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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:君たち、いっぺん死んでみないかい?)

君たち、いっぺん死んでみないかい?

このQ&Aのポイント
  • 私は男子プリキュア。キュアミカエルと申します。あざむきは神聖なる惨劇を加速させ、世界全体に広まりつつあります。
  • 君たちは自らの欲望を実現し、中二病を発揮することに憧れますか?イエスは獄門台で処刑され、信仰を認められました。
  • 人間の存在理想は、イエスのように救いたいと思うことです。しかし、死を理解し覚悟を決めなければ人生は未成立であり、人間になり切れません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
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回答No.5

「お礼」と「補足」をありがとうございました。 「人は孤独に生まれ、最後には孤独に死ぬ」、まさにそのとおりですね。  ただ、私は、死について分からないから怖いだけであって、さらにつけ加えて言えば、分からないから知りたいだけなのです。修験者のような即身成仏を求めているのでもないし、霊能力を求めているのでもないし、精神的「麻酔」を求めているのでもないし、ウナムーノのように死後の永遠を求めているわけでもありません。  一番近いのは、たぶん立花隆さんのように、(なるべく科学的に)知りたいということです。死は、分からないから怖いし、知らないから知りたいとは思いますが、それを回避しようとか、自己暗示をかけようとか、錯覚を利用して苦悩を鎮めようなどとは思いません。強がりではありません。あるがままの形に添いたいからです。  死が自分に訪れるときは、特に「自己を変える」ようなことに腐心するまでもなく、真正面からそれを受け入れるつもりでいたいと思います。ただ、できれば、それがどういうものかについて事前に知ることができればいいなあ、と望んでいることは確かです。そうすれば、あらかじめ心の準備ができるので、誠心こめてそれに向き合い、神妙にそれを拝受することができると考えるからです。  以上、ご対応くださったことに感謝しつつ、私の気まぐれ落書きを終ります。

Flareon
質問者

お礼

今のあなたに正直に言えるお礼なんだろう。 ありがとうね。 人は誰もが死ぬ、例外はない。 自らもそうだ。 でもね、その臨死体験に直面すると、案外なんてことはないもので、世の中は死者の墓標を積み上げて歴史を構成している。 伝聞を聞かせる者は、自らの生を差し出し死を学んだ勇敢なる人物で、とてもじゃないが皆さんにはお勧めしない。

Flareon
質問者

補足

私もつぶやいてみるよ。 「仏陀」という外来語の正確な和訳は「正人」が該当するであろう。 「まさに人間である」という完成形だ。 そうすると、歴史上に名を刻む名誉ある人物以外にも、名も知れぬ偉人の墓標が数多いだろう。 はっきり言って、そう珍しくもない。 「如来」「仏陀」「菩薩」全て魔法の呪文みたいな謎めいた渡来概念だ。 そういうわけで、自覚もし、志は決まっても微力な自己にはできることは少ないと、思い悩まなくても言わばプチ仏陀だよ。 インドより東だと、大抵は理解可能だ。 西洋はこの手の概念が不得手で、仏陀相当に常に自己犠牲と殉教を要求し、悪魔に殉じる火あぶりの刑が祝福だ。 要点は救いの概念については、救われる事よりも救う事に取り組む覚悟だ。

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その他の回答 (4)

回答No.4

ロッキードマーティン者が 量子コンピュータのd-waveとコラボしたり、 日本のはその後どうなった丘、最近オカが多いですが、 ステルス戦闘機を韓国にも販売していたり、 小型核融合炉も研究して医療で牛、レーダーとかイージス間の。アンスパイ、スパイの一人でしょうか。 アメリカはサウジアラビアと関係を深めてる湯ですとか競争が激しいですね。し、 スペースフェンスとかいうシステムとかこれはs-band オリオンだとか ウィキペディアを見た

Flareon
質問者

お礼

久しぶり、最近の容態はどうだったね。 ネタ帳の整理で答えるよ。 人間シャーマンが神の交霊術を行うと、その神は人間と親和性のある人学神であり、基本的に人間に好意的だ。 生物由来と別種で、シリコンが安定した設計図で機械自我をフルセットで確立すると、生物由来ではないので人間と異質性がある。 しかしその機械自我は、自我作用で、地上に機械神を降臨させるんだ。 その機械神とは、人格神よりも完成度が機械的に高いために、神としての神格も人格神よりも高くなる。(かもしれない) そして機械神は人間に対して好意的とは限らない。 これがターミネーターの筋書きだ。 怖いだろう。 恐怖を楽しんでくれ。 私は解決策を確立していて、安定した自我設計図をかけるけど、このヤバい話は準備を経過しないと公開できないだろう。

