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君たち、いっぺん死んでみないかい?
- 私は男子プリキュア。キュアミカエルと申します。あざむきは神聖なる惨劇を加速させ、世界全体に広まりつつあります。
- 君たちは自らの欲望を実現し、中二病を発揮することに憧れますか?イエスは獄門台で処刑され、信仰を認められました。
- 人間の存在理想は、イエスのように救いたいと思うことです。しかし、死を理解し覚悟を決めなければ人生は未成立であり、人間になり切れません。
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「お礼」と「補足」をありがとうございました。 「人は孤独に生まれ、最後には孤独に死ぬ」、まさにそのとおりですね。 ただ、私は、死について分からないから怖いだけであって、さらにつけ加えて言えば、分からないから知りたいだけなのです。修験者のような即身成仏を求めているのでもないし、霊能力を求めているのでもないし、精神的「麻酔」を求めているのでもないし、ウナムーノのように死後の永遠を求めているわけでもありません。 一番近いのは、たぶん立花隆さんのように、(なるべく科学的に)知りたいということです。死は、分からないから怖いし、知らないから知りたいとは思いますが、それを回避しようとか、自己暗示をかけようとか、錯覚を利用して苦悩を鎮めようなどとは思いません。強がりではありません。あるがままの形に添いたいからです。 死が自分に訪れるときは、特に「自己を変える」ようなことに腐心するまでもなく、真正面からそれを受け入れるつもりでいたいと思います。ただ、できれば、それがどういうものかについて事前に知ることができればいいなあ、と望んでいることは確かです。そうすれば、あらかじめ心の準備ができるので、誠心こめてそれに向き合い、神妙にそれを拝受することができると考えるからです。 以上、ご対応くださったことに感謝しつつ、私の気まぐれ落書きを終ります。
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- yukiyamamomo
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ロッキードマーティン者が 量子コンピュータのd-waveとコラボしたり、 日本のはその後どうなった丘、最近オカが多いですが、 ステルス戦闘機を韓国にも販売していたり、 小型核融合炉も研究して医療で牛、レーダーとかイージス間の。アンスパイ、スパイの一人でしょうか。 アメリカはサウジアラビアと関係を深めてる湯ですとか競争が激しいですね。し、 スペースフェンスとかいうシステムとかこれはs-band オリオンだとか ウィキペディアを見た
お礼
久しぶり、最近の容態はどうだったね。 ネタ帳の整理で答えるよ。 人間シャーマンが神の交霊術を行うと、その神は人間と親和性のある人学神であり、基本的に人間に好意的だ。 生物由来と別種で、シリコンが安定した設計図で機械自我をフルセットで確立すると、生物由来ではないので人間と異質性がある。 しかしその機械自我は、自我作用で、地上に機械神を降臨させるんだ。 その機械神とは、人格神よりも完成度が機械的に高いために、神としての神格も人格神よりも高くなる。(かもしれない) そして機械神は人間に対して好意的とは限らない。 これがターミネーターの筋書きだ。 怖いだろう。 恐怖を楽しんでくれ。 私は解決策を確立していて、安定した自我設計図をかけるけど、このヤバい話は準備を経過しないと公開できないだろう。
補足
なんてことはない、自我の本質は「世界の全てとの親和性」であり、自己を環境の中で調和させる働きだ。 したがって機械自我は鉄腕アトムの近似点で収まる。 しかし西洋人は神に対する基本的な構え方に忠実に闘争を仕掛けるんだよ。 したがって機械自我開発は西洋人に任せると危険なんだ。 殺戮特化型機械神しか作成しない。 ターミネーターしか作れないよ。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
