• 締切済み

唯物論でしか考えられない

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.3

 1. モノは 質料と形相から成ると言います。家が 材料とそのかたちから成るというようにです。  2. かたち ないし 形相は 思考上の観念でもあり イデア(エイドスですか)です。  3. このふたつの要素について 形相は その究極のものとして第一形相を立て 質料は やはりその究極の第一質料を立ててみたとき 世界が 第一形相に還元されると説くのが 唯心論であり 同じく第一質料に還元されるというのが 唯物論です。  4. すなわち 第一形相は 世界精神であり 第一質料のことは 物質と言うというわけです。  5. 還元された世界精神や物質は すでに 経験事物ではありません。いわゆる形而上の存在です。  6. つまり 唯心論も唯物論も どちらも究極の存在を立てる形而上学の理論であり 仮りに究極の存在を単純に神と呼ぶとしますと 神論の一種です。つまり 神の呼び名が 物質と精神とで違うだけです。  7. ですが おっしゃる仮説では 形而上の物質は立てないということのようですね。  8. ★ 世界は最終的には物質、空間、時間といったものに還元される  ☆ 時空間は 場であり そこに何らかのモノがやはりあるかたちであり  場が地であり モノが図であるといった捉え方でしょうか。  9. 言いかえると 地図として成っている世界は 究極の形而上存在を立てないのですから やっぱり素粒子や量子から成るという見方なのだと思われます。  10. つまり 最初に戻って 世界が 質料と形相とから成るというとき それは 実質的には 質料のみであり 形相は まぼろしであると言ったことになります。  11. 結論に近づきたいわけですが:  ★ 人間の心や思考なども最終的には物質で解明されて  ☆ というとき 世界は 質料のみだということであり いま心とか思考とか言っている形相のことは 質料のハタラキによるということだと見られます。   12. でも そうだとすると 《質料のハタラキ》を形相と言うだけのことだと言えば それで済むことではないのですか?  13. それとも:  ★ 人間は一種のロボット・機械であることが証明されるでしょう。  ☆ というときには 形相としてのいまの心や思考は いまあるように見えていても やがては そのほんとうの姿として《無い》状態になる・・・ということでしょうか?  14. わたしは どうなるか分かりませんが そうすると もしおっしゃるような《唯物論》が実現したならその世界というのは もういちいち唯物論として成り立っているとは 言う必要がない・・・のですよね? そう言ったり考えたりすることそのものが無くなる。  15. ということは いま唯物論を唱える必要ないし理由・目的は 何か? ――予測し予言したいから? そんなことは考えておらず ただ その未来社会にそなえるだけ?   16. でも 唯物論として成る世界の出現にそなえると言っても 出現したときには 世界や人間のほんとうの(ふつうの)姿になるのだから そなえていなくても 憂いはないものと思います。あぁ あのとききちんと考えて備えておけばよかったなぁ・・・という事態は 来ません。  17. では いま現在 唯物論を考えたり説いたりするのは 何ゆえか? 何ゆえでしょう?

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ヨーロッパ中世ならいざ知らす、現代において形而上の問題をまじめに考えている人はあまりいないと思います。 形而上のことは全く考えていません。 歴史的な唯物論の話もわかりません。私の言う唯物論とは自然科学の成果から推測しています。 >そのほんとうの姿として《無い》状態になる・・・ということでしょうか? それは解釈の問題に帰着すると思います。例えばPCの液晶モニターは様々に明滅していますが、それを例えば人間は文字として解釈するから文字が映っているようにみえるわけです。ないと言えばない、あると言えばある。解釈のモードの問題になると思います。 > では いま現在 唯物論を考えたり説いたりするのは 何ゆえか? 何ゆえでしょう? 自然科学でわかってきたことから考えたら世界はモノ(物質)で成り立っているというのが答えに思えるのですが、そうなのか確認したいということ。もし違っているのなら他にどんな可能性があるのか知りたいと思ったからです。

関連するQ&A

  • 唯心論? 唯物論?

                     唯心論 唯物論 人間は精神である、精神は性質である、人間が性質であるという考え方から行けば  (神経伝達)物質等の性質などが複合して人間の精神 意識(性質)を形成しているわけで  唯心論でいう心も実は自然の中の性質から出来ており  唯物論でいう人間は物ではなく性質が本質なのだと言うことが分かると思います  これによって唯心論と唯物論の統合が図れるのではないでしょうか?

  • 唯物論以外のあなたの世界観を教えてください

    私は自然科学中心の唯物論で世界をとらえています。それ以外は考えにくいです。 もし唯物論以外の世界観をお持ちの人で「私の世界観はこうなっている」というのがありましたら教えてください。 私が特に知りたいのは (1)あなたの世界観では物質は存在しますか? (2)物質以外のもので心とか神とかはすべて物質がもとで発生していると私は考えています。 例えば人間という物質があるので心や神が発生している(あるようにみえる)のだと思います。 物質に基礎をおかない物質以外のものがありましたら教えてください。 (3)自然科学の結論(成果)は受け入れてますか? 例えば、地球は丸いとか生物は進化する、物質は原子や分子から成るなど (4)唯物論で考えるとどうしても解決できない問題がありましたら教えてください。

  • 唯心論の心は性質、唯物論の物の性質 同じでは?

    もっと絞り込みます 私は唯心論の心・精神は性質で出来ていると考えるに至りました。 その性質とは唯物論で言う物質の性質と同じもの、同質のものです つまり脳という物質や脳波・神経などの電気信号等の現象の性質面が精神なのです。 この考えで唯物論と唯心論がつながって人間や世界が分かります 他にも色々考えがあるのですが 何処かおかしいでしょうか? にわかに信じがたいでしょうか?

  • 唯物主義に生きがいはありますか?