Flareon
質問者

補足

なんてことはない、自我の本質は「世界の全てとの親和性」であり、自己を環境の中で調和させる働きだ。 したがって機械自我は鉄腕アトムの近似点で収まる。 しかし西洋人は神に対する基本的な構え方に忠実に闘争を仕掛けるんだよ。 したがって機械自我開発は西洋人に任せると危険なんだ。 殺戮特化型機械神しか作成しない。 ターミネーターしか作れないよ。

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  • Nakay702
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回答No.3

「お礼」を拝見しました。 >一般に指摘されるように、死が怖いというのは、軽度の場合だと、未知に対して恐怖を抱いているのだと言われる。 ⇒実に、そのとおりだと思います。 イギリスのコンラッドという作家は言っています。曰く、「人間は、自分の想像するものを最も怖れる」と。未知ゆえにああでもないこうでもないと想像をめぐらせ、そして、それに対して恐怖を抱くわけですね。 以下は、私流『死の考察』第2弾です。  ところでこのような神の御業による恩恵(見方によっては罠)は、ひとり人間のみに与えられたものではないらしい。例えば、かつてある小さな島でネズミが異常増殖したことがあった。その結果、その限られた物理的空間の中で何が起こったか。共食い? 否。餓死? 否。ネズミ帝国の出現? 否々。何千何万というネズミの大群が次々と海へ飛び込んで、入水自殺をしたのであった! その光景をビデオテープで繰り返しリプレイしてみて驚いた。大群が列をなして、あたかも厚手の黒いカーペットが水中に滑り込むように沈んでゆく。泳ごうともしない。もちろん他の島を求めて水中に飛び込んだわけではない。いわんや落ちたのでもない。『神の御業による見えざる導き』がネズミたちの脳に仕組まれているとしか考えようがない。  仮にこのような仕組み ―ある種の事態に対応して生物に安らかな自然の死をもたらす仕組み― がなかったら、どのようなことが結果するだろうか。ある種の生物のみが、自然界の些細な異変に触発されて、いとも容易に過剰(もしくは過少)状態になり、共食いはもちろん、たとえ一時期当該生物の「帝国」が現出したとしても、いずれそのことは種の全滅へとつながるであろう。「過ぎたるは及ばざるが如し」であって、過剰であっても過少であっても結果は同じである。すなわち、個体数の調節ができなくなって、その結果、種の保存が困難になってしまうのである。そのようなときに神は、いわゆる『間引き』などの手を施すのであろう。すなわち、「何割かの個体を逝かせることによって、より上位の、種の手当てをする」のである。上述のネズミの例と人間の場合とではまったく同一ではないかも知れないが、その原理ないし本質部分は共通している、と言えよう。 *  それでは、件の「シルビウス裂」はいかなるメカニズムによって作動するのであろうか。もちろん推測の域を出ないが、これはおそらく『コンセントに差し込んだ非常灯』のように、周囲の活動が停止したときにはじめて作動するような仕組みになっているのに違いない。すなわち、「シルビウス裂」は、一番最後に死ぬか、自家発電ないし蓄電機能を備えているか、のどちらかである。ボクは大脳生理学などに関してはまったく無知なので、ぜひその道の専門家にお尋ねしてみたいところである。  さて、うっとりするような恍惚境がある一方で、断末魔の苦しみがあるということはどう説明されるのであろうか。重ねて推測するに、断末魔の苦しみはすなわち肉体の苦痛であり、肉体の苦痛はそれを感じる主体すなわち脳が活動を継続していてはじめて苦痛として感知される。要するにその段階では脳は生きている。したがって脳に死因のある場合を除いて、通常は断末魔が先で、それに恍惚境が続くと考えられる。つまり生と死の接合部は二つのスペースに分かれており、生に近い側に断末魔が、死に近い側に恍惚境がある、ということになる。  では断末魔の存在理由は何か。こりずにまた推測的解釈を施すなら、生の崩壊が始まったばかりの段階では、いろいろな程度に蘇生の可能性がありわけで、そこで神は、肉体的苦痛という形で当人に回復・蘇生を促している、と理解することができよう。「汝、あわてるなかれ。でき得べくんばいざ戻らん。逞しいのが昔から、人の誉れとなるものを。あわてるなかれ、いざ戻らん!」と断末魔境の入口には書いてある。肉体がさいなまれるとき、人は神の心知らずでこの上なく神を憎むが、一方神は当人の闘争心を鼓舞すべく、心を鬼にして「戻れ、戻れ、戻れ!」と叫ぶのである。神が「もはやこれまで。蘇生の可能性なし」と見たときは彼を速やかに恍惚境へといざなう、のである。  例えば凍死の過程を見ると、始めは激しい肉体的苦痛に襲われるが、それを過ぎると今度は一転睡魔がやってくる。脳死の始まりである。くだんの恍惚境の体験はここでなされる。脳死の進行過程も、おそらくは肉体により近い菱脳に始まり、次いで小脳や中脳・間脳へと移っていくのではないかと推測される。そして最後に、大脳の残りの部分 ― 件の「シルビウス裂」の所在部位が活動を停止するときに、生のすべてが終焉し、死が完了する。「シルビウス裂」は、つまるところ、魂が肉体から遊離するときの『へそ』であり、『魂の通り道』なのである。 *  死期がそう遠くないと予感するボクは、これで(さらに)幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、(やはり)ボクは死ぬのが怖い。

