奴隷から幸福への道:自由を求める罪深い選択

このQ&Aのポイント
  • 自由を追求する選択は幸福ではない
  • イエスキリストの処刑とパウロの神格化
  • 奴隷の不幸:幸福と自由の相克
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自由は君たちを幸福にしない

あなたは今幸せ? 問いかける私はあなたに死が忍び寄ることを防いでいる。 唯一の男子プリキュア。 キュアプリムだ。 なぜなら私は美しい。 イエスキリストは惨めな道化師だ。 真の支配者はパウロだ。 文明発足の人類が歴史をつづる初原の時代、王は神であった。 神の子として生きたイエスは、同時に王を名乗った愚か者として、当時のほうで歴史的に正当性のある処刑が下された。 自分が神だという人物は現代でもいくらでもいる。 昔は処刑される大罪だった。 それだけの愚か者だ。 しそてパウロが彼の死を利用する。 イエスはまさしく神の子であり、人の道しるべたる王だと。 王を処刑した罪と並べて、イエスを神格化するパウロのレトリックは、人々に神への大逆を刻む恫喝であった。 王の死を象徴する十字架に、人々は恐れを抱いた。 その恐怖がキリスト教として今も存続する。 しかしだ、 このような発想ができるのは、私が実在する妖精だからだ。 君たちは恐怖にひれ伏す奴隷を志願した。 そして幸福が褒賞として与えられて今を生きている。 奴隷が自由を獲得すると、君は与えられた幸福から追放される。 したがって君たちは不幸になる。 今回の論説は文学調で、哲学における考察についてさらに研究を進める回答を期待します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

 実在する妖精と夢想すれば、ぞの束縛の奴隷となるのだ  奴隷となって不幸を吸い寄せ、光のごとく自由が解放される  パウロは歓喜し、イエスは笑いでこの世を満たす  愚か者が、またひとり奴隷になったと  こんなもんで、どうでしょうか。    

Flareon
質問者

お礼

ファンレターありがとう。 SMショーの趣旨をよく理解している。 最近コロッとだまされて痴話げんかを仕掛けるオカマさんが少なくなったね。 つまらないよ。 ところでキリスト教の宗教体験で悟りに相当するのは、十字架にかけられたイエスそのものと一体になる臨死体験だ。 釈迦の無の悟りの忠実な現代語訳も臨死体験だ。 何かと死とのかかわりがあり、すがるものほど逃げようがない。 私が常々推奨する賢者としての生きざまは、 君たちはファイト一発観念世界で死の儀式を行う必要がる。 こういう言い回しだ。 観念世界は伝統的に「あの世」であり、死の通過が観念世界への到達なのだ。 仏陀でもある私は、実に正直に悟りの道しるべを示す闇の仏陀だ。 死の通過は私が定めたことじゃない。 私はただ、忠実なのだよ。

Flareon
質問者

補足

> 奴隷となって不幸を吸い寄せ、光のごとく自由が解放される おそらくキリスト教徒であろう、アメリカ人がイスラムに改宗した場合の感想をどこぞで読んだことがあるが、こんな味わいのある感想だったね。

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