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薩摩の守?大隅の守
先日の大河ドラマで、斉彬・久光の父である島津斉興公に従三位就任を伝える書類に、大隅の守と宛名されてました。 ひょっとして大隅が中国で薩摩が小国かとも思い増したが、延喜式では両方中国でした。 通常居城の位置を指し薩摩藩と呼ばれるのだから薩摩侯と呼ばれても大隅侯とは呼ばれないとおもいます。この宛名の書き方はなぜ薩摩ではなく大隅の守なのでしょうか?何か複数の国を束ねる国主の場合呼び方があるのでしょうか?
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- kitsunetoneko
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こんにちは m(__)m No.3の回答者です..追加です..例えば,長州藩などは,毛利大膳大夫(太夫か)とか,長門大膳太夫,毛利侍従,長門侍従などと呼ばれることが多かったとかですし,幕末期の長州藩主(お殿様)は,毛利大膳太夫(大夫)敬(慶)親とかと言われますし,だいたい,長州藩では,藩主の大膳大夫(太夫)の呼び名などは,世襲制だったようで,同じように,薩摩藩主の,薩摩守や修理太夫(大夫)などの呼び名は,薩摩藩の専売特許?,独占的な名乗りだったようです..土佐藩主の場合は,藩主は,ずっと土佐守だったと思いますが,いわゆる,受領名や通称は,独占的なものから,個人の好みで付けるもの,大岡越前守(江戸町奉行),酒井うたの守(漢字忘れましたm(__)m)のように,ある意味,職業的に,世襲のようなものから,幕閣や,公家などの偉いさんと被る場合は,他の大名家は,避けて,変えるパターンなどなど,形骸化していた,いわゆる,武家官位の名乗りである,受領名や,通称などには,いくつかのパターンがあったようです..ちなみに,島津斉興氏は,隠居後,従三位の位を賜ったそうですが,自身の祖父へのコンプレックスなどから,位階には,こだわっていたそうですよ‥‥
- あずき なな(@azuki-7)
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ん? 中国? 島津は日本ですよ? 中国の官位と日本の官位では位階が違いますが…
- 川原 文月(@bungetsu)
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bungetsuです。 >>歴然たる国持大名にはあまり関係ないでしょう。 なるほど、仰せの通りかもしれませんね。 しかし、前回も述べたように、「上国」と「下国」があり、東日本は非常に「下国」と考えられており、いわゆる「西高東低」です。 従って、例えば「〇〇会津守」などと名乗る人はいませんよね。 名乗るんだったら、なるべく「上国」の「守名乗り」をしたかったのです。 江戸時代では、それが「肩書き」のようなものでしたから。 「見栄」もあったんでしょうねぇ。 後に「申告制」とは言え。余りにも「小国」の大名などが「とんでもない一等地」の「守名乗り」は許可がおりなかったと思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 うーん許可が下りる降りない以前に一国丸ごと知行してる大名がほんの10家程度、国主大名はそのこと自信に誇りを持ってますのでおかしな守名乗りしたくもないでしょう。 小国で国主となると一番典型なのは国主格席次を与えられなかったものの小国対馬の守が一番当てはまるでしょうが。それでも宗氏歴代は対馬の守を名乗れることに誇りを感じていたと思います。
- あずき なな(@azuki-7)
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薩摩守と大隅守なら薩摩守のほうが格が上です 薩摩守は従五位下 大隅守は従六位上 別に住んでる国=そこの官位がもらえるわけでもありません 例えば 羽柴秀吉は筑前守と呼ばれてましたが 彼が筑前の領主になった事はありません
お礼
ご回答ありがとうございます。 それっていつの時代の官位ですか? http://www.geocities.jp/kanseitaikan/page020.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E4%BD%8D%E7%9B%B8%E5%BD%93%E5%88%B6 軽くぐぐった感じではこのあたりが出てくるのですが、中国の守はともに正六位下だとおもうのですが。
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