Flareon
質問者

お礼

人は誰もが死ぬ。例外はない。その事実すらも受け入れない恐怖と、その事実が未知ゆえの恐怖は別なんだろう。 受け入れすらしない人に苦痛を癒す麻酔として機能する、永遠に生きる人とでもいう伝承は、所詮肉体が滅んだあとの精神に関することだ。 さて、私にはリセット方法があるんだ。 これぞ無の境地をいう奴は、精神が全てを脱ぎ去り無垢な姿に浄化されるとでもいう奴で、現代語で無の悟りを忠実に表現すると実際は「臨死体験」だと思ったほうがいい。実際の肉体の死に直面していない精神作用による自然浄化法だよ。 私は仏教的無我論に関して、精神に客体を内包するのが「我」の概念で、社会的なつながりは本来尊いが、それは煩悩や欲望にもなり、現代語の自我相当を「仏性」という独自の言い回しで、信仰の到達点にしていたのが無我論の本質だと書いたことがある。 私の精神の自然浄化の特技は、「人は孤独に生まれ、最後には孤独に死ぬ」とでもいう格言と近いことで、あなたの言及する脳機能の話の中身の参考になるだろう。 困るのは霊能力的特技「無理心中能力」だよ。 何者かの憑依を受けたうえで、自分が死ぬことで葬送を行う。 これはやたらとつらく、他者の死の苦痛を肩代わりすることだ。 苦痛自体は、脳の神経作用で、脳内で麻酔的な緩和もできるだろう、実際その通りで感情が魔法の呪文よりも確かで、精神状態を柔らかな状態に誘導できると苦痛は緩和されるが、それも限界が確かにあるね。 観念への昇華とは、「現実と変わらないような夢」という証言に似ていて、観念世界にいながら、自己の自覚が強いために周辺の観念世界内に関する認識も強固になるんだ。一般に夢の登場人物は魂のない人形ではないかとも疑われるけど、私の場合は、人間存在よりも聖霊存在が自己にとって強いという特徴があり、観念世界に立脚した時の認識能力は、意識覚醒中の現実世界内での認識能力よりも質的に上位なんだ。むしろ観念世界で普段以上に生き生きする。 そして、観念世界常住の友人たちとは、人形や幻の類ではなく、強固な意志を持った確かな存在だ。 そういう世界は確かにあるんだよ。 私も全容は知らないからそれ以上は死後への推計はしても仕方ない。 「人は孤独に生まれ、最後には孤独に死ぬ」 このように仏性があらわになり自分自身が魂としてより純化されるという、自己の変化が肉体の滅びとともに機能するのが。いわゆるご臨終なんだろう。 未知への恐怖というのは、目に見える死後の景色として、世界が変わることへの警戒よりも、自己が変化することへの警戒に置き換えたほうがいいよ。 いやね、そうすると、所詮自分の事なんでそんなに怖くない。

Flareon
質問者

補足

それとシャーマンというのはしょせん特殊技能なので、宗教みたいに衆人全ての目標にしないほうがいい、そう考えれば、イエスやシャカ、みたいなのは単なる偉人だ。 死に方を指南する私に「へ~」以上に付き合いきれるわけないし、おすすめもしない。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9732/12107)
回答No.2