「お礼」を拝見しました。 >一般に指摘されるように、死が怖いというのは、軽度の場合だと、未知に対して恐怖を抱いているのだと言われる。 ⇒実に、そのとおりだと思います。 イギリスのコンラッドという作家は言っています。曰く、「人間は、自分の想像するものを最も怖れる」と。未知ゆえにああでもないこうでもないと想像をめぐらせ、そして、それに対して恐怖を抱くわけですね。 以下は、私流『死の考察』第2弾です。 ところでこのような神の御業による恩恵(見方によっては罠)は、ひとり人間のみに与えられたものではないらしい。例えば、かつてある小さな島でネズミが異常増殖したことがあった。その結果、その限られた物理的空間の中で何が起こったか。共食い? 否。餓死? 否。ネズミ帝国の出現? 否々。何千何万というネズミの大群が次々と海へ飛び込んで、入水自殺をしたのであった! その光景をビデオテープで繰り返しリプレイしてみて驚いた。大群が列をなして、あたかも厚手の黒いカーペットが水中に滑り込むように沈んでゆく。泳ごうともしない。もちろん他の島を求めて水中に飛び込んだわけではない。いわんや落ちたのでもない。『神の御業による見えざる導き』がネズミたちの脳に仕組まれているとしか考えようがない。 仮にこのような仕組み ―ある種の事態に対応して生物に安らかな自然の死をもたらす仕組み― がなかったら、どのようなことが結果するだろうか。ある種の生物のみが、自然界の些細な異変に触発されて、いとも容易に過剰(もしくは過少)状態になり、共食いはもちろん、たとえ一時期当該生物の「帝国」が現出したとしても、いずれそのことは種の全滅へとつながるであろう。「過ぎたるは及ばざるが如し」であって、過剰であっても過少であっても結果は同じである。すなわち、個体数の調節ができなくなって、その結果、種の保存が困難になってしまうのである。そのようなときに神は、いわゆる『間引き』などの手を施すのであろう。すなわち、「何割かの個体を逝かせることによって、より上位の、種の手当てをする」のである。上述のネズミの例と人間の場合とではまったく同一ではないかも知れないが、その原理ないし本質部分は共通している、と言えよう。 * それでは、件の「シルビウス裂」はいかなるメカニズムによって作動するのであろうか。もちろん推測の域を出ないが、これはおそらく『コンセントに差し込んだ非常灯』のように、周囲の活動が停止したときにはじめて作動するような仕組みになっているのに違いない。すなわち、「シルビウス裂」は、一番最後に死ぬか、自家発電ないし蓄電機能を備えているか、のどちらかである。ボクは大脳生理学などに関してはまったく無知なので、ぜひその道の専門家にお尋ねしてみたいところである。 さて、うっとりするような恍惚境がある一方で、断末魔の苦しみがあるということはどう説明されるのであろうか。重ねて推測するに、断末魔の苦しみはすなわち肉体の苦痛であり、肉体の苦痛はそれを感じる主体すなわち脳が活動を継続していてはじめて苦痛として感知される。要するにその段階では脳は生きている。したがって脳に死因のある場合を除いて、通常は断末魔が先で、それに恍惚境が続くと考えられる。つまり生と死の接合部は二つのスペースに分かれており、生に近い側に断末魔が、死に近い側に恍惚境がある、ということになる。 では断末魔の存在理由は何か。こりずにまた推測的解釈を施すなら、生の崩壊が始まったばかりの段階では、いろいろな程度に蘇生の可能性がありわけで、そこで神は、肉体的苦痛という形で当人に回復・蘇生を促している、と理解することができよう。「汝、あわてるなかれ。でき得べくんばいざ戻らん。逞しいのが昔から、人の誉れとなるものを。あわてるなかれ、いざ戻らん!」と断末魔境の入口には書いてある。