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西郷率いる東征軍(官軍)の人数。

Wiki「西郷隆盛」によれば、 西郷は、慶応4年2月14日、独断で先鋒軍を率いて先発し、2月28日には要衝箱根を占領したそうです。 先鋒軍は、一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心だそうです。 この先鋒軍はおおよそ何人くらいでしたか。 また、兵士たちは旅籠や民家に泊まったのですか。 費用は支払ったのですか。 食糧はどのように調達したのですか、教えてください。 よろしくお願いします。

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回答No.5

えっ!!当初の【Q西郷率いる東征軍(官軍)の人数。  この先鋒軍はおおよそ何人くらいでしたか】から 【「薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、 三番小隊隊長・篠原国幹らが中心」この精鋭部隊をなんとか突き止めたい】 とでは、根本は共通でも微妙に差異が有るため 回答者泣かせと感じるのは私だけでしょうか?(笑) 意地を張る訳ではありませんが(ネット限定の弱点はあるとはいえ)、 「復古外記 東海道戦記」など以外に人数明記の情報を見出せませんので (No.2投稿) 808人以内?(=34+244+464(以内?)+66人(以内?)) 「東海道先鋒はおおよそ七百~八百人程度」 薩摩藩限定ならば「464人(以内?)」に現状変更はありません。 特定に繋がるとは言い難いかもしれませんが、 傍証として下記などは如何でしょうか。 (1) 「…東海道先鋒總督橋本實梁に屬したものは 城下一・二・三番の三銃隊と一番砲隊右半隊で、…」 (2) <29/47>「小隊の編制は,…120から130人となる.」 <32/47>「慶応3年3月,久光上京に随従した藩兵城下一番から六番隊, 一番砲隊,… …城下一番隊の隊長は鈴木武五郎(のち病死),城下二番隊差引は村田と逸見, 城下三番隊の隊長は篠原国幹,…薩摩兵の本陣は東寺であり, 統括者は西郷隆盛,参謀は伊地知正治である.」 (1) 〇『鹿兒島縣史 第三卷/鹿兒島縣編/鹿兒島縣/昭和16.9.30』 「第三編 薩藩の國事鞅掌 第六章 戊辰出軍」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239976/320 <320-321/640>(477頁15行目-478頁9行目) 薩藩の諸隊は東海・東山両道の先鋒總督に附されて從軍した。東海道先鋒總督 橋本實梁に屬したものは城下一・二・三番の三銃隊と一番砲隊右半隊で、二月 十二日京都を發した。藩兵の總督は相良長發であつたが、西鄕は大總督府參謀 として事實上藩兵の指揮をも併せ行つたのである。…而して東海道軍の前隊た る城下一番隊以下は途中抵抗なく三月十一日(十二日とも)江戸に達し、 池上本門寺に陣營を定め、西鄕は高輪藩邸に入り、… (2) 〇「高島鞆之助/三崎一明」 『追手門経済論集 42巻(1号)/追手門学院大学/2007.9』(117-163頁) http://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON_102070907 【以下抜粋】 [29/47] 小隊の編制は,120人から,130人くらいであり,このうち戦兵(士分)は 80人くらいである.これに,小隊長,監軍,半隊長,分隊長等の幹部たちと 輜重兵その他を加えて120から130人となる. [30/47] その編制はつぎのようになっている.伍長は戦兵5人に1人,什長は戦兵10 人に1人,小頭は戦兵20人に1人であり,これを半手(20人)という. 半手ふたつを一手とする.一手は戦兵40人と幹部とで48人となる. 二手96人を一組とし,その隊長を物主という. 物主のしたに,談合役がいる. これをみると,監軍というのは,談合役に相当するようである. 戦兵以外に,貝役,太鼓役等がいるので,一組合計約120人 (これが後年の一小隊)となる. [32/47] ところで,藩主島津茂久が入京した慶応3(1867)年11月23日における薩摩藩の総兵力は,小銃隊24小隊,2砲隊の約3000人である. 内訳は,慶応3年3月,久光上京に随従した藩兵城下一番から六番隊, 一番砲隊,同年9月,島津忠鑑引率の兵,番兵一番,二番, 同年10 月島津久儔引率の兵,外城一番から四番隊,私領一番,二番隊で, すでに約1000人の薩摩兵が在京していた. これに藩主島津茂久引率の兵,城下七番から城下十二番,二番大砲隊を主力と する約2000人を加えて,3000人である. 