どうも、真宗のボーズと呼ばれているものです。今報恩講シーズンで忙しいもんで、手短に書かせていただきます。
この横超の語の説明として親鸞聖人の文章でわかりやすいのは『愚禿抄』の冒頭の文章かと思います。とりあえず引用しますと
聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には「竪超」即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には「横超」選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には「竪出」聖道、歴劫修行の証なり。
二には「横出」浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
とあります。親鸞聖人は大乗仏教を「竪超」「横超」「竪出」「横出」で分類をしています。
まず、竪横の違いですが、「竪」というのは、自力によって悟りを開くという考え方を表します。「横」とは極楽に往生して悟りを開くという事を表します。
次に、超出の違いは、「超」は突然悟り、または悟りの世界が開かれるということです。「出」は徐々に悟りを開く、徐々に悟りの世界へ近づいていうことです。
これを組み合わせますと上述のの四通りの悟り方があるという事になります。
「竪超」は、何かのきっかけにハッと気が付いて突然悟りを開くこと。
「竪出」は、長い時間をかけて段階を踏んで煩悩を消し去って、悟りに近づくということ。
この二つを、自力の教えであるとしています。質問者のいう、
>>仏教で悟りを求めて、修行をして、戒律を守って自分を高めて
>>縦に超えて行くのはイメージとしてよくわかるのですが
というのは「竪出」のイメージかと思います。
「横出」は、長い時間をかけて段階を踏んで煩悩を消し去って極楽浄土に近づくということ。
このことを、他力の中の自力という書かれ方をしています。
最後に本題の「横超」は順番に見てきたとおりの考えでいうと、煩悩にまみれているはずの人間に突然極楽往生というものがあたえられるという事になります。これは「正信偈」の中では、
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
とあって、煩悩を持つものが突如として仏の悟りへと導かれると説かれている部分がそれでしょう。
このことがどのようなプロセスによって起こるかについては、『教行信証』信巻において
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
と説かれ、横超はすべて真実の行つまり南無阿弥陀仏を称えることに集約をされているとしています。そして、親鸞聖人は私たちの称える南無阿弥陀仏を聞けといいます。
しかるに『経』(『無量寿経』の下巻「聞其名号信心歓喜乃至一念」の中)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
私たちの称える南無阿弥陀仏は、そのまま阿弥陀仏が浄土に往生させようと働いてくださっている姿そのままであったと聞こえた時、それが信心であり、この信心が極楽往生の正因であるとしています。
つまり横超とは、煩悩にまみれた凡夫が、南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間(『教行信証』等では「信楽開発の時剋の極促」とあります)に、煩悩を持ったままで極楽往生の正因を得た姿を言うようです。
あと、余談ですが法然聖人が菩提心を否定したという回答がございますが、これは正確ではありません。『選択本願念仏集』の中で法然聖人は、
「発菩提心」、その言一なりといへども、おのおのその宗に随ひてその義不同なり。 しかればすなはち「菩提心」の一句、広く諸経に亘り、あまねく顕密を該ねたり。意気博遠にして詮測沖邈なり。願はくはもろもろの行者、一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求むる人、おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。
と、菩提心の言葉は同じでも宗派によって使われ方が違うとしています。また、『逆修説法』の中でも法然聖人は浄土宗の菩提心について
次に発菩提心とは諸宗の意不同なり、今浄土宗の菩提心とは先ず浄土に往生して、一切衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門悟り、無上菩提を証せんと欲する心なり。
と説いて、浄土宗には浄土宗の菩提心の考え方があることを示しています。つまり、法然聖人が否定する菩提心は「自力の菩提心」であって、浄土に往生し悟りを開こうという「他力の菩提心」は否定していません。しかも、否定というのも「往生には必要がない」という事ですのでご注意を。
また、法然聖人の菩提心の考え方が、上述した親鸞聖人の横超の菩提心の原型であると考えられます。
ちょっと時間がなかったので、かなりかいつまんでしまいましたがこんなところです。誤字脱字乱文はご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏
お礼
丁寧な回答ありがとうございます。 竪のほうはわかりましたが、横は「横出」も「横超」も私にはやっぱり難しいです。 > 南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が > 自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間 これで世界観が宗教的に転換するというのは、なんとなくわかりました。 もうすこし親鸞の著作を紐解いてみようと思います。