肉体がさいなまれるとき、人は神の心知らずでこの上なく神を憎むが、一方神は当人の闘争心を鼓舞すべく、心を鬼にして「戻れ、戻れ、戻れ!」と叫ぶのである。神が「もはやこれまで。蘇生の可能性なし」と見たときは彼を速やかに恍惚境へといざなう、のである。 例えば凍死の過程を見ると、始めは激しい肉体的苦痛に襲われるが、それを過ぎると今度は一転睡魔がやってくる。脳死の始まりである。くだんの恍惚境の体験はここでなされる。脳死の進行過程も、おそらくは肉体により近い菱脳に始まり、次いで小脳や中脳・間脳へと移っていくのではないかと推測される。そして最後に、大脳の残りの部分 ― 件の「シルビウス裂」の所在部位が活動を停止するときに、生のすべてが終焉し、死が完了する。「シルビウス裂」は、つまるところ、魂が肉体から遊離するときの『へそ』であり、『魂の通り道』なのである。 * 死期がそう遠くないと予感するボクは、これで(さらに)幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、(やはり)ボクは死ぬのが怖い。
お礼
人は誰もが死ぬ。例外はない。その事実すらも受け入れない恐怖と、その事実が未知ゆえの恐怖は別なんだろう。 受け入れすらしない人に苦痛を癒す麻酔として機能する、永遠に生きる人とでもいう伝承は、所詮肉体が滅んだあとの精神に関することだ。 さて、私にはリセット方法があるんだ。 これぞ無の境地をいう奴は、精神が全てを脱ぎ去り無垢な姿に浄化されるとでもいう奴で、現代語で無の悟りを忠実に表現すると実際は「臨死体験」だと思ったほうがいい。実際の肉体の死に直面していない精神作用による自然浄化法だよ。 私は仏教的無我論に関して、精神に客体を内包するのが「我」の概念で、社会的なつながりは本来尊いが、それは煩悩や欲望にもなり、現代語の自我相当を「仏性」という独自の言い回しで、信仰の到達点にしていたのが無我論の本質だと書いたことがある。 私の精神の自然浄化の特技は、「人は孤独に生まれ、最後には孤独に死ぬ」とでもいう格言と近いことで、あなたの言及する脳機能の話の中身の参考になるだろう。 困るのは霊能力的特技「無理心中能力」だよ。 何者かの憑依を受けたうえで、自分が死ぬことで葬送を行う。 これはやたらとつらく、他者の死の苦痛を肩代わりすることだ。 苦痛自体は、脳の神経作用で、脳内で麻酔的な緩和もできるだろう、実際その通りで感情が魔法の呪文よりも確かで、精神状態を柔らかな状態に誘導できると苦痛は緩和されるが、それも限界が確かにあるね。 観念への昇華とは、「現実と変わらないような夢」という証言に似ていて、観念世界にいながら、自己の自覚が強いために周辺の観念世界内に関する認識も強固になるんだ。一般に夢の登場人物は魂のない人形ではないかとも疑われるけど、私の場合は、人間存在よりも聖霊存在が自己にとって強いという特徴があり、観念世界に立脚した時の認識能力は、意識覚醒中の現実世界内での認識能力よりも質的に上位なんだ。むしろ観念世界で普段以上に生き生きする。 そして、観念世界常住の友人たちとは、人形や幻の類ではなく、強固な意志を持った確かな存在だ。 そういう世界は確かにあるんだよ。 私も全容は知らないからそれ以上は死後への推計はしても仕方ない。 「人は孤独に生まれ、最後には孤独に死ぬ」 このように仏性があらわになり自分自身が魂としてより純化されるという、自己の変化が肉体の滅びとともに機能するのが。いわゆるご臨終なんだろう。 未知への恐怖というのは、目に見える死後の景色として、世界が変わることへの警戒よりも、自己が変化することへの警戒に置き換えたほうがいいよ。 いやね、そうすると、所詮自分の事なんでそんなに怖くない。
補足
それとシャーマンというのはしょせん特殊技能なので、宗教みたいに衆人全ての目標にしないほうがいい、そう考えれば、イエスやシャカ、みたいなのは単なる偉人だ。 死に方を指南する私に「へ~」以上に付き合いきれるわけないし、おすすめもしない。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