城下一番隊の隊長は鈴木武五郎(のち病死),城下二番隊差引は村田と逸見, 城下三番隊の隊長は篠原国幹,四番隊の隊長は川村純義, 五番隊隊長が野津鎭雄,二番大砲隊差引が大山巌,川路利良は兵具方一番隊の 隊長である.薩摩兵の本陣は東寺であり, 統括者は西郷隆盛,参謀は伊地知正治である. 11月末において,長州藩家老毛利内匠ひきいる長州兵は1200人, 浅野茂勲ひきいる芸州兵は300人である. [35/47] 明治元(慶応4)年1月3日,伏見の兵力として, 薩摩の城下一番隊から四番隊,外城四番隊,一番砲隊の半隊,臼砲隊等と 長州の2中隊,土佐の2小隊が配置されている. [36/47] 同年2月6日,東海道先鋒総督兼鎮撫使,東山道先鋒総督兼鎮撫使,北陸道先 鋒総督兼鎮撫使と呼称を改め,同年2月9日,熾仁親王を東征大総督とする. 大総督府参謀,上参謀は正親町公菫,西四辻公業,下参謀は広沢真臣がなり, 総督府がすべての権限を握る.広沢真臣の辞退により, 同年2月14日,西郷隆盛,林通顕(玖十郎)が大総督府下参謀となる. [43/47] 鹿児島藩の常備隊の編成は,明治元(1868)年9月において,90人を1小隊 とし,6小隊が1大隊となっている.大隊は城下3大隊,諸郷12大隊で構成 されている.さきにみたように90人は,士分の兵士の数である. 1小隊の総員は,輜重兵その他を入れて120人として計算すると, 1大隊720人,3大隊であれば2,160人となる. その後,この編制が改められている.士分の兵士40人,押伍8人で1小隊と なる.8小隊が1大隊となる. 明治3(1870)年正月で,常備隊131小隊と3分隊,人員12,067人で ある.同年春には,常備隊17大隊と7小隊半,兵器方附士足軽常備1大隊, 予備20大隊と7小隊3分隊となっている. 1小隊約50人として,1大隊は400人である. 3大隊であれば,1,200人となる. あとは、上記(2)の引用・参照文献などが参考になるかもしれません。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 『鹿兒島縣史』を読むことができるのですね。大いに役立ちました。 図書館にある現代版に比べて物凄く内容豊富です。 薩摩藩のことですからこの『縣史』を正として考えました。 「薩藩の諸隊は東海・東山両道の先鋒總督に附されて從軍した。東海道先鋒總督橋本實梁に屬したものは城下一・二・三番の三銃隊と一番砲隊右半隊で、二月十二日京都を發した。藩兵の總督は相良長發であつたが、西鄕は大總督府參謀として事實上藩兵の指揮をも併せ行つたのである。」 先鋒總督は橋本實梁で、薩摩の城下一・二・三番の三銃隊と一番砲隊右半隊は、組織上は橋本實梁の支配下にあり、実際の藩兵の總督は相良長發だったのですね。 ややこしい! では、西郷はいつ、どこで先鋒隊の内の薩摩兵(多分その一部か)を従えて出発したのか、が疑問です。 いろんな資料を読んでも西郷の記事は極めて少なく、薩摩兵を指揮して進軍したという記事が見当たりません。 数少ない西郷の記事です。 1.『復古外記 東海道戰記』119/467(P197)記載の「有栖川宮家記」によれば、 「2月15日、西郷吉之助前々日進発。先鋒総督御陣ニ引続。」とあります。 2.『復古外記 東海道戰記 第五』(236頁)二月 毛利元徳家記に、 (前略)先日以来両度相願置候下参謀ノ事、西郷吉之助今以在所不相分、段々承合候処、駿府ニモ滞在不仕由、就テハ…。 一方橋本實梁の記事は多く、例えば、『復古外記 東海道戰記 第三』(182頁)東海道先鋒記 2月21日(多分11日の誤記)の条に 「10日、先鋒総督桑名に在り、まさに13日を以て軍を名古屋に進めんとす、因りて備前藩兵に令して先ず発せしめ、“薩摩”、紀伊、肥後、長門、土佐藩兵をして之に継かしむ。」 とあります。 『橋本實梁陣中日記』でも確認しましたが、13日桑名を出港し、同日名古屋に着いたことに間違いなしです。 結局、西郷の動静は、3月9日、駿府で山岡鉄舟と会談するまでの間、不明です。 西郷は、少数の従者を連れて臨機応変、自由に動き回ったのではないか、という結論に達しました。 すると、wiki「西郷隆盛」を根拠にした質問文の 「西郷は、慶応4年2月14日、独断で先鋒軍を率いて先発し、2月28日には要衝箱根を占領したそうです。」が怪しくなってきましたが、いつかこの疑問に再挑戦してみます。 さて、薩摩の城下一・二・三番の三銃隊の人数については、ご提示の、種々の資料によりよく分かりました。 ご教示に感謝申し上げます。

