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芸術の功罪はどんな様相なのでしょうか。

特に社会としての経済的な面で気になるのですが、 芸術は病んでいる人の心に希望を灯す生きる支えになったり、 心の闇を吐き出させ実際の犯罪を招く衝動を軽減させたり、 色々な恩恵もある様に見えますが、 芸術に惹かれ目指しそれなりに酷い人生を送る人や 巻き込まれて苦労する家族なども生じさせています。 社会として芸術はどんな存在なのでしょうか?

noname#228046
noname#228046

みんなの回答

回答No.1

「芸術」という言葉は非常に広い範囲で使われる言葉です。 工業デザインもファッションも演劇も芸術の範囲に含まれます。 人が物事を考えたり伝えたりする場合には大まかに分けて理屈、情緒、感性の三つが使われるとされています。 理屈には言葉が使われます。 言い換えれば人は物事を理論付けて考える際には言葉を使って考えています。 情緒や感性というのは言葉では表現できません。 精々好きとか嫌いと言う程度です。なぜ好きか嫌いかと言われると上手く言葉では表現できません。 一度もみたこともない絵画に関する説明文を読んでもその絵画を思い浮かべることができません。 精々過去に見たものと類似のものだろうと推測するだけです。 「百聞は一見に如かず」という言葉はこれを言い表したものです。 音楽でも同じことが起きます。 このように言葉では表現したり伝ことができない情緒や感性を表現したり伝える手段として取られるのが芸術です。 芸術活動で生み出された成果つまり作品それ自体は善悪、好悪、適不適などという価値観については中立です。 価値観に基づいた評価というのはあくまでも評価する側の人の問題であって作品が評価を下している訳ではありません。 芸術の功罪と言われても、どのような価値観に基づいて功と判断するのか罪と判断するのかで変わってきます。 功と判断されようと罪と判断されようと作品は判断される前と何んの変わりもありません。 >経済的な面で気になるのですが、 芸術活動や作品を経済財として用いた時にのみ経済的な意味があります。 財として用いるか用いないかはそれを判断する人に依存します。 財として用いられようが用いられなかろうが活動も作品自体も変わりません。 >社会として芸術はどんな存在なのでしょうか? 芸術というのは上記しましたように、言葉では表現したり伝ことができない情緒や感性を表現したり伝える手段ですので、社会がこのようなことを必要とする限り社会にとっては必要な存在だということになります。 必要としなければ不必要な存在です。 ただし「無用の用」という言葉がありますように必要か不必要かという判断は難しい判断です。 容器に何も入っていない場合はその容器の内側の空間は何の役にも立っていません。 容器にものが入れられて初めて役に立ちます。 ものが既に入れられていれば、他のものが入りませんので他のものから見れば役に立たない容器ということになります。 このようなことは人間社会では往々にして起きます。 あるいは藤田嗣治という画家がいました 戦時中軍部からの要請で航空戦などを題材とした絵画を沢山描きました。 軍部から戦意高揚に役立つとして絶賛されました。 当時の国民も称賛していました。 戦後になると戦争遂行に協力した人間として非難され排除無視されました。 彼はこれを嫌ってフランスに渡り国籍を取得してレオナルド藤田と名乗り教会の壁画など沢山の作品を残しました。 現在、日本の美術館はこの作品を名画として高額な借用料を払って借り受け展示会を開いています。 沢山の絵画愛好家が訪れています。 彼自身としては題材が違うだけで芸術活動という点では何も変わっていません。 どの作品も絵画としては優れたものであることは当時も今も変わりがありません。 間接的な説明になりましたが何かあれば補足質問願います。

noname#228046
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 社会の状況が変われば評価も変わる。 社会問題としての功罪も計れるようなものじゃないんでしょうね。

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