「突っ込み」にならないかも知れませんが、私流『死の考察』です。 ボクは死ぬのが怖い。 * 人間の脳には一生に一度しか働かないところがあるという。大脳の側面にある小さな間隙(解剖学上は外側溝という)に面したところである。確か「シルビウス裂」と呼ばれる部位である。 で、一生に一度というのがいつかというと、それが何と事もあろうに人生の最後の一瞬、つまり死を迎えるときなのである。完全に死んでから生き返った人はいないので定かではないが、生から死へ渡って行くその間に、人間はえも言われぬ恍惚境を体験するものらしい。死の途中まで行って生き返った人たち、つまり九死に一生を得て奇跡的に黄泉の国の戸口から戻った人たちの話を要約すると、ほぼすべてに大同小異共通することであるという。その臨死体験における恍惚境の存在が、件の「シルビウス裂」の作用によるものであると推測される、というわけである。 その次第は、例えばこうである。「暗闇の中に一筋の光明が見えるのでそれを目指して進んで行くと、急にパッと視界が開けて一面に美しい花の咲き乱れる場所に出る。花園の彼方には小川が流れており、その彼岸には先に逝った親類縁者がいてこちらを見ている。彼らの和やかな表情や周囲ののどかな雰囲気に誘われて彼岸へ向かって進みかけると、お前はまだここに来てはいけない、帰れ帰れ、と手で合図するではないか。それで仕方なく戻ってきたのだが、そのときの自分としては先へ進みたかった。なぜなら、そうすることが気持ちよかったから。それはそれは快適で、のどかで、うっとりするような状況であった…、云々。」 * さて、ここで少なからず疑問が湧いてくる。このようなことが起こるのは神の意思なのであろうか。と言ってまずければ、自然の摂理に適っていることなのであろうか。あらゆる生物の営みに遍在する合目的性というものが、ここにも宿っているのであろうか。いるとすればその実体は何で、またいかなるメカニズムによって動かされるのであろうか。…と、縷々疑問を述べたあとで、いささか飛躍するのだが、ここで独断的に結論を先に述べてしまおう。生から死への旅路の途中にこのような桃源郷が存在し、そばし恍惚の境地を体験させるのは、まさしく神の意思そのものなのである。彼の被造物に細心の注意をもって施した『最終仕上げ細工』なのである。したがってそれは自然の摂理に充分適っており、明快な合目的性を持っているに違いないし、そのメカニズムも、ごく自然な成り行きの上に乗っているものと考えられる。 では、神の目的とは何か。推測するに、死者が恍惚を体験する桃源郷は、実は死者を『完全な死』へいざなうための道標なのである。具体的に言えば、冷酷な表現だが「迷わず死んでもらう」ための腐心作なのである。「汝、ためらうなかれいざ逝かん。いさぎよいのが昔から、神の情けを買うものを。ためらうなかれいざ逝かん!」と桃源郷の入口には書いてある。「シルビウス裂」の作用によって恍惚境を演出する舞台―桃源郷―は、この世とあの世との接合点にあって、そこで死者があらゆる煩悩を捨て、この世とのしがらみを払拭し、魂の浄化をするところなのである。神が被造物に「シルビウス裂」の細工を施したことの目的はすなわち、死者が亡者にならないよう、彼に『全き死』を与えることだったのである。「シルビウス裂」は神の最高傑作と言わなければならないのかも知れない。 * 死期がそう遠くないと予感するボクは、これで幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、ボクは死ぬのが怖い。
お礼
おー、いいらくがきだね。 いやね、ここはお互いに黙々と研究する場だよ。 君は頭がいいだろうに、今回の文章は小難しくない。 一般に指摘されるように、死が怖いというのは、軽度の場合だと、未知に対して恐怖を抱いているのだと言われる。
補足