kouki-koureisya
質問者

補足

質問文が不適切でした。 申し訳ございません。 質問文は、 「西郷は、慶応4年2月14日、独断で先鋒軍を率いて先発し、2月28日には要衝箱根を占領したそうです。 先鋒軍は、一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心だそうです。 この先鋒軍はおおよそ何人くらいでしたか。」です。 私としては、「この先鋒軍」とは、「一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹ら」を指して、書いたつもりです。 しかし、タイトルを「西郷率いる東征軍(官軍)の人数」としたのが間違いでした。

その他の回答 (5)

回答No.6

私自身の早トチリにもかかわらず 責め立てて申し訳御座いませんm(_"_)m 隊名の揺らぎ、隊長名、日程など一部疑問点も残りますが、 「一番・二番・三番(銃)隊、一番砲隊右半隊」に関する追加情報です。 人数については、No.2投稿以上の情報は得られていない状況です。 なお、下記(3)には三番(銃)隊の東海道先鋒に関する情報がありませんが、 下記(4)の記述により補完ってところでしょうか。 〇『薩藩出軍戦状 第一/大塚武松編/日本史籍協會/1932.8.25』 (1)●「慶應出軍戰狀(本府)一」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717/13 <13-15/250>(3頁8行目-7頁6行目) 一番小隊戰狀 口上覺 去春伏見戰爭以來諸所に於て戰爭の形行…當隊は德川慶喜追討として東海道 先鋒被仰付同二月十二日京都致出軍同三月十一日江戸に致着陣候處… …右之通御坐候間此段申出候以上 巳(※明治二年)二月十二日 一番小隊              監軍 中村半次郎 河野史郎左衞門 (2)●「慶應出軍戰狀(本府)一」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717/18 <18-21/250>(12頁6行目-18頁13行目) ○ 一鎭撫使有栖川師宮關東下向に付隨從先鋒たり辰二月十二日京師發足東海道 通行して東京に赴き諸所滞陣等罷成同(※三月?)十三日目黑に著す… …            二番              隊長              監軍 (3)×「慶應出軍戰狀(本府)一」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717/21 <21-24/250>(21頁1行目-25頁8行目) 三番隊戰略 ※正月六日の次が閏四月三日で、その間の記述無し※ (4)●「慶應出軍戰狀(本府)三」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717/127 <127-130/250>(226頁1行目-233頁10行目) 一番大砲隊戰狀 一一番砲隊之儀は伏見鳥羽戰爭後大砲修覆等相濟辰正月十七日右半隊伏見出立 兵庫警衞として出張滞陣之央姫路城攻撃として出軍いたし候處最早開城相成候 付夫形兵庫ヘ曳揚警衞いたし居候然處辰二月朔日左半隊と交代右半隊は京都ヘ 曳揚居候處關東征伐被仰渡辰二月十一日一番砲隊之右半隊幷一番二番三番隊等 京都出軍東海道押行辰三月品川驛へ著陣夫より高輪御屋敷幷增上寺且姫路屋敷 等ヘ轉陣… …明治二年巳四月              一番大砲隊 以上