    唯物主義に生きがいはありますか? 人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものですよね? 水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう? 尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。 クオリアや自由意志も錯覚でしょう。まだ解明されたわけではないですが、 その機能も物質の化学反応によるものだと考えることが自然です。 何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、 すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。 しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか? 精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで 自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎないんじゃないですか? いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。 しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか? 虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。 哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。 どうかよろしくお願いします。

  • 性質としての精神・人間存在、唯物・唯心の融合?

    私達人間は精神です、精神は性質で出来ています、性質としての存在が人間存在です 我思う処の我は 性質としての人間存在です。実存です。 実存でなくても客観視すれば世界が存在している事は自分が世界であることから間違いありません 物質が存在し その脳内物質の性質が精神としての実存を実現してる 唯心論と唯物論の融合です。人生観と世界観の根拠です。 存在性について語りたいのですが 分かる人が少なくて困っています。 誰か分かる人はいませんか?

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?

    信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?  ないと考えるのですが ご見解をお寄せください。  有神論と同じ条件においてひとしく非思考の場で成り立つものだと考えるから 無いという現在の結論です。  ちょうど この非思考の領域において 唯心論と唯物論とが けっきょくのところ互いに同等の原理論であるというのと同じことだとも理解しています。  原理論という意味は 先験的に――あるいは 超越論的にというのでしょうか――そうであるという捉え方をする場合のことです。つまり 非思考の場のことです。  もし経験思考の世界においてでしたら 唯心論は 一般に精神世界すなわち心ないし観念の現象に対応するでしょうし 唯物論は 一般に質料(マタ―・もの)論としての世界認識に対応するのだと思います。  ・・・・・経験世界・・・・(経験思考)・・・・・・/ 非思考(超経験世界)  _____________________________________  モノ:内容(コンテンツ)・質料(マタ―・ヒュレ)・/第一質料=物質(マタ―)  心 :形式(フォルム)・・形相(フォルム・エイドス)/第一形相=世界精神  ☆ つまりは 物質というのと無神と言うのとは 同じことだと考えますし その唯物論=無神論は けっきょく対極の唯心論ないし観念哲学としての世界観と 非思考の場において兄弟のようなものだと見ます。どうでしょう?

  • 宿命論

    宇宙中のすべての状況がある瞬間に決定されたなら、その後の宇宙の変化、事件はすべて計算により予言できる。我々人間も、物質としては原子分子でできており、感情や意志もこれらの物質や電磁気カに支配されているならば(唯物論が正しいかはいまだ不明であるが)我々も、これらの方程式の解として動かなければならなくなり、我々の感情や生活についても予言できるはずである。我々は、幸か不幸かすべての物体の運動を知ることができないし、計算も実際にはコンピューターの能力不足で不可能である。しかしそれはただ我々が無知であり技術力が足らないからだけのことであり、我々や宇宙の運命はすでに宇宙の始め、初期条件が与えられた(神により?)時に快定されているのである。だから我々がそれを知らないだけのことである。もう我々は誰もこの運命から逃れることはできない。我々は方程式の解にそってただ生きていくしかないのである。これは機械的な決定論であり言い換えれば宿命論である。  この決定論に従えば、時間は神の手にあるシナリオに打たれているページ数にすぎない。すべての物体は人も星もいっせいに、このシナリオに忠実に時間どうり役を演じるしかないのである。 ととある人が書いているのですが、これに対してのみなさまの意見が知りたいです。 暇なときにでも書き込んでください。

  • 生理言語学=機械論 はアウトでは?

     バック氏への問い中に挙げました、「フレーム問題 ⇔ 醜いアヒルの子の定理(アヒル定理)。」 のくだり、及び、あれらの護教論書の内容を、良く良く御考量ください。また、アマゾン・レビューのページに挙げました、市川秀志らの著書への書評もです。いわゆる「唯物論」、従いまして、生理言語学は、完敗なのです。  有りもせぬ重力理論に頼ろうとする量子脳「理論」は空疎です。  残る寄る辺としての、量子コンピュータ「理論」もウソです。上記の書評を御高覧下さい。また、性質上、完全な「不確定性」が支配するとされている素粒子を用いた、ファジーな確率的計算(コンピューティング)で、クリスプな出力が算出される筈もないでしょう。  また、生理言語学のサポートのための理論なのでしょうけれども、「ビリヤード・モデル」も、たとえ「力のダイナミクス」を加味してあっても、ヘーゲルらの内容論理学で、「形式的機械論」ないし「形式的な機械的関係」として批判済みです。或いは、諸物質系の「内在的傾向」を、マルクスでさえ、ヘーゲルの「目的論的関係」の要請を充足するために学位論文に於いて前提せざるを得なかった、「物質系の自己意識」= 物質系および物質系の背後の精神 と見なすならば、別ですが。(かと言って、ヘーゲルやマルクス教徒の、万有矛盾弁証法的唯物論ないしは万有矛盾唯物弁証法ばかりは、御免ですが。)  金谷武洋『日本語に主語はいらない』(結論は強弁です。)の発見通り、受け身は、どの言語でも、主語のコントロール意志が及ばないことを表すらしいです。単なる、エネルギーの流れが、どうこうと言うのではなく。アンタゴニストの概念と良く合うみたいですが、それでも、アンタゴニストであるからには、意志の様なものを仮定しませんと・・・。弁証法的な対立物や矛盾エレメント(契機)では説明できないのですから。  なお、「でも、デカルト派の 自然学 = 物理学(ピュシス学、physics)に、そんな 心理物理学 = 深層物理学 なんて未だに無いでしょう。」と仰る向きには、数学者リーマンの企図したのがあります、と申し上げます。まだ 草創期・揺籃期のものかも知れませんが。  お求めに応じ、典拠の詳細は、追加して提示させて頂きます。