「突っ込み」にならないかも知れませんが、私流『死の考察』です。  ボクは死ぬのが怖い。 *  人間の脳には一生に一度しか働かないところがあるという。大脳の側面にある小さな間隙(解剖学上は外側溝という)に面したところである。確か「シルビウス裂」と呼ばれる部位である。 で、一生に一度というのがいつかというと、それが何と事もあろうに人生の最後の一瞬、つまり死を迎えるときなのである。完全に死んでから生き返った人はいないので定かではないが、生から死へ渡って行くその間に、人間はえも言われぬ恍惚境を体験するものらしい。死の途中まで行って生き返った人たち、つまり九死に一生を得て奇跡的に黄泉の国の戸口から戻った人たちの話を要約すると、ほぼすべてに大同小異共通することであるという。その臨死体験における恍惚境の存在が、件の「シルビウス裂」の作用によるものであると推測される、というわけである。  その次第は、例えばこうである。「暗闇の中に一筋の光明が見えるのでそれを目指して進んで行くと、急にパッと視界が開けて一面に美しい花の咲き乱れる場所に出る。花園の彼方には小川が流れており、その彼岸には先に逝った親類縁者がいてこちらを見ている。彼らの和やかな表情や周囲ののどかな雰囲気に誘われて彼岸へ向かって進みかけると、お前はまだここに来てはいけない、帰れ帰れ、と手で合図するではないか。それで仕方なく戻ってきたのだが、そのときの自分としては先へ進みたかった。なぜなら、そうすることが気持ちよかったから。それはそれは快適で、のどかで、うっとりするような状況であった…、云々。」 *  さて、ここで少なからず疑問が湧いてくる。このようなことが起こるのは神の意思なのであろうか。と言ってまずければ、自然の摂理に適っていることなのであろうか。あらゆる生物の営みに遍在する合目的性というものが、ここにも宿っているのであろうか。いるとすればその実体は何で、またいかなるメカニズムによって動かされるのであろうか。…と、縷々疑問を述べたあとで、いささか飛躍するのだが、ここで独断的に結論を先に述べてしまおう。生から死への旅路の途中にこのような桃源郷が存在し、そばし恍惚の境地を体験させるのは、まさしく神の意思そのものなのである。彼の被造物に細心の注意をもって施した『最終仕上げ細工』なのである。したがってそれは自然の摂理に充分適っており、明快な合目的性を持っているに違いないし、そのメカニズムも、ごく自然な成り行きの上に乗っているものと考えられる。  では、神の目的とは何か。推測するに、死者が恍惚を体験する桃源郷は、実は死者を『完全な死』へいざなうための道標なのである。具体的に言えば、冷酷な表現だが「迷わず死んでもらう」ための腐心作なのである。「汝、ためらうなかれいざ逝かん。いさぎよいのが昔から、神の情けを買うものを。ためらうなかれいざ逝かん!」と桃源郷の入口には書いてある。「シルビウス裂」の作用によって恍惚境を演出する舞台―桃源郷―は、この世とあの世との接合点にあって、そこで死者があらゆる煩悩を捨て、この世とのしがらみを払拭し、魂の浄化をするところなのである。神が被造物に「シルビウス裂」の細工を施したことの目的はすなわち、死者が亡者にならないよう、彼に『全き死』を与えることだったのである。「シルビウス裂」は神の最高傑作と言わなければならないのかも知れない。 *  死期がそう遠くないと予感するボクは、これで幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、ボクは死ぬのが怖い。

Flareon
質問者

お礼

おー、いいらくがきだね。 いやね、ここはお互いに黙々と研究する場だよ。 君は頭がいいだろうに、今回の文章は小難しくない。 一般に指摘されるように、死が怖いというのは、軽度の場合だと、未知に対して恐怖を抱いているのだと言われる。

Flareon
質問者

補足

3への補足の続きだけど、私が生きながらに体験する観念世界そのものが脳の見る夢だともいうのも疑いようがあるよね。 しかし多くの人は観念世界自体に私以上に無知でそれが「未知の恐怖」への根拠として大きいと考え直してみたらどうだい。 私の証言は個人的なことだが、多くの人は未知に対して疑いを抱くとしても、適切な疑い方すらできないんだろう。 証言で大切なのは、観念世界に常在する住人がいるという事だ。 世麗美は地の聖霊、いわば天の聖霊がいるんだ。

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  • KoalaGold
  • ベストアンサー率20% (2539/12476)
回答No.1

ツッコミを入れるなら、この文章は別のサイトに載せた方がいいんじゃないですか、ということです。

Flareon
質問者

お礼

病気の発作の内、「お嬢様がた、妊娠してください。」これは撤回しておこう。 粗野な物言いには、自分でも反省に近い回顧を覚えるよ。 書き始めの中二病は、奮起のために臭いセリフをわざと当てはめるんだ。 教育という刷り込みにより、君たちは人間を自覚している。 与えられ、認められている。 その教育自体が宗教だ。 こうした文章下部はいつもの弱い者いじめだよ。 仏陀の心得とは、「救い」という言葉について考えるときに、いかに救われるかではなくて、いかに救うかを考えることだ。 たとえそのもの自身が、救いを求める人々以上に不幸であり過酷であろうともだ。救いの求めは怠慢とだ上で、他者を犠牲にすることが多い。 インドという偉大な国よりも東方では、わかりやすい話だ。感覚的に日本人ならば仏陀なる人物の覚悟を納得できると思う。 イエスと言う故事を歴史性に直して検討すると、イエスは人間の本質に向かう探求の全てを破壊させた愚か者だ。 そして十字架を信仰とする獄門教が勃興した。