回答No.4

小ネタで再び失礼致します。 その後、ネット限定で宿駅毎の記録などを探してみましたが、 『浜松市史 ニ』「第六章 藩政の動揺と民衆の動向  第八節 徳川幕府の滅亡と浜松」428~429/686ページに、 「二十四日東征大総督有栖川宮熾仁親王を奉ずる西郷吉之助らの諸隊千五百名 が、吉田に着陣するや、」程度で、「西郷吉之助」とあるものの 日程上からは後発の尾張・紀州藩の軍勢と推測され、 結局「国立国会図書館デジタルコレクション」に逆戻り。 残念ながら個別具体的な事は一部しかわかりませんが、 親征軍の一時の集結地でもあった駿府周辺の当時の状況にあっては、 下記によれば、先鋒4藩にも「民家」が割り当てられてもおかしくなく、 駿府では西郷吉之助は商家に止宿していたようです。 〇『靜岡市史編纂資料 第四卷 明治維新當時の靜岡/靜岡市市史編纂課編/ 靜岡市/昭和2.12.15』 ●「第二章 德川家の處分 第一節 有栖川大總督宮駿府御滞陣」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176947/28 <28-29/154>(19頁7行目-20頁7行目) 止宿の準備 軍勢の止宿については上下共に大に苦慮した。人員は五千人以上 (野崎氏所藏古記錄)であるから到底市中だけでは入り切れないので近在の民家 までも割り當てられたのである。而して又之に要する夜具蒲團の準備にも一方 ならぬ苦心で、口頭では利目が薄いといふので態々御役所の廻状まで持ち廻つ たものであつた。… …二十五日からは先鋒を承つた薩州・長州・佐土原・大村諸藩の者は連日續々 と到着して市中及び近在へ宿泊した。 ●「第二章 德川家の處分 第五節 駿府における山岡鐵太郎西鄕吉之助の會見」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176947/47 <47/154>(56頁14行目-57頁13行目) 途中の光景 そこで鐵太郎は駿府に急行した。六郷河を渡ると既に官軍の先鋒 は此地にあつて銃卒は道の左右に堵列して居る。…隊長の宿營と思はるヽ家に 到り案内も乞はずして立入り、物色するに隊長らしい人[後に聞けば篠原國幹 なりと]が居たので。…此家に居合す人は凡百人許であつたが…直ちに其家を 出て橫濱の方へと急いだ。橫濱を經て神奈川驛に到ると長州の隊になつて、 兵士は旅營に入り、驛の前後に番兵を出し居る。… …かくて晝夜兼行。鐵太郎が駿府へ到着したのは三月九日であつた。直ちに 西鄕の止宿せる傳馬町の松崎源兵衞(當時合羽を販賣し家號を松崎屋といふ。 …)に到つて面謁を乞ふと。… (以上主として山岡鐵太郎手記による。慶喜公傳卷七、三九七頁) 参考URL 〇『德川慶喜公傳 七/澁澤榮一/龍門社/1918』 「附錄第三 文書記錄 明治元年春/ 八一〇 明治元年春東征總督府へ歎願に關する山岡鐵太郎の手記」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917834/212 <212-214/299>(397頁8行目-400頁14行目-) 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 『靜岡市史編纂資料 第四卷 明治維新當時の靜岡』は大変参考になりました。 当時の混乱した様子が目に浮かびます。 歴史の真っただ中に身を置いた気分になります。 駿府では多いときには官軍総勢5千人以上が市内21町に止宿したそうです。 東征大総督有栖川宮は30余日滞在しています。 その賄料640両余をなかなか支払ってもらえなかったが、交渉して全額(5月10日に半額、次いで残りも)支払ってもらったと35,36頁にあります。 駿府の場合、多額なので町衆も黙って引き下がることはできなかったのでしょうが、他の 宿営地ではどうでしょうか。 駿府城接収の成り行きもよく分かりました。 家康が築城し、形つくった、徳川の町である駿府を誰がどのように攻略し、城を接収したのか、大いに興味をもっていました。 尾張藩徳川慶勝が早々と朝廷側につき、2月8日には朝廷から駿・遠・三・尾及び美濃一部の触頭を命ぜられています。 慶勝の説得で駿府城代本多紀伊守元治は城明け渡しに応じています。 これで、西郷が独断で少人数の藩兵を率いて出発した理由が分かりました。 また、箱根まで易々と進軍できた理由もわかりました。 だから、先鋒軍となった一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らの活躍の場がなく、『復古外記』の東海道戦記を読んでも、彼らの記録が出てこないこと、漸くわかりました。

