものごとです。  雪男は 定義にもよりましょうが 実際にその存在が見つかるかどうかの問題だと思います。  ★ ないことを証明するのは原理的に困難です。  ☆ という問題ではなく そうではなく 見つかるまで 想像力をたくましくしているというだけのことだと思います。  ツチノコは よく知りませんでしたが 未確認動物だそうで 次のネッシーをふくめ 雪男の場合とまったく同じなはずです。  幽霊は わたしの定義では 《恨みをのこして死んでしまった人のその思いが 遺された人に(そしてそこから広がって 人びと一般に)何らかのことをうったえるということ。そして それが 火の玉のかたちを採ったり あるいは足のない人の姿を採って現われるという言い伝え》です。  これらはすべて 神の場合とは カテゴリとして異なります。  そして 神の場合には 微妙ですが:  ★ あるかないか証明することができない  ☆ のではなく そうではなく 《神は有る》とも《神は無い》とも いづれも証明することが出来ないそのナゾだということです。  存在が有るか無いかを探究しようという――人知による認識可能性に立つ――姿勢が お呼びではないのです。  ただし 表現として《人知》にかかわり得ますので 言いかえます。:《神は有るかも知れないし 同時に 神は無いかも知れない》というナゾです。  有ると無いとの可能性が表現として〔のみ〕――もっとも厳密には ひとりの主観内部における場合に限って――同時にあるという不可思議です。《有る神》派と《無い神》派とがあり得て このふたつの場合が――仮りの分かりやすい表現のかたちとして――あり得ます。  ★ 何かありそうな根拠がでてきたらそのように扱えばいいし、なければ特に扱わなくてよいと思います。  ☆ 有るとも無いとも 証明出来っこないのです。神は 初めから《無根拠》です。  根拠があるとしたら・根拠が何らかのかたちで分かったとしたら その認識(人知)が得られたことにおいて それは 神ではないとはっきり言えるナゾです。  つまり 近代以降の科学が・そして哲学が まだ この神論〔の基礎を成す前提〕が分からないのです。  ★ 神については、子供が親を必要とするように、人類の親を昔の人々が求めていた願望の結実だと思います。人間が創造したものではないでしょうか?  ☆ ですから 《人知を超えた何ものか》あるいは《経験事象を超えたナゾ》は 神なら神という言葉にして――そしては それは シルシとして(つまり 神という正解のための補助線として)表現するかたちで――人類は捉えましたが それは 《こしらえた》ものではありません。  正解がありそうだとでも思ったのでしょう そこから 補助線を引いたのです。あるいは 《依り代》とも言いました。 八百万の神々が それぞれその補助線であり 神の霊が降りて来ると捉えたものごと――つまり 山や木や石その他その他――が 依り代です。  アメノミナカヌシの神は 隠れているとも伝えられています。《有るとも無いとも証明し得ないナゾ》として 言葉にして表わした。そういうかたちで《見つけた》とは言えても そのナゾを――超経験なるものを――人間が創造したという話は あり得ません。    ★ 神が存在するとなると、厄介なのは「神を創造したのは誰か?」という問題が発生することです。もともと神は存在しないと考えた方が自然と思います。  ☆ 《神が存在するとなると》というふうに 《神は有る》派の一辺倒としての神理解は あり得ないのです。《神が存在しないとなると》という他方の側の神学――つまり 無神論――も それだけでは 唯物論としての世界現実を見ていない部分観です。  ★ もともと神は存在しないと考えた方が自然と思います。  ☆ 超経験で人知を超えているということは 《考える》では埒が開かないのです。考えて分かるのなら 神とは言わないのです。次元が違っています。  ただし 《有るとも無いとも いづれとも分からない。また 分かるか分からないかが分からないナゾ》については 《有る神》派と《無い神》派との ふたつの――思考を交えた場合の――神観が 同時にあり得ます。両方が 同時にあるというかたちでないと ナゾを捉えた(表現した)ことにはならないしろものです。  ★ 唯物論でしか考えられない  ☆ というとき 《心は 質料(一般には 物質と呼ぶ)のハタラキである》という説明を添えているなら そして 神は質料や心をも超えているナゾであるという神論でその唯物論(じつは 人間論)を基礎づけているなら だいたい同じような思いを持ちます。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 経験しないということが分かっているなら話は簡単です。 観測できないものはないのと同じです。 私の考えでは考慮する必要はありません。

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