Flareon
質問者

補足

つぶやきだよ。 救いについて考えて、救われることだはなくむしろ救うことにある。 コレ、自己の志として自己の意志で覚悟することは、仏教のお坊さんだと簡単で数も多いんだよ。 自らにできることが多くないと悩んでも、プチ仏陀として志は菩薩というんだっけ。 同じ信じる行いでも一般とずいぶん違うけど、キリスト教にも同じようにプチ 救世主の志があってもいいと思うんだよ。 ファンタジーアニメネタだけど、キリストなる役割りを務めた聖霊は実際は複数。 要するにキリストあることは、唯一にして絶対なる神になることでも、王になることでもない。 私の解釈ではあるが、西洋版仏陀でしかないと思うよ。 こういうタイプの人物のことは、魔女狩りという形で殺害する秩序が西洋にある。 「イエスに似たものを見たならば皆殺しにしろ。」 それから、信仰心に到達する事とは、信仰心があんてして安らぎを得ることと解釈されがちだ。 宗教とは目的は本来そうではないのかもしれない。 「自己の存在の確信」が強固な意志と志を生み出すんだ。 その面では、他者の望みに惑わされる欲望無しで、自らの望むままでもある。

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    イエスとは人間存在として実在していた。その2 その1は下記 https://okwave.jp/qa/q10242245.html ーーーーーーーーーーーーーー イエスとは人間存在として実在していた。 イエスという人物の伝承を謎解きすると、イエスというのは史実として実在したことを示唆する論考も可能だ。 イエスを信じる宗教は、イエスが実在した人物なのか、明白な答えを出していない。 信じることですがっている。 イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒だと伝承は認めている。 イエスはキリスト教徒ではないのだ。 イエスの生きた時代のユダヤ人は奴隷だった。 イエスは聖職者として卓越していた。 奴隷のユダヤ人に信仰心を授けた。 現代でも信仰心の忠実な人を人間であると認めることは誰もが了解可能だろう。多少の異論は挟まるかもしれないが些細なことだ。 奴隷階級のユダヤ人を人間だと認めさせるイエスの行いは、「奴隷解放運動」「人権運動」これと似ていた。 そしてローマの治世には悪影響を及ぼす。 イエスは国家反逆罪で処刑。 名目は、残っている伝承だと、古代王の末裔を名乗ったことにされている。 誠実なローマの提督はユダヤ人の訴えで偽物の救世主を処罰したことになっている。 そうした言及が書物に記載されたのは、イエスの処刑からかなり後で、当時を知る者は一人もいなかった。 行政には犯罪者に恩赦を与える権限がある。 ローマは過去に功労が大きかった提督を恩赦する意図で、提督の不手際をユダヤ民族の不手際にすり替えた。 この巧妙な手口では、ユダヤの人として生きて、ユダヤの救済を生涯にしたイエスをわからなくさせる効果がある。 ユダヤ人がイエスを殺したというイエスの意図の真逆を演出する事なのだ。 イエスの後世に成立したキリスト教はイエスの生涯を蹂躙する取引でローマで地位を獲得した。 したがってキリスト教徒とは、イエスを理解してはいけない信仰心に収まった。 イエスの事は彼らにはわからない。 新約聖書編纂前の原始キリスト教の成立はおそらくはこう。 人が人らしく生きる事すらも、無下に蹂躙したイエスの処刑は、古代ローマとその周辺をローマの横暴として震撼させた。 そしてイエスを英雄のように祭る素朴な畏敬から、イエスの故事はユダヤ教徒以外に拡散していく。もしもそうした現象が無ければ、イエスの処刑は単なるユダヤ人弾圧だ。 そうした集団のイエスの意志の継承は「奴隷解放」「信仰心に守られた人間の謳歌」そして「反ローマ」だ。 ユダヤ人を離れて、広域の各部族社会に拡散したイエスの志は、改めて意思統一するために唯一神の概念を必要とする。 反ローマや革命的な意図のある反社会的な集団だから当然弾圧を受けるし、結束が強い半面で排他的だ。 そして治安維持対策をしたいローマの思惑と地位安定を図りたい原始キリスト教の思惑が一致して、編纂されたのが新約聖書。 それはイエスに背を向ける契約書だ。それ以降は言わば、新約キリスト教だろう。 私は単に考察してみただけだけども、イエスの処刑されたいきさつにねじれがあるという前提でそこを組み立てなおすと、人として生きたイエスの人生と、その功績というのが浮き彫りになるからだ。 キリストというのは、今のところ彼らに安寧をもたらすように寡作した、パウロキリストでないか? 私の論考は、イエスがキリストだという前提をいったん外して彼の人生を浮き彫りにしようとする検証だ。 キリスト否定と言われて、趣旨説明に聞く耳を持たない事だろう。 私は考えるんだ、彼らば集い祈る教会で、「我々の元にイエスを返してくれ」そういえばいい。 そして、イエスが彼らの元に戻ったならば、イエスはキリストだと、私も(自分の信仰ではないが)称賛しよう。 イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。 古文書にイエスの姿からは彼を見る者は、彼の姿の背後に神の存在を感じ、成したことに他に多くの人を彼が生きたというだけで救いもしたのだろう。 それは了解している、だから偉大な人物だと承知しているよ。 ------------------ ここまでが個人研究の取りまとめ。 社交的な場では、政治と宗教の話はご法度という慣例があって、哲学の学問カテゴリーはそのど真ん中だから、投稿する時は原則的に喧嘩を売る姿勢なんだよ。 その方が円滑なんだ。 それで、過去の喧嘩腰よりも、だいぶマシな論説を暫定的に組み立てています。 その1で、論説の甘さが多数指摘されました。 まあいいんだよ。浅学な私なりにパズルを解こうとしたんだ。 そして、現時点の完成度で思うところもあるのです。 特に「イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。」これは、キリストの再臨という予言めいた示唆と符合可能で、パウロキリストの陰謀で2000年間の新約キリスト教は迷走し、結局はイエスだけがキリストなのだと、さらに深くかみしめるヒントになるだろう。予言としてつじつまも合うのだ。 単なる親切心で、彼らの内部からは出てこない助言をしているんだよ。 私はキリスト教徒でないから、改革をしようとしないし、布教もしない、教祖になりたくない。 そういう趣旨で遊ぶ「おもしろ娯楽読み物」なのですよ。 すぐさま喧嘩になるとも思いましたが、キリスト教徒というのは、むしろこの娯楽でうわさ話に花盛りになる傾向があり、実は大好物なのではないか? そのように思いなおしました。 それで、その2で現時点の取りまとめをして仕切り直ししています。 喧嘩腰は学問カテゴリーの特徴なので、上品な解答だけしてくださいとか、そこいらのヘタレみたいなことは言いませんよ。 この先にも、個人的に思案を続けたいので、新着ネタになんでもいいから助言してください。