回答No.3

前投稿No.2の後段と一部重複しますが、 訂正[誤:<109/467>(174頁16行目)→正:<108/467>(174頁16行目)]を含め 改めてカキコミさせていただきます。 >兵士たちは旅籠や民家に泊まったのですか。 >費用は支払ったのですか。 >食糧はどのように調達したのですか、 ○『復古記 第九冊』「復古外記 東海道戰記 第二」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/107 <107/467>(172頁最終行-173頁1行目) 「七日、吉田、龜山、二藩ニ令シテ、東海道官軍ノ餽餉輜重ヲ管シ、 水口、長島以下十一藩ニ供帳傳遞ノ事ヲ掌ラシム。」 … http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/108 <108/467>(174頁16行目) …「一驛々通行之兵隊ヘ給候米穀ハ、其方角ニテ取計置可申、 跡ニテ朝廷ヨリ金穀共被下置候事、」… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/122 <122-123/467>(203頁11行目-204頁4行目)「復古外記 東海道戰記 第三」 今般、改テ關東進撃可爲先鋒之事。 島津忠寛家記、大村藩記、東海道先鋒記 ○ 大村藩 佐土原藩 長州藩 薩州藩 右四藩、明十七日、尾張宮驛發途、別紙休泊ノ通進撃、駿府ヘ相揃、 猶御指揮相待候様 總督府 副將御沙汰候事。 二月十六日 參謀 別紙休泊附左之通、 宮 出足 鳴海…晝 池鯉鮒…泊 岡崎…晝 藤川…泊 御油…晝 吉田…泊 白須賀…晝 舞阪…泊 晝?立場? 濱松…泊 見附…晝 袋井…泊 掛川…晝 日坂…泊 島田…晝 藤枝…泊 鞠子 晝 府中…泊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/129 <129/467>(216頁2-11行目)「復古外記 東海道戰記 第四」 ○ 府中ヨリ蒲原迄  駿府中代官 田上寛藏   久能交代旗本 榊原越中守 蒲原ヨリ三島迄  駿沼津  水野出羽守 三島ヨリ藤澤迄  相小田原 大久保加賀守  同山中    大久保長門守 藤澤ヨリ神奈川迄 武金澤  米倉丹後守 神奈川ヨリ品川迄 豆韮山  江川太郎左衞門 右、今般御親征ニ付、驛々官軍通行ノ節、兵食取計、宿々警衞、人馬繼立、 世話向被仰付候旨、總督府御沙汰候事。 但、 一晝飯壹人分 錢百文 米二合ノ賦  一泊壹人分 金壹朱 米四合ノ見賦 一金穀返濟ノ儀ハ、駿府ニヲイテ可達候間、彼地ヘ家臣壹兩人差出  御差圖相待候様 御沙汰候事。 辰二月 木梨精一郎 海江田武次  東海道先鋒記 上記から、個別具体的な事までは定かではありませんが、 先鋒4藩の休・泊場所予定地を見る限り概ね宿駅ゆえ また仮に七百~八百人程度としても大名行列規模でもあるため (決して寺院や民家の可能性を否定するわけではありませんが、) 旅籠利用の可能性が高いように思います。 食糧等他については、兵食、宿々警衛、人馬継立などの一切、 ドミノ倒しの如く朝廷・新政府軍に恭順を示していった通行域の各藩、 旧代官・旗本などが総督府からの令に従い取り仕切った様子が伺えます。 費用についての基本スタンスは「後払い」で、 一応、一人分毎の金額が定められいたようです。 また他の親征軍にも適用されたかは定かではありませんが、 東山道親征軍については三月に至って「宿々難渋」を理由に増額 されたりもしています。 ただ、果たして「後払い」が実際に履行されたのかは疑問も残ります。 例えば下記の如きは「後払い」の履行の原資にも充当されたのか、 あるいは相殺でチャラにしたのか… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/135 <135/467>(228頁16・17行-)「復古外記 東海道戰記 第四」 ○是ヨリ先、先鋒總督、吉田藩ニ令シ、德川氏、駿、遠間ニ儲蓄スル所ノ錢穀 ヲ以テ、驛遞軍糧ノ用ニ充テシム、是日、本藩、其現額ヲ開申ス。… ほか参考URL ○大村市>教育・文化・スポーツ>市史>「新編大村市史」>  第四巻(近代編)>第1章 維新政権の成立と大村藩 https://www.city.omura.nagasaki.jp/bunka/kyoiku/shishi/omurashishi/dai4kan/data.html 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 宿舎とその費用支払いについておおよそのことが分かりました。 費用は跡払いということですが、では実際に後日支払ったのか気になります。 『復古外記』の2月15日以後の記事を読んでみたのですが、出てきません。 支払う予定については金額まで詳しく書いてあるのに、支払ったという記事は今のところ見付けだしてはいません。 『復古外記』は、新政府もやや落ち着いてきたので、国史の編纂でもしておこうと、太政官が全国の旧大名家に資料を提出させて、編纂したものだそうです。 それなら、当家は支払ったという資料を提出したのではないかと思いましたが、寄せ集めの軍でしたから、支払いの責任者がいたのかどうか疑問ですね。 しかし、3月の記事では、何人かの旗本が積極的に兵糧の献上を総督府に申し出ていることを知りました。(164,170,178ページ)

