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薩摩藩が第14代徳川将軍に慶喜を推した理由

 薩摩藩の島津斉彬等が、 第14代徳川将軍に慶喜を推した理由は何だったのでしょうか? よろしくお願いします。

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回答No.3

こんにちは。 NO2.です。 >>慶喜が、なぜ「筋目」を理由に推挙されるのかがわかりません。 当時は、外国船も数々「浦賀」「下田」などに姿を見せ、開国を迫って難しい時代でした。 そこで、開国をする、しない、は別として、「尊王」を貫くためには、「朝廷」や「公家」との結びつきは、どうしても「必要」であった。 慶喜の母、つまりは、水戸斉昭の正室は有栖川宮織仁親王の九女(吉子女王=よしこじょおう)であり、「労せずして」朝廷との結びつきができるためだったと思われます。 そこへいくと、慶福(家茂)は、先にも述べましたように、血筋としては「濃い」けれども、父は紀伊藩主徳川斉順、母は紀伊藩士松平晋の娘(みさの方)で、朝廷や公家との関わりが全くなかった。 島津斉彬も老中安部正弘から登用を受けて、幕政に大いに「物申す」立場でしたが、ペリー艦隊が来航以来、この難局を打破するためには「公武合体」しかない、と、交流のあった四賢侯などと共に早くから唱えていました。 さらに、NO1.の方が言われたように、慶喜は年齢も家茂より9歳年上。 また、会沢正志斎(あいざわせいしさい)という、天保11年(1840年)に(水戸)弘道館の初代教授頭取に任じられ水戸学発展に貢献した人物から教育を受け、慶喜の英才振りは父斉昭も認めており、水戸藩を継いだ長男慶篤の控えとして、水戸に残しておきたい、と言わせたほどでした。しかし、弘化4年(1847)8月1日に、幕府より一橋家の世嗣とする、との決定が下され、9月1日に一橋家を相続することとなりました。 従って、「年齢」「英知」「家柄」、この3点セットが慶喜擁立のバックボーンと考えられます。

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  • jkpawapuro
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回答No.5

四賢候会議は京で開かれたわけですよね。 当時外交問題を動かすには勅許が決め手であり、四賢候会議も外交問題が大きな議題ですから朝廷工作能力がものをいうわけです。 四賢候会議で決めたことは朝廷工作を経て実行に移すわけですから、水戸家出身で思想的にも母が公家という血筋的にも、天皇に逆らえない慶喜が斉彬らの構想に都合が良かった面もあると思います。