こんにちは。 まずは、最近の研究で、「薩摩藩」とか「長州藩」などと「藩}呼ばれるようになったのは、明治に入ってからだ・・・と言う研究発表もなされているようです。 では、実際は何と呼ばれていたのか。 例えば、薩摩藩などについては、「大隅の領主」。 従って、「大隅公」または「大隅守」と呼ばれたと言われています。 その他では「長州地方領主」、「〇〇地方の守護」「〇〇守」などと呼ばれていた。・・・と言うものです。 まあ、それはさておき、あなたへの回答ですが、次が参考になるかも知れませんね。 ★播磨守を名乗る大名がが7人もいた? 武士の官名については、家康が「公武諸法度」の中で「武家の補佐は当官の外(ほか)たるべし」と定めた。つまり、「武家の官位は名義だけのもの」といっている。したがって、美濃守が伊勢の大名であったり、伊勢守が豊前の大名であったりした。播磨守などは7人もいたという。これは、上等な国なので栄誉のために与えたものである。江戸時代中期になると、3,000石以上の大名等が「守」名乗りができ、希望の国名を上申しておけばたいがいの場合許された。ただ、朝廷の官位とは何の関係もなかった。 (余談) 「大岡越前守」で有名な大岡忠相は1,700石の旗本でしたが、江戸町奉行に抜擢されてから「〇〇守」を名乗る資格を得ました。 なぜならば、江戸町奉行は3,000石だったからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ただ旗本や小身大名が栄誉のために大国上国の守を名乗ることはあっても、歴然たる国持大名にはあまり関係ないでしょう。
- ithi
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jkpawapuroさん、加賀藩の場合は。 加賀守以外は隠居ですが、肥前守、筑前守、能登守なんかが候補に挙がります。越中の分家の領地なんでちょっと条件が違います。 加賀藩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9
お礼
ああ越中は支藩がありましたね。 能登の守ですかなるほど。 再度のご回答ありがとうございました。
- kitsunetoneko
- ベストアンサー率27% (66/243)
少し Web上で調べますと,大隅守の方が,薩摩守より,若干,扱いが,上なのかもしれませんが,松平重勝氏など,徳川家康氏の徳川氏ゆかりの人物などにも,大隅守という,多分,受領名を持つ方が,いらっしゃいますし,薩摩藩主;島津斉興氏も,隠居前は,松平大隅守斉興という肩書きなどが有り,位階も,従三位の直前のような位だったようです..『翔ぶが如く』という以前のドラマでは,今回の,『西郷どん』のように,武士達が,相手を,諱中心で,呼ぶのでは無く,老中;阿部正弘氏には,伊勢守殿,薩摩藩世嗣の島津斉彬氏には,修理太夫殿などと,相手を,受領名などで,呼んでいたようです..島津久光氏は,三郎か‥‥薩摩藩主(侯)のことも,資料的には,薩州,土佐藩主(侯)のことは,土州などと呼んでいたようです..○○守などの名前は,いわゆる,受領名などなので,島津氏が,大隅守(大隅半島から)などでも,おかしくは,ないのかもしれません..
お礼
なるほど調べてみたら初代藩主、5代藩主、斉興、少なくとも3人が大隅の守を名乗ってますね。 そもそも斉興候は大隅の守なんですね、ただの気まぐれで大隅守を選ぶ藩主もいたということでしょうか? ご回答ありがとうございました。
- hue2011
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この意図は、幕府にとっては斉興を引退させたいのです。 だから茶壷を与え、やめろやめろ、と暗に自主退職をほのめかせて肩たたきをしたわけです。 しかし、当人はいやだといっているから、少々エサをやらないといけない。 当人は官位がほしいといっている。 天皇家に伺いをたてる必要があるが、それをやるなら有効な号をもらえばいい。 で、島津家代々、リタイアした当主が名乗ってきた大隈守と言う名前で従三位をあたえよう。そうしたら、それを受けた段階で、自然に当主ではなくなるからです。 で、せがれが引退を迫るためにロシアン・ルーレットみたいなことをやって極端な緊張に父を追い込んだ上、その引退称号を提示したのです。 あのロシアン・ルーレット、本当にやったかどうかは知りません。 だけど、引退の駆け引きにその大隈守がつかわれたのは十分納得がいきます。
お礼
ご回答ありがとうございます、大隅守は隠居薩摩侯に対する宛名なんですね。 となると隠居加賀候は越中守でしょうか?
- ithi
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jkpawapuroさん、おはようございます。 江戸時代中期以降、薩摩守が現当主です。大体大隅守は隠居の称号なのでしょう。 薩摩藩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9
お礼
ご回答ありがとうございます、大隅守は隠居薩摩侯に対する宛名なんですね。 となると隠居加賀候は越中守でしょうか?
お礼
日本の旧国は大国上国中国小国のランクが定められていて、そのランクと役職の位階が連動しています。