回答No.2

>先鋒軍はおおよそ何人くらいでしたか。 大村藩主大村純熈の事蹟を記した ○『臺山公事蹟/山路彌吉編/田川誠作/大正9.2.28』によれば、 <223-224/372>(409-410頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960719/224 東海道における新政府(親征)軍は、 「[総督]橋本實梁/[副使(副総督)]柳原前光/ [討手藩]薩摩、長州、大村、佐土原、尾張、紀伊、岡山、津、大洲、熊本」 (但し、薩摩、長州、大村、佐土原の4藩は東海・東山両道兼)の10藩編制。 <224-225/372>(411-412頁)によれば、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960719/225 そのうち東海道の先鋒を担当したのは「薩摩、長州、大村、佐土原」の4藩。 大村藩に限れば「淵山規矩藏・砲隊長、中村平八・砲隊軍監、砲士七人、銃士 十三人、大砲二門」の22人と「江戸在勤馬廻土屋善衞門等以下十三人下藩の 途、我が隊に加はり獨り留守居浦小齋治江戸の顚末を報ぜんが爲め急行藩地に 下る」から?12(=13-1)人?とで大村藩「34(=22+12)人」。 次に官撰の○『復古記 第九冊/太政官編/内外書籍/昭和4.7.19』 「復古外記 東海道戰記 第一 (自明治元年正月五日至同廿六日)」によれば、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/88 <88/467>(134-135頁) 大村・佐土原両藩に関し、東海道・東山道両先鋒の前段階ではありますが、 「○東海道先鋒記ニ云、正月十六日、明後十八日大津驛御出陣、桑城御進撃ニ 付諸藩ヘ布告如左。 …先鋒 大村 五十七人…佐土原 六十六人…」と記されておりますが、 『臺山公事蹟』の記述、大村藩当初22人に基づけば、 両藩ともに東海道・東山道両先鋒に振分けられる以前の人数とも考えられます。 続いて「復古外記 東海道戰記 第二 (自明治元年正月二十七日至同二月八日)」によれば、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/105 <105/467>(168頁) 右、今般 御親征ニ付、其藩東海道出兵被仰付候間、國力相應之人數差出、 總督府之指揮ヲ受可申候事。  二月七日 大久保忠良以下各家家記  ○八日薩摩藩上申書節略   一銃隊三百拾三人 一砲五挺 一右司砲手三拾六人 一小荷駄付役人拾五人   一陪卒土工夫百人位 一以上四百六拾四人   外ニ   一持夫百人位 一小荷駄馬四拾匹   右、二行中途驛々雇人馬 島津忠義家記  ○同日長門藩上申書   覺、   一銃隊百八拾人 一司令八人 一輜重掛其外役付八人 一夫方之者四拾八人    以上貳百四拾四人 右、今般 御親征ニ付、東海道先鋒トシテ差出候分、前書ノ通御座候、以上。   ○輦下日載 上記から「薩摩藩464人、長州藩244人」となりますが、 長門(長州)藩では「東海道先鋒トシテ差出候分」と記しているのに対し、 薩摩藩では先鋒か否か不明確のため一応「464人(以内?)」。 なお、先鋒4藩以外の尾張藩614人(徳川義宜家記)・ 熊本藩616人(細川護久家記)・岡山藩570人(岡山藩記)等でも 「今般東海道爲先鋒出張」と記されていたりもします。 以上『臺山公事蹟』『復古記 第九冊』から拾い集めた東海道先鋒の人数は、 大村藩34人、長州藩244人、薩摩藩464人(以内?)、 あと残念ながら佐土原藩は振分以前か否か定かでないため「66人(以内?)」、 結果808人以内?(=34+244+464(以内?)+66人(以内?)) よって東海道先鋒はおおよそ七百~八百人程度と見積もってみました。 因みに、 ○『新聞集成明治編年史 第一卷/新聞集成明治編年史編纂会編/ 林泉社/昭和11.10.25』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/37 <37/295>(13頁2-4段目)「中外新聞第一号 慶應四年二月廿四日」によれば、 「西洋三月七日我二月十四日の横濱出板新聞紙より抄出す」の記事中には 「…或は十四五日以前、薩摩人七百人急に京都を出立すと云ふ。…」 の記述があったりもします。 >兵士たちは旅籠や民家に泊まったのですか。 >費用は支払ったのですか。 >食糧はどのように調達したのですか、 ○『復古記 第九冊』「復古外記 東海道戰記 第二」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/107 <107/467>(172頁最終行-173頁1行目) 「七日、吉田、龜山、二藩ニ令シテ、東海道官軍ノ餽餉輜重ヲ管シ、 水口、長島以下十一藩ニ供帳傳遞ノ事ヲ掌ラシム。」 … http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148387/108 <109/467>(174頁16行目) …「一驛々通行之兵隊ヘ給候米穀ハ、其方角ニテ取計置可申、 跡ニテ朝廷ヨリ金穀共被下置候事、」… あっ!! 10ヶ月ぶりの投稿で時間配分と途中メモ(コピペ)も忘れ、 一度読んだ記事を何で見たか?で悪戦苦闘中。 中途半端で真に失礼ながら本日はこれにて退場します。 次回投稿、何時になるか未定ですm(_"_)m

