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【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いとい

【宗教】親鸞は修行の末に人生はありのままで良いという悟りに行き着いたという。 親鸞は悟り後はありのままに自分のしたいように生きて亡くなった。 これって本当ですか? 親鸞は若い時は厳しい修行をして己を苛め上げていたが悟りを開いたあとの後世はのんびりきままに自分のやりたいことをやって宗教の呪縛から解放されて伸び伸びした生活をして死んだ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

「ありのままで良い」と悟ってありのままに生きるのと、 分からずにありのままに(流されて)生きるのと、上辺は 同じでも心境は全く異なるでしょう。

japanway
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます 確かに

その他の回答 (2)

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

昔、若いときに禅の修行をしたことがあります。 日本の禅宗には、曹洞宗のように「悟り」を求めず、座った姿がそのまま「悟り」という只管打坐の教えがあり、道元が唱えたものですが、一方「公案」というものを用いて「悟り」を求める臨済宗があります。 私の場合はどちらかといえば臨済宗と同じ「公案」を用いて、「悟り」を求めました。 でも、世間の人は「悟り」というと、目がパッと覚めた、とか、ハッとして悟ったという人がいますが、実際はそんなものではありません。 そもそも「悟り」は本人には分かりません。 師匠との一対一の禅問答の中で、師匠がこの人間は「悟った」と判断するものです。 つまり「悟り」は師匠が判断するもの、本人が分かるものではありません。 そして悟りとは道元が言うように「目がヨコに、鼻がタテについていることを知る」ことです。 当たり前のことを当たり前のこととして知ることです。 ところが人間は、その当たり前のことを当たり前に知ることがひじょうに難しいのです。 どこか別の世界に「悟りの世界」があるのではないかと、探します、実際は自分の足元にあるのに、です。 道元に言わせれば、私たちの日常の起臥がそのまま「悟り」なのです。 「悟り」はどこか天にあるものでもないし、別の世界にあるわけではない、私たちの身の周りに至る所にそれはあります。 私たちの日常生活が、そのまま「悟り」です。 たぶん親鸞も長い修行の末に、これまで「悟り」をどこかにあるものとして探していたが、実際は何のこともない、自分の足元にあった、ということに気が付いたのではないでしょうか? 道元と同じように、ありのままが「悟り」の姿である、と。 自然でいるのがいちばん。 親鸞のいう「自然法爾」です。 自然のままに己をゆだねる、任せる。

回答No.2

 少なくとも「悟り」とは個人的な体験、すなわち「自力」であり、「他力」の教義に相容れないと思います。  あなたが、「~という」と書かれてますので、お聞きになったか、お読みになったか分かりませんが、正しいようには思えません。是非、NHK100分de名著 歎異抄をご覧ください。下記のURLは第1回のものです。 https://www.youtube.com/watch?v=indDmRA2Eeo

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