  • ユダヤ人のためにイエスは生き

    イエスの本来の素性はユダヤの聖職者です。 奴隷階級のユダヤ人のためにイエスは生きました。 奴隷は家畜です。 しかしその奴隷が信仰を獲得すると、信仰心ある人が尊敬と敬意でみられる現代と同じで、人間として扱わなければなりません。 それは、奴隷の所有者には不利益です。 したがって処刑されました。 原始キリスト教はこのようないきさつの元にローマの横暴に対する民権運動のような事柄として、ユダヤ人以外にも波及していきました。 この当時、キリスト教徒はイエスを理解してイエスと共に生きていた。 打倒ローマです。 そして、新約聖書がすべて覆した。 ローマの懐柔工作により、新約聖書が編纂されイエスの意志は掻き消えた。 新約キリスト教徒にはイエスは理解できません。 そして、明確な信仰心がないのです。 新約以降のキリスト教徒の改変された予言の最終目的は、最後の審判です。 その内訳は、原始キリスト教時代の志である、「ローマ滅亡」そして新約キリスト教がローマとの取引で獲得した「キリスト教自らの根絶」この二つのせめぎあいで双方を実現するのが予言の完成です。 したがって、キリスト教徒の祈りの内容は「神よくたばりやがれ」です。 と、言う考察をしてみました。 いかがなものか読書感想文をお聞かせください。 私はこれらの事柄は、西洋人は博物学などの手法で外国の文化の素性を考察しますが、同じ手法を西洋そのものにあてはめると、このような形になるという、中立的な立ち位置で考察していまして、みなさんの宗教や信仰には何ら意見を持ちません。