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 難渋しています。 Wikiを全面的に信じているわけではないですが、wiki「西郷隆盛」には、 「西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した」 とあります。 独断で先鋒軍を率いて先発しています。 なぜ独断で先発したのか、疑問に思ったのですが、質問では先鋒隊の人数と宿舎を聞きました。 「復古外記 東海道戰記」では実に簡素に書いています。 119/467(P197) 二月十五日 西郷吉之助前々日進発。先鋒総督御陣ニ引続。 そこで、13日、14日の記事を調べましたが西郷の記事はありません。 12日に次の記事が出てきます。 113/467(P184)二月十二日 西郷隆盛を大総督府参謀に。 どうやら独断で進発したようです。 図書館で調べてみましたが、まったく手がかりなしです。 Wikiのこの記事は、情報源が不明ですから間違っている可能性もありますが、 「薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らが中心」 明記されているので、捨てがたい魅力です。 最も信頼できる薩摩軍の、それも精鋭のみを率いて独断で出発したと想像しています。 この精鋭部隊をなんとか突き止めたいと思っています。

kouki-koureisya
質問者

補足

詳細なご回答真にありがとうございます。 熟読して纏めたいと思っています。 『臺山公事蹟/山路彌吉編/田川誠作/大正9.2.28』には、西郷の名がほとんど出てこないですね。 西郷に従った、一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、三番小隊隊長・篠原国幹らも出てきません。 出てきても東征には無関係な事柄に、西郷吉之助の名前だけで、何をしたという実績は無視されているようです。 やはり、西郷は大正時代には逆賊扱いだったのかと思うと、大変興味深いです。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3046)
回答No.1

私詳しく知らないのですが、先発軍ってそれだけですか? 薩摩が幕末に英式小隊を養成してたのは有名で、その3小隊でしょうね。 一小隊はおそらく50人くらい、全員かどうかわかりませんがエンフィールド銃(元込め式単発ライフル)で武装した精鋭です。 当時の習慣として基本的に宿営には大きな寺を利用しますが、東海道東征は地元有力者に歓迎されたとの話ですから、民家に泊まる事も多かったとおもいます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おおよその様子を知ることができました。 宿営は、基本的にお寺を利用していたのですね。なるほど! 薩摩が幕末、英式小隊を養成していたこと、知りませんでした。 これをヒントに調べてみます。

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