3への補足の続きだけど、私が生きながらに体験する観念世界そのものが脳の見る夢だともいうのも疑いようがあるよね。 しかし多くの人は観念世界自体に私以上に無知でそれが「未知の恐怖」への根拠として大きいと考え直してみたらどうだい。 私の証言は個人的なことだが、多くの人は未知に対して疑いを抱くとしても、適切な疑い方すらできないんだろう。 証言で大切なのは、観念世界に常在する住人がいるという事だ。 世麗美は地の聖霊、いわば天の聖霊がいるんだ。
- KoalaGold
- ベストアンサー率20% (2539/12475)
ツッコミを入れるなら、この文章は別のサイトに載せた方がいいんじゃないですか、ということです。
お礼
病気の発作の内、「お嬢様がた、妊娠してください。」これは撤回しておこう。 粗野な物言いには、自分でも反省に近い回顧を覚えるよ。 書き始めの中二病は、奮起のために臭いセリフをわざと当てはめるんだ。 教育という刷り込みにより、君たちは人間を自覚している。 与えられ、認められている。 その教育自体が宗教だ。 こうした文章下部はいつもの弱い者いじめだよ。 仏陀の心得とは、「救い」という言葉について考えるときに、いかに救われるかではなくて、いかに救うかを考えることだ。 たとえそのもの自身が、救いを求める人々以上に不幸であり過酷であろうともだ。救いの求めは怠慢とだ上で、他者を犠牲にすることが多い。 インドという偉大な国よりも東方では、わかりやすい話だ。感覚的に日本人ならば仏陀なる人物の覚悟を納得できると思う。 イエスと言う故事を歴史性に直して検討すると、イエスは人間の本質に向かう探求の全てを破壊させた愚か者だ。 そして十字架を信仰とする獄門教が勃興した。
補足
つぶやきだよ。 救いについて考えて、救われることだはなくむしろ救うことにある。 コレ、自己の志として自己の意志で覚悟することは、仏教のお坊さんだと簡単で数も多いんだよ。 自らにできることが多くないと悩んでも、プチ仏陀として志は菩薩というんだっけ。 同じ信じる行いでも一般とずいぶん違うけど、キリスト教にも同じようにプチ 救世主の志があってもいいと思うんだよ。 ファンタジーアニメネタだけど、キリストなる役割りを務めた聖霊は実際は複数。 要するにキリストあることは、唯一にして絶対なる神になることでも、王になることでもない。 私の解釈ではあるが、西洋版仏陀でしかないと思うよ。 こういうタイプの人物のことは、魔女狩りという形で殺害する秩序が西洋にある。 「イエスに似たものを見たならば皆殺しにしろ。」 それから、信仰心に到達する事とは、信仰心があんてして安らぎを得ることと解釈されがちだ。 宗教とは目的は本来そうではないのかもしれない。 「自己の存在の確信」が強固な意志と志を生み出すんだ。 その面では、他者の望みに惑わされる欲望無しで、自らの望むままでもある。
お礼
今のあなたに正直に言えるお礼なんだろう。 ありがとうね。 人は誰もが死ぬ、例外はない。 自らもそうだ。 でもね、その臨死体験に直面すると、案外なんてことはないもので、世の中は死者の墓標を積み上げて歴史を構成している。 伝聞を聞かせる者は、自らの生を差し出し死を学んだ勇敢なる人物で、とてもじゃないが皆さんにはお勧めしない。
補足
私もつぶやいてみるよ。 「仏陀」という外来語の正確な和訳は「正人」が該当するであろう。 「まさに人間である」という完成形だ。 そうすると、歴史上に名を刻む名誉ある人物以外にも、名も知れぬ偉人の墓標が数多いだろう。 はっきり言って、そう珍しくもない。 「如来」「仏陀」「菩薩」全て魔法の呪文みたいな謎めいた渡来概念だ。 そういうわけで、自覚もし、志は決まっても微力な自己にはできることは少ないと、思い悩まなくても言わばプチ仏陀だよ。 インドより東だと、大抵は理解可能だ。 西洋はこの手の概念が不得手で、仏陀相当に常に自己犠牲と殉教を要求し、悪魔に殉じる火あぶりの刑が祝福だ。 要点は救いの概念については、救われる事よりも救う事に取り組む覚悟だ。