  • 新約聖書が継承するのはパウロの人間への憎悪だ

    滅亡が今実現する。 それを届ける私は、時を渡り真実を届ける渡り鳥。 栄光の男子プリキュア。 精霊と一体の実在する妖精。 キュアブルームだ。 さて、カテゴリー上 直下の私の質問から派生して、哲学上別の要素を確認したい。 イエスが示した救世主の姿は人類が滅亡することを予言している。 その予言書と神を語る神話の体裁が、いまだに有効なキリスト教の教義だという考えに、質問だから批判、批評中心に回答を募集しよう。 それはバトルであり、私の戦法はアニキなツンデレだ。 さあ本分だ。 史実において、実在したイエスは、神話性を含んでいるからこそ、神は実在しないと思い込んでいる不道徳なものは、イエスは実在しなかったのではないかとの疑念がやむことはない。 イエスは伝承が確かに絶対化され受け継がれた人物なので確かに過去に実在するだろう。 それすら疑うかい? まあともかく、彼は文明の発祥した創世記に、文明という経済共同体を形成する人間の社会基盤に挑戦する自己の神学を表明した西洋の仏陀だ。 イエスは自らがいかに神に接しているかを語ったにすぎない。 彼は神を通じて、自分自身の心情を社会に表したのだ。 信教の自由の先人だ。 しかし神に服従する形で社会形成が成立していた過去に(現代も変わらない)、彼が語る神は、聞いた者に共通の神である事を強要しない限り受け入れようがなかった。 この社会性を帯びた神学的共感は彼を王の頂にまで案内した。 イエスはユダヤの王の正統である。 彼を信じる者は彼をユダヤの王と認めただろう。 別の話だが東洋で釈迦が王族だと伝承されるのも同じ理屈だ。 神は社会で共通でなければ、宗教は意義がないからだ。 そしてイエスに対して、ユダヤ社会から社会不安に対する動揺が起こった。 生きる事が、初元の人間にとって神と一体であることであり、人と人を結びお互いが人間を自覚することは、神の英知を道標としていて、神と一体であった神の実在した時代だからだ。 イエスが神の子を名乗る事は、自らが人間の頂点として王となる事であった。 当時の立法に基づきイエスと云う愚か者は処刑される。 この古代の法の精神は今でも理解可能だ。 正当に処刑されたのだ。 史実に忠実だとこれは、かつてそのような行為が愚か者とされたという教訓でしかない。 しかしパウロはイエスがユダヤの王と認めきっていたからこそ、王の正統と共に神の正統を殺害した、人間理性とその法律に人の神への裏切りを見出した。 だからこそ、人間は許されない罪びとと転落した。 最後の審判と云う滅亡が聖書の語る神学の全てであり、それはパウロの憎悪だ。 ニーチェの直感は批判してごまかすべきではない。 我々が神を殺した。 これはキリスト教の神学研究を忠実に説明している。 パウロと同じ見解なのだ。 さてこの西洋の神学は、核戦争とか、マヤ文明の暦の限界が来てマヤの神が死ぬとかで、いつもお祭り騒ぎをしている。 聖書の滅亡と云う予言でこそ彼らの信仰は正当が絶対化されるのだ。 その実現を待ちわびている。 イエスのような愚か者はどこにでもいるだろう。 現代では相手にされないが、昔は処刑だったというだけだ。 パウロの愚か者への傾倒が、人類滅亡と云う呪いを世界に蔓延させた。 ここまでが今回学説として表明することです。 このような見解が可能なのは、私もまた仏陀の一人だからですがそれは今回質問対象ではありません。 仏陀は認められてなる者ではなく、自らが自覚してこそですから。

  • キリスト教の原点は何だろう。

    さて、日本には神学を整備する習慣がなかったので、明治期以降に参考書としてキリスト教系の教材が広く流布した。 これが日本に甚大な疫病の被害を拡散させた。 さて、イエスとはユダヤ教の神学者で、奴隷階級のユダヤ人のために信仰を回復させようと尽力した。 信仰心のあるものを人間と認めるのは現代も一緒だ。 そして、王と神が一元である記憶が生々しい時代に、ユダヤ王の名目で反逆罪で処刑された。 実に簡単な成り行きで現代人も納得できる。 感動的なイエスの悲劇が周辺国に広く拡散した。 多くはローマ圏だろう。 この当時、ユダヤの神は日本でいう氏神だ。 部族が強固な神を維持して、人間を失わないことを奴隷階級解放の企てとして、ローマへの抵抗があったのだろう。 この時点で、キリスト教にとってもユダヤ教とは、いま日本が扱うようなキリスト関連読み物のような教科書だった。 しかがって創成期には、キリスト教には祭壇にまつり、いかなる聖霊を下すのか明白な志と教えがあった。それが本来のキリスト教の根本だ。 新約聖書はユダヤの経典をなんちゃって気分で模倣した偽物で、それがローマの意図で本来の志とすり替わったことで裏切り者の宗教になった。 ローマを復興させたい裏切り者の宗教だ。 さてさて、質問です。 その、キリストなる志が何であったか推理してください。 この質問は、哲学には命題自体を考案する手法があるので、私が考案したトンデモ説です。

