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太平洋戦争中の各海兵団教員
日本海軍の各鎮守府や警備府には海兵団がありました。そこには、教員として配属された士官や下士官がいたのですが、どういった方が配属されていたのでしょうか?第一線では使いものにならないような人が配属される、閑職だったのでしょうか?
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これは同期の第一線の人と教員を何組か知っていて初めて答えられるご質問ですから、そういった大所高所の経験のない僕なりの極めて狭い経験が元です。 一般の市民を大日本帝国海軍軍人に変換する仕事ですから、教員の仕事は重く、無能者では務まらないものでした。 僕は肩書きに「飛行」の二字がありましたが、やはり手旗信号や漕艇練習など海軍の基礎的新兵教育を受けました。 教員は、体罰にしても(俗称バッタ、正式には「海軍精神注入棒」略して「直心棒」)隊員には一回でも、百人いれば100回、走るにも率先して模範を示したので、優れた「体力」が必要でした。 教えるのは教科内容だけでなく、備品が足りなければ他隊から「調達」してでも揃え、足りない時は共同責任で全員罰を受ける、という特殊な決まりを教え込む「知力」が必要でした。 また月月火水木金金(下記)は隊員だけでなく、寝食を共にする教員にも及び、起床ラッパから消灯ラッパまででなく24時間勤務ですから、人並みの「忍耐力」では務まらない仕事でした。 https://www.youtube.com/watch?v=fFJYSHnMM6Q そこでご質問ですが 1。どういった方が配属されていたのでしょうか? 以上のような、体力、知力、忍耐力を持った人たちが配属されたと思います。 2。第一線では使いものにならないような人が配属される、閑職だったのでしょうか? そうではないと思います。
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- jkpawapuro
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准士官(曹長)ではなく、仕官・下士官ですか? 走り込みをしごくような教官ではなく、それこそ黒板の前で座学の教官をするような立場ですか? それでしたら海軍機関学校等の仕官学校を卒業して乗艦勤務→陸上勤務→乗艦勤務→海兵団教官→乗艦勤務といったような通常のローテーションの一貫で、特別な左遷でもなければ栄職でもないと思いますよ。海軍士官といっても船乗りっぱなしではないですので。 特に出世していく士官は兵学校卒業→乗艦勤務→術科学校→乗艦勤務→海軍大学校乙→士官学校教官→乗艦勤務→海軍大学校甲・・・って感じで出世してきます。
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遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。
- ithi
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takepan_toki さん、こんにちは。 水兵さんたちの初級教育を請け負う海兵団ですからね。小説家の池波が結構絞られたみたいですよ。その頃は横須賀でも大変無頼漢の下士官がいたらしいから、 そんな感じに取られても仕方がないのかもしれませんが、平時の場合はそんなことはなかったと思います。海軍の場合、徴兵よりも志願兵の方が多かったけど、戦争が後半になってくると徴兵の方が多くなった。 海兵団 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%85%B5%E5%9B%A3
お礼
遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。
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