  • DieMeute
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回答No.4

NO.1です。補足の質問があったようなので・・・ 慶喜が将軍になった後の薩摩の反応と言うと、倒幕に動いた事を指しているのでしょうか?あの時代は色々と動きがあるので質問事項は明確にしていただかないと、回答する方も困惑します。 とりあえず・・・ 薩摩藩が14代将軍に慶喜を推した時と、慶喜が15代将軍に就いた頃とでは、9年もの年月が経ち、その間に状況が大きく変わっています。 既に薩摩藩は斉彬は亡くなり、久光の時代です。 そして政策について久光と慶喜は対立しました。 慶喜が将軍後見職に就いていた頃の1963年の参預会議では、攘夷・再鎖国の議題、特に横浜鎖港問題で、慶喜と久光は激しく対立し、参預会議自体が崩壊します。1967年の四候会議でも慶喜と久光は長州問題、兵庫開港問題で対立します。 これには政治の主導権を握ろうとする幕府と薩摩藩の対立という面もありました。こうした対立の結果、久光は幕府に見切りをつけ、長州と手を組み討幕に動きます。 薩摩も最初から討幕に動いていたのではありません。幕府と共に長州と戦った時もあります。 慶喜を14代将軍に薩摩が推した頃は、別に慶喜と薩摩藩との間に対立はありませんでした。 しかし、慶喜が将軍後見職にあった時や、その後、将軍となった時には、薩摩藩とは政策・利害が対立しました。 篤姫についてですが、これは篤姫が慶喜を嫌っていた事についてでしょうか? 篤姫が慶喜を嫌っていたのは、慶喜の父の女性に対する悪評を知って元々慶喜に対しあまり良い感情を抱いていなかったところに、慶喜自身の女性を軽視する発言が篤姫の耳に入り、嫌ったという話があります。篤姫は明治の時代になってからも慶喜を嫌っていたそうなので、政治とは関係のないところで嫌っていた部分があったのかもしれません。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 NO1.の方の理由は「ごもっとも」です。 もう一つの理由。 ☆11代将軍家斉は、一橋治斉(はるさだ、または、はるなり)の四男であり、12代家慶、13代家定と続いているため、慶福(14代家茂)は、確かに、家定の従兄弟で、血は濃いのですが、筋目を追って、再び、一橋家から出す、と言う動きがありました。 ☆12代家慶の老中安部正弘にも重用された薩摩藩の島津斉彬は、正室に一橋家徳川斉敦(なりあつ)の娘(恒姫=つねひめ)を迎えており、水戸藩とも親戚関係であったため、島津斉彬は、水戸出身の一橋慶喜を押していた。 また、同じく、安部正弘に重用され、島津斉彬とともに「四賢侯(しけんこう)」と呼ばれた福井藩14代松平慶永(春嶽)や宇和島藩8代伊達宗城、土佐藩14代山内豊信(容堂)らも、「筋目」を主張しての「一橋派」であった。 (よもやま話) (1)13代将軍家定の重臣、老中安部正弘が米国の総領事ハリスと通商条約締結に向けての話し合いをしていた最中の安政4年(1857)6月17日39歳の若さで急死をしてしまいました。その後の幕政を引き継いだのが、大老井伊直弼でした。 (2)井伊直弼は、自ら「諸外国とうまくやっていける」と、将軍家定に直訴をし、安政5年(1858)4月23日に「大老」に就任しました。 (3)井伊は就任早々の5月1日には、家定に次期将軍を紀伊家徳川慶福(14代家茂)とすることを承認させました。 (4)この背景には、大奥も大いに関わっていました。一橋慶喜は水戸の出身で、英才であると同時に「倹約家」でもあり、慶喜が将軍になると、大奥の「粛清」が図られる、と、極端に言えば、家定の正室「篤姫」以外が総反対をしていました。従って、実権無き将軍家定よりも大奥を敵に回すことは、自らの「保身」には替えられない、との思いもありました。 (5)井伊直弼自身は「尊王派」で、安部正弘から引き継いだ米国との交渉を慎重に進めていましたが、6月16日、ロシア軍艦アスコルド号が下田に入港したのを受けて、米国との交渉担当であった岩瀬忠震(いわせただなり)と井上清直(いのうえきよなお)は、米国の、 「時間はきわめて切迫している。我々と手を結べば、日本と友好的に行動することを誓約する」 との説得で、直ちに、老中堀田正睦(ほったまさよし)や松平忠固(まつだいらただかた)らが夜を徹して話し合い、二人は「即時条約断行論」を唱えたため、井伊は、とりあえず、調印の延期ができるかを打診せよ、と、岩瀬と井上をポーハタン号に6月19日に送りました。 ところが、二人は井伊の命に反して「調印」をしてしまいました。 (6)井伊は、しかたなく、6月22日、江戸在中の諸大名を登城させ、条約調印を発表しました。それと同時に、即時調印断行を唱えた堀田と松平の2人を老中から解任し、井伊と対立する一橋派の攻撃の矛先を交わそうとしました。 (7)一橋派は、これに対して、翌23日、登城し、 「同じ尊王論者であるのに、なぜ、調印を許したのか」 と、責任の追及をしました。 (8)この事件は「一斉不時登城」と呼ばれ、登城日でないのにかかわらず登城しました。しかし、この時登城したのは、水戸斉昭・慶篤親子や尾張慶恕、松平慶永(春嶽)らで、井伊よりも家格が上位であったため、井伊はひたすら平身低頭する以外に道はなかった。 勢いに乗った一橋派は、24日にも不時登城をし、井伊を吊るし上げようとしましたが、井伊は、 「将軍後嗣に、朝廷の承認が降りて、紀伊慶福が正式に決まった」 と、切り出し、一橋派の出鼻をくじきました。 (9)そして、怒り心頭に達した井伊は、7月5日、水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)」、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜と水戸慶篤には「登城停止」を将軍家定の名で命じました。 これが世に言う「安政の大獄」で、尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)ら、連座した者は100人以上にのぼった、と言われている事件です。この時、吉田松陰や頼山陽、橋本左内らも投獄、処刑された。 (10)さらには、7月6日に家定が死亡したことを隠したまま、7月8日には、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ、五カ国との「修好通商条約」を締結。 家定の死は8月8日に発表され、即日、14代家茂が将軍となった。 (11)薩摩藩では水戸と手を組んでの「井伊を討つべし」との機運が高まったが、斉彬は安政5年(1858)7月16日に亡くなって、跡を継いだ弟(久光)の子忠義は、実権は久光が握っており、井伊暗殺には乗り気ではなかったため、薩摩藩からは、脱藩浪士の有村次左衛門ただ一人が加わって、水戸藩17名とともに、万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」で井伊直弼を暗殺しました。 (12)なお、3月3日は「礼式日」と言って、江戸在中の全ての大名の登城日でした。「礼式日」とは、 「元旦」 元旦・・・これはもちろん、正月1日。 「五節句」 人日(じんじつ)・・・正月7日(七草粥の日)。 上巳(じょうし)・・・3月3日(現在の雛祭り)。 端午(たんご)・・・・5月5日(端午の節句)。 七夕(たなばた)・・・7月7日。 重陽(ちょうよう)・・9月9日(五節句の一つ)。 「八朔」 八朔(はっさく)・・・8月1日(この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦とならぶ重要な日)。