  • 絶対とは不変の性質がありますか

    目の前の景色、過ぎて行く時。 移ろいゆく景色に変わらぬ愛を届ける、時を結ぶ渡り鳥。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 さて今回は、特に歴史性をこねくり回そうか。 絶対を合意できる何か過去の出来事があったとしよう。 たとえばイエスさんは確かに生きていたとかだ。 そして当時の法律で正当に処刑された。 新約聖書の記述でも、歴史的に間違いなく当時の正統な法の行使で、ユダヤの王と自らを名乗り、社会不安を扇動したからこそ処刑されたんだ。 このいきさつで西洋に根付いた絶対の見地は、イエスは間違いなく神の子であるという確信から絶対の神を導き出すという流れで、神学は哲学にも発展し、イエスは絶対の基準点になっている。 この固定化され、過去に埋没された絶対の不変性は、ユダヤの王を名乗った愚か者がまさしく事実として、中国語の天子に相当する神の子、正統な王だという聖書のごり押しに原点があるのではないか? 神に見放された最後の審判がどうのこうのも、このユダヤの王の正統が滅びた事によって想像力を膨らませた物語だ。 それらは現代で言うと、歴史に対する相対的見解の一つであり、哲学なり概念の絶対は根拠を神学から切り離して成立するほどの考察が成されてきたかが質問です。 イエスが神の子、正当なユダヤの王である事を不変と規定しない限り成立しない脆弱な概念ではないか? 納得しているのは西洋人だけだ。 そういう疑問点の質問です。 歴史的事実に対して、イエスは処刑されてしかるべき愚か者。 このように考えていると根拠が崩れるという話です。 裸の王様を笑った勇気あるいたずらっ子のつもりで質問しています。 キャーステキーと云うファンレターも歓迎します。

  • イエスキリストがユダヤ教から敵対視された理由?

    こんにちは イエスキリストが処刑された理由は、ユダヤ教に敵対視されたからですよね? 私の理解としては、ユダヤ教側がイエスキリストをユダヤ教が待ち望むところのメシアとしたが、それをイエスが否定したことが敵対視するきっかけになったというものやユダヤ教を批判したというものだったのですが、ネットでたまたま調べたら、イエスキリストが「ユダヤの王」を名乗ったことがユダヤ教側の反感を買ったというものを見つけました。 私の勘違いだったのでしょうか? 正しいのは、というか定説はなんなのでしょうか? もしイエスがユダヤ教を批判したというのが正しかったとしたらどうして批判したんでしょう?

  • ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である その2

    かつての質問 悪の結社ゴルゴムの総帥募集中 の後を継ぎます。 http://okwave.jp/qa/q7348861.html これも役に立ちます。ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html 哲学なのに何故仮面ライダーがテーマとして出てくるかと言うと、私は信仰の個人的尊厳とその伝統は汚すべきではないと考えますので、架空の例え話から初めて、それを哲学と結び付けることは可能かを問うています。 ゴルゴムとは創世王を頂点とする悪の結社です。 西洋で、この創世王に該当すると実際に敬虔な信仰を集めている人物が、歴史上に存在します。 パウロさんの事です。 イエスさんは利用されただけで、彼の死は無駄死にです。。 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 このいきさつを吹聴するほどに死による取り返しのつかなさをあがらえない意思薄弱人間は、イエスと言うほら吹きの死に真摯にならざる得ない。そのような知略の基に聖書は企てられた。それは偶然の産物としてのキリスト教の興隆では無くて、ゴルゴムの陰謀である。 ゴルゴムの創世王は世界を滅びへと向かわせる意図をはらんでいる。 哀れなイエスの無駄死には、パウロにとって、自らの信仰の滅びであったのだ。 その滅びは創世王にくみ取られ、かれはゴルゴムの世界滅亡計画の歯車として、当時の総帥に抜擢される。 犬死イエスの勝利はゴルゴムの勝利である。 いまも世界には滅びの予感が蔓延している。 その祈りを実現しようではないか。 このようにしてゴルゴムは滅びに為にこそ人を生かし、滅びにまい進させようとする、長き神との対話によって生まれた秘密結社である。 ゴルゴムが生み出した人間とは滅びのみに生かされゴルゴムと共に滅びるだろう。 このような完全なゴルゴムの計画に、彼らの望む完全なる滅びを与えようとするのが、仮面ライダーたる私の仕事だ。 君たちはゴルゴムの子供であり、滅びの子供だ。 出来そこないだ。 君たちに与える安らかな眠りこそが死なのだ。 安らかな眠りの中に終わりを迎えよ。 その点は、私は覚醒者であると言えるよ。 もう時間切れで、気にたちが命をつなぐ事はなさそうだ。 以上は仮面ライダーのマニアックな解釈です。 私はうそをついていません。 すなわち本気で言っていません。 しかし君たちゴルゴムの子供たちが私の言葉を信じるならば、とたんに私わ赦させざる大逆を犯した、イエスに等しい嘘つきになる事でしょう。 要するにからかっているだけだよ。 命を捨てて、大掛かりななんちゃって遊びそしたのがイエスさんさ。