cambodian
質問者

補足

 非常に勉強になりました。 ありがとうございます。 > 正室に一橋家徳川斉敦(なりあつ)の娘(恒姫=つねひめ)を迎えており、水戸藩とも親戚関係であったため、島津斉彬は、水戸出身の一橋慶喜を押していた。  これは非常にわかりやすい理由です。  また、井伊直弼が独断で修好条約を調印したと思っていましたが、 その背景には部下の行きすぎた行動があったとは、知りませんでした。  一点だけわからないのですが、 慶喜が、なぜ「筋目」を理由に推挙されるのかがわかりません。 よろしくお願いします。

  • DieMeute
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回答No.1

血筋よりも年齢と才能を重視したからです。 慶喜を将軍に推す一橋派を結成する動きを最初にしたのは松平慶永です。 当時は、黒船来航により国内が大きく揺れ動いていました。そのような時、人心をまとめ国を導いていくのに、家茂は血筋的には一番よくてもまだ幼く、将軍として国難に対処していくのは無理だと慶永は考え、慶喜を次期将軍にと考えます。 慶喜は血筋こそ家茂に一歩譲りますが、年齢は9歳上でしかも少年の頃より俊才の誉れ高く英明で人望がありました。 そこで慶永は島津斉彬や伊達宗城や他の大名に自らの考えを手紙で伝え慶喜を次期将軍にする為に賛同し協力してくれるよう頼みます。 こうした慶永の主張に島津斉彬は賛同し慶喜を推しました。 くだけて言えば、国が揺れている時に子供の将軍では問題だろうという事です。 しかし、結局は血筋を重視する南紀派が勝ち家茂が将軍になります。この時、家茂の年齢は13歳でした。慶喜は21歳でした。

cambodian
質問者

補足

 なるほど、明快なご回答、ありがとうございます。 しかし、そうなりますと、 最終的に第15代将軍に慶喜がなった際の薩摩藩(や大奥の天璋院)の反応は、どう考えたらよろしいのでしょうか? よろしくお願いします。

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